スタンプ三個目
六時十分に公園へ行く。若菜に挨拶をしてから中山の元へハンコをもらいに行く。若菜を見ながらラジオ体操。そして、若菜の家へ行く。
始めはなんだかんだと言っていた廣田もとうとう諦めたのか、毎朝園原に起こされるがままにラジオ体操へと参加していた。園原が若菜の元へ行く代わりに、廣田は沼岸のところへ行き、園原に言わせると"下らない"会話に花を咲かせている。
若菜はなんの疑いも持たず園原を受け入れており、園原の裏表ぶりを知っている廣田はついつい老婆心から若菜に対して忠告したくなってくる。しかしそのたびに何かに感付いた顔の園原に睨まれ、口を閉ざした。
「高校生なのに毎朝ラジオ体操に来るなんて偉いよね、由布司くんって」
「そんなことはないですよ。それより、何で若菜さんが来てる方が気になりますよ」
若菜は若いながらも司法試験に受かっているちゃんとした弁護士だ。園原が聞き出したところによると、数人の弁護士が籍を置く弁護士事務所に勤めているという。その事務所は、法廷へ立つことがない日は朝十時までに出勤すればいいというフレックス制なので、朝は比較的時間に余裕があるのだとか。
「僕は引っ越して来た時にあの人が挨拶に来てくれてね。その時に子供がいるなら是非って言われたんだよ」
そう言って若菜が指差したのは、廣田と長話に盛り上がっている沼岸だ。園原は頭の中に沼岸の働きに報いてやろうとメモし、頷いて続きを促す。
「でも僕は独り身だからね。だけどそれじゃせっかく挨拶しに来てくれたのに失礼な気がしたから、僕が来てるってわけだ」
若菜の律儀さというか、お人好し加減には流石の園原もつい苦笑してしまった。たかだか引っ越し挨拶の文句に対し、それを断ると悪いと思うなど、園原には考えられない。園原だったらバッサリと切って捨てていたことだろう。しかしそれをしないのが若菜の長所であり、園原に気に入られる原因とも言えた。
「朝は時間があるし、何よりこんな近くの公園でラジオ体操なんてやられたら、嫌でも目が覚めちゃうから」
ふざけたように笑う若菜も、完璧な善人というわけではなかったらしい。しかし若菜らしい理由に、園原はくすくすと笑う。
「若菜さんって面白いですよね」
「えー? そんなつもりないんだけどなぁ」
若菜と園原が、一回り以上も年齢が離れているとは思えない。園原は知れば知るほどますます若菜を気に入っていく自分に気付いたが、それをセーブするような理由は何一つ見当たらない。
廣田に言わせると、「園原が気に入ったものが手に入らなかったことはない」。というのも、園原は相手に合わせて自分を変えることができる技量がある。それだけに、相手が男であろうが女であろうが、彼を嫌うことはない。
ただし、それも彼が飽きてしまうとそれまでだ。流石に若いだけあり、園原は飽きやすい。しかも、園原は飽きてしまった途端に態度が豹変するという最低なヤツだ。それまではずっと相手に合わせて泣き笑い怒っていた園原が、突如として何の前触れもなく、ぱったりと相手に合わせるのをやめる。その現場を見て知っている廣田は、その時に相手が感じるものは、"恐怖"以外の何ものでもないと断言したくらいだ。
「いいなぁ。俺の周りにも若菜さんみたいな人がいたらもっと楽しかったのに」
「いいじゃん、今からでも遅くないよ。こうして知り合えたんだからさ」
廣田は園原を"努力する我侭大王"と評した。それも言いえて妙だ。園原は親に頼らず自分ひとりで何でもやろうとするので、そのための努力を惜しまない。それも生半可な苦労ではないことですら、平気で実行する。ただし、それもこれも自分の我侭なのだ。親に頼りたくないと思うことも、なんでもして見たいと思うことも、すべては園原の我侭だ。しかし残念ながら、"努力する我侭大王"の意味が分かるのは、彼の両側面を知る廣田以外にはいない。
「そう言えば、彼は由布司くんの友達?」
園原からしてみると、廣田は"器量の悪いやつ"という印象が強い。外見は上の上、英語もバイリンガルに喋ることができるというのに、廣田はそこそこでとどまる癖がある。癖というよりは自分からそう仕向けて、そこそこの位置にとどまっているという感じも拭えなくはない。どっちにしろ園原からしてみると、もったいないだけだ。
「廣田? そうですよ。沼岸さんのこと好きみたいでいつも向こう行っちゃうんですよね」
廣田と園原を並べて比べてみると、どちらかと言えば廣田のほうがモテる外見をしている。人懐っこそうに見える甘い笑顔を浮かべれば、童女でも老婆でも騙せるだろう。それに対して園原は目つきが鋭く、黙って無表情でいると怖い。しかし、彼も意図的に害のなさそうな笑顔を浮かべているときは人受けする。二人がそろっている図はどんな芸能人かと思うほどの画になることだろう。
「沼岸さん? って、あの人? 僕のところに挨拶に来てくれた人だよね」
「そうです。この辺りじゃ有名な隠居老人なんですよ」
「老人って、彼はまだ結構若いだろうに」
沼岸に関しては大小様々な噂が飛び交っているが、その実を知っている者はいない。あれだけ話をしているのだから恐らく廣田ぐらいは知っているのかもしれないが、廣田もそのことを大手に公表しないのだから余計噂は広がる一方だ。
「詳しいことは知りませんが、不労所得で生きていけから隠居している、という噂が一番信憑性がありますね」
どうしてこんな高級でもない一般的な住宅地にこれだけの富豪が住んでいるのかという点は、本人たちのあずかり知らぬところでまことしやかに囁かれている不思議の一つだ。
園原家はこのあたり一体の地主だからいいとしても、このあたりには沼岸や、彼に似たような性質の者がなぜか多く住んでいる。若菜が住んでいる家の持ち主も謎の金持ちの一人で、大昔に園原家からその土地を買って以来、代替わりしつつもそこへ住み続けている。
「へぇ。なんだか面白いね」
「そうですね。ところで若菜さんって夜は何時ごろ帰って来ます?」
園原が本気で行動を始めると、進めるのは驚くほど早い。そのペースによく相手が疑いもせずについてくるなと感心しそうなものだが、園原が相手にとことん合わせて演技しているとき、相手はその不自然さにすら気付かないのだ。まるで魔法にかかったのごとく、園原を信用する。
この性質を利用すれば、園原は立派な詐欺師にでもなれそうなものだが、生憎と彼は犯罪には興味がない。金は腐るほどある家に育った人間だけに、金を儲けるための犯罪というものに魅力を感じないのだ。
「今日? 今日は特に何もないはずだから、いつも通りかな。八時すぎだと思う」
「八時すぎ? だったらそれくらいにお邪魔しても構いませんか?」
犯罪を犯すなら、完全犯罪以外はやらないと豪語する園原だが、芸術的な完全犯罪が彼の中で計画されようものなら、本気で実行しかねないのだから恐ろしい。今の状態では、実行すると決めた園原を止める手段はなく、外野は黙って見ているだけとなってしまうだろう。
「いいけど、どうしてまた?」
園原を止める人物がいずれは現れることになるのだろうが、現状ではそのような人物はまだ存在せず、この悪漢をこの世にのさばらせているような状況だ。彼の所業のすべてをを知る者たち、また、その被害にあった者たちからすると、一刻も早い救世主の登場を待ち望んでいる。
「いえ、今日は夕食が一人なので、ご一緒できたらいいなと思って」
そんなことは露も知らない若菜は、園原のもじもじとしたいじらしい演技にニコニコと笑顔を浮かべて頷く。
「なんだ、そんなこと? 由布司くんさえ良かったら、外で一緒に食べようか」
「え? でも……」
「オジサンがおごってあげるから。八時に駅前待ち合わせでどうかな?」
親切心から言ってるのだろう若菜の言葉も、その腹の中では計算済み。表面上はいじらしく微笑なんかを浮かべている園原だったが、その腹の内ではガッツポーズでもとらんばかりにニタニタ笑っていることだろう。
「はい。じゃあ八時に駅前ですね。遅れないように気をつけます」
「あはは、僕が遅れたらごめんね」
支度のために自宅へと去っていく若菜の背中を見送る園原の背中に悪魔の羽が見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
ものっそいグダグダで申し訳ない。
次からはストーリーが見えてきたので大丈夫かと。