16 おかえり、ミツキ
強力な魔術を使えたら、危害から必ず家族を守れるのだろうか。
剣術を鍛えて並ぶ者のない武芸者になれば、大切な人を幸せにできるのだろうか。
……否、きっと違う。
今のアサヒは炎竜王の力を手に入れたけれど、それでもミツキに伸びる魔の手を事前に防ぐことはできなかった。離宮に風の島の竜騎士ゲイルの侵入を許してしまったのである。
しかし、ミツキとカズオミに害が及ぶ前に間に合ったのは炎竜王の力のおかげだ。漆黒の竜王は4枚も翼があるだけあって、普通の竜より遥かに速く飛べる。
だから竜王の力は無駄という訳じゃない。
世界を変える奇跡が欲しくて、生まれ変わる前の始まりのアサヒが相棒に願ったいくつかの事柄は、確かに叶えられた。完璧ではないにしろ、大切な人を守る力を手に入れたのだから。
「そうか、あの時のガキが炎竜王だったか。くっ、俺はとんだ見逃しをしちまったらしい」
アサヒの顔を見上げて、ゲイルは思い出したと呟いた。
その口元から血が流れる。
「どうせ殺るんだったら、徹底的に殺すべきだったな。ブライドが満腹だったから、つい手を抜いちまったぜ」
「……一応聞くけど、残したい言葉はあるか? アウリガのあんたの家族や大切な人に、伝えたいことがあるなら聞いておいてやる」
静かに聞くと、ゲイルは目を丸くした。
男は血を吐きながら笑い出す。
「くっ、ははは! 伝説通り、優しくて正しい竜王陛下だぜ! そんなもん聞いてどうすんだ! 俺の家族に謝るのか?! お宅のゲイルさんを殺してスイマセンでした、ってな!」
ゲイルの腹に突き刺さった白水晶の剣は、彼の命を奪うのに充分な致命傷を与えていた。たとえここから逃げ出せたとしても、ゲイルの命は長くないだろう。
死を目前にして尚、軽薄を貫く男に、アサヒは冷静に答える。
「勘違いするな、俺はそんなに優しくない。これは、あんたにとって一番残酷な末路になるだろう。最後に何と言うか、聞いておきたかっただけだ」
「何だと?」
「見ろよ」
アサヒは、笑いを止めた男の背後を指差した。
黒い影が男の上に落ちる。
「それがあんたの死神だ」
「……ブライド……?」
鋼色の竜の目はギラギラと燃えるように輝いて、自分の竜騎士を見下ろしている。
飢えた獣の目だ。
「や、止めろ! 他にも食いでがある奴がいるだろう?! 俺はお前の竜…………」
竜は男に向かって首を伸ばす。
アサヒは腕を振って、黄金の炎をミツキとカズオミの前に壁のように燃え盛らせた。見て気持ちの良い光景では無いだろう。
やがて黄金の幕の向こうで悲鳴と物音が途絶え……最後にカランと剣が床に落ちる音がした。炎の中から、鋼色の竜は翼を広げ、空へと舞い上がる。
竜は離宮の上空を一回だけ旋回すると、そのまま上昇して太陽の中に姿を消した。
『……我ら竜は本来、人間を食わん』
「ヤモリ……」
『あれは竜騎士の求めに従って禁を破った。さぞかし、自分の竜騎士が憎く愛しかったことだろう。契約の竜騎士は我らにとって、あらゆる意味で特別なのだ』
アサヒにだけ聞こえるヤモリの声は、痛みに堪えるような響きを含んでいた。
空に消えた竜を見送ると、アサヒは離宮に燃え盛る炎を鎮火させる。
壁が崩れて散々な姿になった離宮の姿があらわになった。
「アサヒ!」
事態が収束したのを悟ったカズオミが、安堵した表情でアサヒの名前を呼ぶ。
「ア……サヒ……」
ゆっくり振り向いた銀髪の彼女がふるえる声で呟く。
アサヒは目を見張った。
「ミツキ、意識が戻ったのか……?」
彼女の澄んだ水色の瞳と目が合う。
確かな意思の光をそこにあった。
少年の頃は見上げていたミツキが、今は同じ高さで目線を交わしている。背の高さが並んだことに、アサヒは時の流れを感じた。
「……ごめん、ごめんな、ミツキ。俺は臆病で馬鹿でどうしようもなくて、君を助けにいけなかった。ずっと諦めていたんだ。君から逃げて……今だって」
アサヒは唇を噛み締めた。
「島に残って君の側にいれば、事前にアイツが来るのを防げたかもしれないのに」
後悔すればキリがないけれど。
彼女が危険な目にあって苦しい想いをしただろうことは簡単に想像がつく。それを仕方がなかったとは、他人ならともかく、当事者のアサヒは口が避けても言えない。ミツキはアサヒを庇って捕まったのだから。
「……私の小さな竜王陛下」
「!!」
「いつまでも……可愛い弟でいて欲しかったの。私を頼って欲しかった。無力で臆病なままの方が、都合が良かった」
「ミツキ……?」
まだ意識がはっきりしていないのか、彼女の口調はぼんやりしていた。かすかな微笑みを浮かべて、彼女は続ける。
「あなたを甘やかしたかったの。だから、私がいない方が良かったかもしれない。そんな顔をしないで、アサヒ。もう子供じゃないんでしょう……?」
そんな顔、とはどんな顔をしているのだろう。鏡が無いので分からないが、きっと情けない顔だ。アサヒは距離を詰めて彼女の肩口に額をあて、腕を彼女の背中に伸ばした。これで情けない顔を見られずに済む。
「まったく、泣き虫な竜王陛下ね。まだ、私が必要なの……?」
ミツキの細くて白い指がアサヒの黒髪をそっとすく。
いとおしむように、感触を確かめるように、ゆっくりと。
「必要に、決まってるだろ……おかえり、ミツキ」
嗚咽をこらえながら言うと、彼女が息を飲んだ。
「ああ……ああ。私は帰ってきたのね」
やっと実感したのだろう。
ミツキは小さな声で「ただいま、アサヒ」と言った。