スタンプ二個目
若菜が住んでいるという洋館の中は薄暗く、夏だというのにひんやりとした空気に満ちていた。きっとこんな雰囲気だから小学生に"ホーンデッドマンション"などと呼ばれたりするのだろうが、大人の目線から見ると、趣のある魅力的な館だ。
「勝手に見ていてくれて構わないよ。僕はちょっと支度をしてくるから」
「あ、はい。ありがとうございます」
自分に対して敬語で喋る若菜に違和感を感じた園原は、自分が高校生であり、敬語を使う必要はないと説き伏せた。若菜は笑って「高校生に見えない」と園原を評したが、実際園原を知らない人間からすると彼を高校生だと見抜くものは少ない。
「若菜さんね……」
ポケットに入れっぱなしだったケイタイ電話が着信を知らせ、パカリと画面を開くと、電話ではなくメールが一通届いているとの表示がある。差出人は見なくても分かった。
メールボックスから届いたばかりの未読メールを開くと、想像通りに差出人は廣田。内容も想像通りに、「何を考えてる?」とだけだ。園原はニヤニヤと返信を打ち、送信が完了したのも確認せずにケイタイをポケットの中へと落とし込んだ。
頭が良かったのと家が富豪であったことから、何をやっても許される立場にいる園原は、いつも何か思いつくとその場その場で行動に移す。その所為で彼が何を考えているのか周囲の人間には一切理解できず、彼が考えを行動に移した後でその意図を知るのだ。
彼が素行が悪いと言われる原因もそこにあり、同時に頭がいいと言われる原因もそこにあった。
「由布司くん。朝ごはんは食べた?」
普段自分のスペースとして利用しているのだろう部屋からひょいと顔をのぞかせた若菜は、楽しそうに部屋の中を眺めている園原に気軽に声をかける。彼の家と彼の性格を知っている者ならばそう気軽に声をかけられるようなものではなかったが、生憎と若菜と園原が出会ったのはつい五分前ほどだ。
「いえ。でもお構いなく。若菜さんも忙しいでしょうし」
「いや、ぜんぜん平気なんだけど、由布司くんが食べないって言うならそれでいいし。無理は言わないし。そうそう。由布司くんも僕に敬語使わなくていいよ」
園原が振り向くと、若菜はすでにスーツ姿に着替えていた。しかし、まだ頭の寝癖だけはついたままだ。もしかしたら本人も気付いていないのかもしれない。園原は、本人が気付くまでは言わずにおこうと、なるべくそれを見ないように心がける。
「そんな。若菜さん年上じゃないですか。タメ語なんて」
「そう言われると傷つくなぁ。僕そんな年上に見える?」
「えっ? おいくつなんですか?」
ハッキリ言って、園原は学校外で外面だけはいい。ニコニコと人のいい笑みを浮かべ、謙虚そうにしていれば相手は油断して思わぬところでボロを出したりするものだからだ。園原は事実まだ子供であることを武器とし、上手く大人の社会を渡っていた。
「うーん、君らにとって見ればオジさんかなぁ。三十一だよ」
「三十一? もっとお若いかと思ってました」
「あはは。お世辞はいいから」
「お世辞なんかじゃありませんよ。若く見えますって、若菜さんは」
癖なのか、若菜はスーツのジャケットの襟を正し、そこについているバッヂをさりげなく指で確認する。園原はちらりとそれを確認し、その話題に触れるべきか悩む。ジャケットの襟元で金色に光り輝くそれは、ひまわりに天秤。まさしく弁護士バッヂだ。
「オジさんをからかわないでくれよ、若者」
「はは。三十でオジさんとか言っていると、他の方に失礼に当たりますよ、若菜さん」
園原はふと今気付いたとばかりにきょろきょろと辺りを見回す。その動きに若菜が首をかしげる。
「あ、いえ。時計がないから、今何時なのかなって」
「あぁ、僕はあと十分くらいで出るけど、由布司くん予定あった?」
時間が限られた中ではすべての情報を探るのは不可能だ。園原の頭の中では、時間をかけてゆっくりとやっていく長期計画が練られていた。しかしそんなことを露も知らない若菜は、狼に騙されているとも知らぬ赤頭巾ちゃんのようにきょとんとして園原を見ている。
「折角若菜さんに知り合えたのに、時間がないですね。まだ聞きたいこととかあったのに」
「はは。じゃあ明日の朝もくればいいよ。どうせラジオ体操には行くからね」
ただ教師に命令されたからといって大人しくラジオ体操に出席していたのでは面白くないと思っていた園原は、いいところにラジオ体操へ赴く口実ができたとにやりと口を笑わせた。
「ありがとうございます。じゃあ、また明日お伺いしますね。今日はお邪魔しました」
「いえいえ。こちらこそ、引っ越してきたばかりだから一人でさびしかったんだ。話しかけてくれて嬉しいよ」
それこそ園原の計画通りの返答だ。園原はにっこりと人を疑わせない笑顔を浮かべて頭を下げた。
「じゃあ、いってらっしゃい、若菜さん」
園原由布司の友人と聞かれれば、まず一番に名前を挙げられるのが、廣田公平だ。廣田は身内に外国人がいるだけあり、英語は堪能だが、そのほかの教科は並みの上といったところ。その分容姿には恵まれ、週変わりに彼女が違うというような状況のときすらあったくらいだ。
廣田は自分では問題のない"普通の生徒"という立場でいたつもりであったが、園原の友人であるというだけで教師陣からは目をつけられ、挙句には策士な園原に振り回されるハメになっていた。
「オマエさぁ、いい加減オレを巻き込むのやめてくんない? 成績に響くのよ、オマエといると」
「ふぅん、そうなんだ。大変だね」
廣田は基本的に頭の回転のいい人間が好きで、園原はその部類に入るほうなので仲良くしていた。しかし、園原の暴挙は、流石の廣田でも目を見張るものがあった。
まず園原の暴挙で有名なものといえば、学校で定期的に行われる定期テスト。普段授業への出席率は恐らく三十パーセントにも満たないだろう園原は、定期テストを休んだことはない。ただし、回答を済ませると許可もなく帰って行く。それでいてテストの点数は満点に近いというのだから教師泣かせもいいところだ。
しかし、園原は普通に回答するだけでは終わらない。問題に間違いがあれば細かくそれを指摘するわ、質問の意味が少しでもおかしいと回答しないわとで、ハッキリ言って迷惑千万。不人気な教師のテストの間違いを指摘したときなどは密かに生徒からエールがあったものの、園原のこの行いを推奨している生徒も少ない。
「で、なんなの、今回は」
園原は学校に行っていないだけあって、様々なところに顔が利く。洋服や身の回りのアクセサリを同一ブランドで揃えているのも、アパレル関係にコネがあるからだ。
しかし、ここが園原のポリシで、彼は家から一銭も金をもらってはいない。服を買うのも、遊びに行くのも、すべて自分で稼いだ金を使用しているのだ。それも、寝る時間を惜しんで使ったバイトでだ。だが、その涙ぐましい努力を知っているものはほとんどいない。彼が富豪の一人息子とだと知る者は全員口をそろえて親の金だと決め付ける。
「俺あの人気に入った」
「へぇ、そう。良かったね」
家も成績も平々凡々である廣田は園原の環境がうらやましいと思ったことがないと言えば嘘になるが、彼の立ち位置に自分が立ちたいかと言われれば即座に否定できる。一般人として育った自分には恐れ多い立場だ。
「何だよ、つれないな。沼岸とイチャついてたくせに」
「イチャつくとか言うなよ。オレはあのジィさんをソンケイしてるの」
廣田の目からすると、園原はハッキリ言っておかしい。彼のセンスはまぁいい。しかし、彼の好きな人間のタイプとなると決して理解はできない。その逆もまた同じなのだが、互いに同タイプが気に入る者同士が一緒にいるのも後々面倒を引き起こしかねないのだからよい結果なのだとも言える。
「へーへー。まぁ俺の見えないところで乳繰り合ってくださいー」
「オマエなぁ……」
園原は廣田といるときはこうしてお茶らけていることが多いが、一歩外へ出た途端、きりりとして隙のない男に切り替わる。こんなにきっちりと切り分けられるというのはある種役者のようで、隣で見ている廣田は時に感動してしまったりする。その使い分けをしているとき、園原は若くも年老いても見えるのだ。
「でさ。お前と沼岸取り持ってやるから、こっちも手伝え」
「はぁっ?」
そして廣田が園原と付き合っている上で一番の謎がこれだ。突拍子もないことを突然言い放つ。そして、誰かが止めないと、いや、誰かが止めてもそれを実行する。園原が様々なところでコネを作ってこれるのも、この有言実行力があってこその賜物だろう。
「な。お前沼岸好きなんだろ? ならいいじゃん」
「ちょ、ちょっと待て! 誰が、誰を好きなんだって?」
常々廣田が思うのは、園原には常識が通用しないということだ。園原はその頭脳がものを言うように、一般的な常識は当てはまらない。自分がやるといえば、普通はやらないことをやる。服だって、女物だって平気で着る。男だって、平気で好きになる。しかもそれをやましいとか後ろめたいとか思うことがない。園原にとってはそれが"普通"なのだ。
「廣田幸平が、あの沼岸……なんていうの?」
「沼岸正当! っても、オレは別にそういう意味で彼を好きってわけじゃ……」
園原には、常識は通用しない。
「好きなんだろ。ならいいじゃん」
そして、遠慮がない。
「それに、相手はもう五十過ぎだぜ。急がないと枯れんぜ?」
廣田は何度となく自分に「何故園原といるのか」と問いかけてきた。そのたびに園原によってその回答を邪魔され、横槍を入れられ、混乱させられて今までやってきた。
もし廣田が園原と出会う前の自分に一言言えるとしたら、こう言っていただろう。"園原由布司には近づくな"。