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5章 夢は夢

「双樹!」

 目が覚めると直ぐに、沙羅はパジャマのままで部屋を飛び出した。

 向かう先は、双樹の部屋だ。

 蝶番が壊れる勢いで、ノックもしないで思い切りよくドアを開ける。

「沙羅? どうしたんだ、パジャマのままで。何か、怖い夢でも見たのか」

 双樹は既に起きていた。ベッドの脇に立って、パジャマ代わりにしているブルーの無地Tシャツを半分脱ぎかけた状態で、不思議そうに沙羅に視線を投げかける。

 どうやら双樹は“あの”夢を見たりはしていないようだ。

 兄と妹の、悲しくて恐ろしい夢。

 いつもと変わらない双樹の様子に、少し肩の力が抜ける。

 でも、心臓はまだ激しく鳴り響いていた。

 あれは、本当にただの夢だったのだろうか?

 満月の呪いのような、あの夢は――?

 ただの夢であればいい。

 そう思いたいのに、胸の奥で沸き立つざわめきが、それを許してはくれない。

 このざわめきこそがエンなのだと、なぜか沙羅には分かった。

 そのざわめきを、自分のものだとは思えなかったから。

(でも、大丈夫。わたしたちは、大丈夫。だって、わたしは、双樹は……)

 言い聞かせている内に、蒼白だった顔に色味が戻ってきた。

 そうだ。たとえ、夢の呪いが本当にあるのだとしても、沙羅たちは大丈夫なはずなのだ。沙羅たちは、夢の中の子たちとは違う。

 それを。そのことを。ちゃんと知っている。

 だから、沙羅は尋ねた。

 答えは知っているけれど、ちゃんと双樹の口から聞きたかった。

 安心を得るために。

 きっと、照れつつも、答えてくれるはずだ。

 二人がよく知る女の子の名前を。

「教えて、双樹。双樹が好きな女の子は、誰?」

「沙羅。急に、どうしたんだ? 心配しなくても、俺が一番大切な女の子はおまえだ。花恋とは別に付き合ってるわけではないし、結婚しているわけでもない。おまえが望むなら俺は、一生おまえの傍にいる。考え見たら、別に結婚に拘らなくてもいいんだよな。所詮、紙切れ一枚のことなんだし、俺たちは元々、家族なんだから、何もしなくてもずっと一緒にいられる。何も心配しなくていい」

「どうして、そうなるの!? むしろ、心配しかないんだけど! もういい。もういっそ、永遠に黙れ、この変態!」

 安心を得るどころか、不安と恐怖の坩堝に突き落とされてしまった。いろんな意味で。抱きしめてこようとする双樹の手を払いのけて、気が付けば双樹の首元を締め付けて前後に揺すぶっていた。不安と恐怖を通り過ぎて、怒りが脳天まで突き抜けていく。

「ちょ、沙羅!? 締まってる……締まってるから……」

 双樹にバシバシと腕を叩かれて、沙羅はようやく手を離した。

 手を離してから、厳かに宣言する。

「今日の放課後。四人で作戦会議だから」

「…………? ああ! 遂に別れる気になったんだな? でも、四人で集まる必要はないぞ。木下を呼ぶ必要はない。大丈夫だ。沙羅は何もしなくていい。あいつには俺から伝えておくから。二度と沙羅に近づいたり話しかけたり視界に入ったり視界に入れたりするなと」

「……必要ないのは、むしろ双樹なんだけど?」

 これ以上、双樹と話していても埒が明かない。

 部屋が凍り付きそうなほど冷たく吐き捨てて、沙羅は双樹の部屋を出て行った。


 本当だったら、今日は木下とデートの筈だったのに。

 とても、そんな気分にはなれそうもない。

「双樹に愛されたら死んじゃうかも知れないとか、なんでそんな展開になるの? しかも、夢の中の子たち、むしろそれが幸せみたいな顔で死んでくし。意味、分かんない……」

 部屋に戻った沙羅は半泣きになりながら頭を掻きむしる。

 呪いなんて信じたくはないけれど、あり得ないと切り捨てることは出来なかった。

 あの嫌なざわめき。あれこそが。

 そんな思いを、捨て去ることが出来ない。

 ちゃんと制服に着替えて何とか登校できたのは、早くみんなで集まってこの不安な気持ちをぶちまけたい一心からだった。



 その日の午後。

 沙羅は生まれて初めて、授業をサボった。

 木下と一緒に。


 放課後は四人で集まるのが恒例だったが、お昼はいつも花恋と二人で、教室で食べていた。たまには、クラスの他の女子のグループに混ざったりすることもある。

 今日は沙羅一人で、よく一緒にお昼を食べる三人グループに混ぜてもらっていた。

 花恋はあまり食欲がないから散歩でもして適当に何か食べてくると言って、一人教室を出て行った。追って欲しくはなさそうだったので、沙羅は「放課後は来てくれるんだよね?」と確認するだけで見送った。

 花恋は視線を揺らして迷うそぶりを見せながらも、小さく頷いてくれた。どこかふわふわとした覚束ない足取りで廊下へと消えていく。

 沙羅も大して食欲があるわけではなかったが、無理やりお弁当を詰め込んだ。

 危うい様子の花恋を見て、自分はしっかりエネルギーを補給しなければと、半ば義務感に駆られてのことだった。

 食べ終わった沙羅は、ふと思いついて次の満月がいつかを調べてみた。

 エンも、夢の中の女の子たちも、みんな最期を迎える時には満月を見上げていたことを思い出したのだ。

 もしも、あれがただの夢でなければ。

 同じことが沙羅の身にも起こるのだとすれば、きっとそれは満月の夜なのではないだろうか?

 手の中のスマホに視線を落とし、指を走らせる。

(嘘……! 今週の、金曜日? そんなに、早く……?)

 今日は水曜日。

 夢が本当なら、明後日の夜には“決着”がついてしまうということだ。

 思ったよりも早いタイムリミットに、目の前が真っ白になった。

 なんだか、くらくらする。

 ほとんど無意識の内に指を滑らせ、木下に電話をしていた。

 今すぐに、何とかしたかった。

 コール音に焦燥が募る。

 早く。早く――。

 周囲の雑音は耳に入らない。

 耳に押し当てた携帯にのみ、意識を集中する。

『沙羅ちゃん? どうかした? 放課後のことなら、ラインも見たし、双樹からも聞いてる、けど。……それとも、何かあった? 電話してくるってことは、学校の外に出てるの、か?』

 驚きと困惑の入り混じった木下の声が聞こえてくる。

 今すぐ、ここですべてを話してしまいたい衝動を抑え込み、沙羅は用件のみを口にした。事情が分からない木下を思いやる余裕が今の沙羅にはない。用件を伝えるだけで、精一杯だった。

「木下君。お願いがあるの。今すぐ、双樹に気付かれないように、校門まで出てこれる? どうしても、今、話したいことがあるの」

 お昼休みは残りあと半分。

 ちょっと買い物に出るくらいなら兎も角、外で混み入った話をするとなると、確実に午後の授業には間に合わないだろう。

 簡単に終わる話ではないということは、沙羅の様子から木下も察したはずだ。もしかしたら、断られるかもという可能性に思い至り、胸の奥がジリジリした。

『……………………分かった。すぐ行くから、待ってて』

「あ、ありがとう! 私もこれから向かうところだから、急がなくてもいいから!」

 しばしの沈黙の後、木下は沙羅の望む答えをくれた。

 不安も焦燥も忘れて、胸が熱くなる。

 木下の声が、いつもより固いことには気が付かなかった。

 沙羅は一緒にお昼を食べたクラスメートに花恋への伝言を頼むと、カバンを手に教室を後にした。



 校門で合流した二人が向かった先は、噴水と花時計がある花白公園だった。

 平日の花白公園は人も少ない。人に聞かれたくない話をするには、丁度よかった。

 まだまだ残暑が厳しい9月の昼下がりだ。外は暑い……筈なのだが、何だか変に、体も頭も冷えていて、全く暑さを感じられなかった。それでも、木下に促されて、熱中症対策に途中の商店街で飲み物だけは買い求めた。

 道中、沙羅は無言を貫き通した。

 少しでも口を開けば、堰を切ったようにすべてが溢れ出てしまいそうだった。

 木下も、無理には話しかけてはこない。

 公園につくと、二人は手頃な木陰の下に向かい、芝生の上に腰を下ろした。

 木下は何も言わない。

 ただ、戸惑うような視線が頭上から降ってくるのを、沙羅は感じていた。

 そう言えば、今日の放課後は本当ならデートをする約束だったのに、反故にしてしまったのだ。まずは、それを謝らなくては。そう思うのに、唇はわなわなと震えるだけで言葉は出てこない。

 代わりに、大粒の涙がいくつもいくつも零れ落ち、顎を伝って制服のスカートを濡らしていった。

「え!? さ、沙羅ちゃん!? も、もしかして、双樹の言った通り、本当にオレと別れたいとか思ってる?」

 動揺している木下の声に、涙はピタリと止まった。

 予想外のセリフが聞こえた気がする。

 沙羅は無表情で顔を上げる。首がギシリと鳴ったような気がした。

「何? それ?」

「え? いや……双樹のヤツ。今日ずっと、ついに沙羅ちゃんがオレと別れる気になったとか言ってて……。『沙羅のことは俺が幸せにするから、もうお前は必要ない。放課後までに覚悟を固めておけ』って。沙羅ちゃん、昨日はそんなそぶり全然見せなかったし、またあいつの妄想が暴走しただけかと思ってはいたんだけど、わざわざ電話で呼び出されたから、もしかしてって。放課後の会議っていうのはフェイクで、あいつらに邪魔されないで二人きりで話をするために、別れ話をするために、呼び出されたのかなって……」

 木下の声と視線が所在無げに揺れている。

 その姿に胸を鷲掴みにされつつも、頭には一気に血が昇りつめた。

「お、おのれ、双樹め……! よくも。大体、元はと言えば、おまえが、そもそも……!」

 血走った目で、呪詛でも唱えるかのような声を洩らす。

 怒りのあまり、後半はほとんど意味をなしていない。

「……………………沙羅ちゃん?」

 不安そうな、でも微かな期待を込めた木下の声に我に返る。

 沙羅は涙を拭いて、ぐっとお腹に力を入れた。

「別れ話……とかじゃないから。双樹の言ってたことはまるっと忘れてくれていいから。そうじゃなくて、わたしが木下君を呼んだのは……呼ん……だのは…………?」

 変な夢を見たから相談をしたくて、と続けようとして、少し目が泳いだ。

 見失いっぱなしだった冷静さが舞い戻ってきた。凍結していた脳の回路が正常に動き始める。

 冷静になってみれば、変な夢を見たから相談したくて授業をサボるのにつきあわせた……とは言いづらい。

 嫌な汗が、体のいたるところから滲み出てくる。

 どうして、あの時の自分は放課後まで待てなかったのだろうか?

 冷や汗を流しながら目をウロウロと泳がせていると、隣に座っている木下の気配がフッと緩んだ。

「………………もしかして、前世夢劇場に進展があった……とか?」

「………………………………うん」

 お見通しのようだった。

 今すぐ穴を掘りたくなってきた。

 居た堪れなくなって、立てた膝の上に顔を埋め……た途端に、がばっと顔を上げて切羽詰まった表情で木下を見つめる。

「も、もしかして、呆れちゃった? 厄介なこぶが二人もいる上に、変な夢を見たとかアホな理由で呼び出して授業までサボらせちゃうとか。もう、わたしのこと、嫌になっちゃった!?」

 木下は呆気にとられた顔で沙羅と見つめ合った後、口元に手を当ててフルフル震えながら視線を逸らせた。

「……ごめんっ。ちょっと、気が抜けて……。てっきり、フラれるんだとばかり思ったから。大丈夫、呆れたりとか……沙羅ちゃん個人に呆れたりはしてないから。三人セットでは、まあ、全くないとは言わないけど」

「……セットにされた」

「沙羅ちゃん個人に対しては、嬉しい……かな?」

「嬉しい?」

 空を見上げている木下を、沙羅は不思議そうに見つめた。

「うん。双樹でも花恋ちゃんでもなく、オレに相談したいって思ってくれたんだよな? 授業をサボってまで。それ、すっげー嬉しい」

 木下は顔を赤くしながら、視線をそっと落とした。

 なんだか、自分がとても恥ずかしいことをしたような気がして、沙羅も頬を染めながら、膝の上に視線を落とす。

「えっと、それで、前世夢劇場、だよな。何がどうなったって? 実はまだ、最終回じゃなかったってことなのか?」

 恥ずかしさを誤魔化すように咳払いをしてから、木下が本題に切り込んできた。

 そうだった、と沙羅は居住まいを正す。

「うん、それがね。前世編は最終回だったんだけど、生まれ変わり編が始まっちゃったんだよ」

「生まれ変わり編?」

 瞬きながら繰り返す木下に、沙羅はこくんと頷いて、今朝見た夢の話をし始めた。

 信じてもらえるかは、分からないけれど。

 笑い飛ばされて終わり、にはならないだろうと、それだけは信じられた。


「え? なんで、そんな、前世の呪いみたいな展開に?」

「…………それは、わたしが聞きたい」

 大して長い夢でもなかったので、話は直ぐに終わった。

 聞き終えた木下は、心なしか顔を青褪めさせ、口元を引きつらせていたが、直ぐに思い直したように顎にしたに折り曲げた指をあてる。

「いやいや、待て待て、落ち着こう。たとえ、呪いが本当だったとしてもだ。双樹が道を踏み外さなければ、何も問題ないわけだろ? 確かに、あいつは救いようのないシスコンだが、あいつが好きなのは花恋ちゃんだろ? 何も、心配することないよな?」

「………………わたしもそう思って、朝、双樹の部屋に確認しに行ったの。双樹は、その夢は見なかったみたいで、いつもの感じで『俺の一番大切な女の子はおまえだ』とか、首を絞めたくなるようなことを言い始めて……」

 満月が明後日の夜だと知った時は猛烈な不安に襲われたが、双樹のことを思い出すと、怒りが込み上げてくる。

 そうなのだ。双樹が好きなのは、花恋のはずなのだ。沙羅はそれを知っている。だから、本当は、自分たちは大丈夫なはずなのだ。双樹がしっかりしていれば、沙羅がこんな風に不安になることはなかったはずなのだ。それなのに、双樹が夢に惑わされて、いつまでも世迷言を繰り返すから……。

 沙羅はぶつぶつと呟きながら、膝の上に爪を立てた。

「双樹……」

 木下は人差し指の先で米神をぐりぐりと押さえた。

「花恋ちゃんは、その夢は見なかったのか?」

「……分かん、ない。花恋、昨日よりも、様子が変だった。もしかしたら、花恋は見たのかもしれない。でも、何も言ってはこなかったから、わたしからも聞いてない。放課後に四人で集まったら、その時には聞いてみようと思ってはいたんだけど」

「そっか」

「うん」

「あと、気になるのは満月か。エンちゃんも他の女の子たちも、みんな満月の夜に死んでるんだよな? とうことは、次の満月の夜がヤバいってことか?」

「!? 信じてくれるの!?」

 沙羅は勢いよく上半身を隣に座る木下の方へ捻る。

「いや? 半信半疑?」

「半信半疑!?」

 木下は横目でチラッと沙羅を見てから空を見上げる。

「や、オレはその夢見てるわけじゃないからさ。流石に、前世の呪いはないだろという思いと、でも本当だったら洒落にならんという思いがせめぎ合ってるっていうか」

「う、うん」

「まあ、でも。ただの思い込みなら笑い話になるけどさ。本当に呪いなら、呪いなんかあるわけないって決めつけて何もしなかった揚句に最悪の事態になっちゃったりしたら、後悔してもし切れないし」

「うん……」

「だから、とりあえず。完全に信じたってわけじゃないけど、なんかヤバそうな次の満月が過ぎるまでは、一応、本当に呪いはあるって前提で話を進めた方がいいのかなって、思ってさ」

「あり……がとう……」

 やっぱり、木下は沙羅にとっていい感じに丁度いい答えをくれるなと思った。

「いや、お礼を言われることじゃないだろ? 結局は、半信半疑なわけだし」

「ううん。こんな話、オカルトマニアとかじゃなければ、普通は信じないよ。それに、口先だけで信じてるって言われるよりも、この方が信頼できる」

 じっと見つめていると、木下は照れたのか顔を赤くしながら視線を彷徨わせた。

「い、いや、その。ってゆーか、兎に角、双樹が正気に戻ればいいだけの話なんだよな、これ。呪いとは関係なしに、あいつのことはいい加減どうにかしたいし、どっちにしろやることは一緒だよな?」

「う、うん!」

 その通りだった。呪いがあろうがなかろうが、“あれ”は早急になんとかすべきだ。やることは一緒だし、やることは決まっているのだ。

 沙羅の中から不安と恐怖がしゅわしゅわと解けてなくなっていった。

「それに、あいつが好きなのは花恋ちゃんのはずだろ? オレたちが付き合い始めた頃だって、偶にいい雰囲気になったりしてたよな? いつからだ。完全におかしなことを言うようになったのは?」

 二人そろって考え込む。

 答えは直ぐに出た。

「夢の話で、ハヤはエンのことが好きらしい……とか言い出した時から、だと思う」

「…………あのバカ。夢と現実をごっちゃにしてんじゃねーよ」

 全くだった。

 二人で深いため息をつく。

「んーと、呪いが本当だとすると、次の満月がタイムリミットかも知れないんだよな。いつだ……」

 胸ポケットに手を伸ばそうとした木下を、沙羅は止めた。

「明後日の夜」

「え!?」

「次の満月、明後日の夜」

「明後日?」

 沙羅は木下を見つめて無言で頷く。

 流石に木下も顔色を失くした。



「別れたことの報告じゃないのか? どうして、おまえが沙羅の隣に座っているんだ?」

 現れるなり、双樹は不機嫌そうに木下を睨み付けた。

 駅の近くのファーストフード店。

 元々、放課後は四人で集まる予定になってはいたが、沙羅たちは午後の授業をサボってしまったし、集まる場所も決まっていなかった。沙羅たちは大事な話があるから授業が終わったら必ず来るようにと、場所を指定して、もう一度双樹と花恋に連絡をして呼び出したのだ。

 いつもなら、沙羅の隣は花恋の席だった。

 でも、今回は。沙羅たちの親密さを二人にアピールするために、並んで座ることにしたのだ。とはいっても、シート席ではなく椅子なので、体が密着しているわけではないが、まあまあの効果はあったようだ。

「別に別れてないし。授業をサボったことなら、どうしても木下君に相談したいことがあって、付き合ってもらったの。こんなこと、木下君にしか相談できなくて」

「そうそう。授業はサボっちまったけど、恋人にお願いされたら、彼氏として相談に乗らないわけにはいかないしな」

 二人のセリフは少々わざとらしかったが、双樹はそれには気が付かずに、全身から憤怒のオーラを立ち昇らせ、もう一度、射殺せそうなほどに鋭く木下を睨み付けると、木下の正面の椅子に座る。

「痛っ。おまえなぁ……」

 座る時に木下の足を蹴りつけておきながら、双樹は知らぬ顔を決め込んだ。

 花恋も双樹と一緒にやってきたのだが、こちらは木下には目もくれず、無言で沙羅の前の席に座る。思い詰めた様子が気にはなったが、あの呪いのような夢を花恋も見たのであれば、無理もない。

 まずは、沙羅の方から本題である夢の話をすることにした。夢の概要と、呪いが本当なら次の満月である明後日の夜がタイムリミットである可能性が高いこと、それからタイムリミットが過ぎるまでは呪いが本当であることを前提に一緒に考えて欲しいことを伝えた。

 話をしている間、花恋は真っ青な顔で、テーブルの上で組んだ自分の手を凝視していた。

 花恋も何か夢を見たのではと問いかけようとした沙羅の声は、双樹の鬱陶しい嘆きに邪魔された。

「そんな……。俺のこの想いが、沙羅の命を奪ってしまうかもしれないなんて。そんな、残酷なことがあっていいのか? 一体、どうすれば俺たち二人は幸せになれるんだ? 沙羅の想いに、答えてやれるんだ? おい、木下。沙羅が命を落としたりせず、俺と幸せに添い遂げる方法を、おまえも考えろ!」

 嘆きは途中から無茶ぶりになった。

 木下は無言で双樹の足を蹴り飛ばす。さっきのお返しの意味もあった。

 ため息をついてから、木下は双樹をヒタリと見据えた。

「双樹。おまえは誰だ? 自分の名前を言ってみろ」

「は? 何を言っているんだ、おまえは?」

「いいから、言え!」

「……古賀山双樹だ」

「そう。おまえは古賀山双樹だ。ハヤじゃない。夢に振り回されて、大事なものを見失うなよ。おまえが、古賀山双樹が好きな女の子は、誰だ?」

「俺……俺が、好きな女の子……?」

 双樹の視線が木下から、その隣に座っている沙羅へと移る。それから、沙羅の正面、双樹の隣にいる花恋へと。沙羅と花恋の間をフラフラと行ったり来たりしていた視線が、花恋に定まる。

「俺が、好きなのは……」

 沙羅はテーブルの下でグッと拳を握りしめる。

 だが、双樹の告白は突然立ち上がった花恋によって遮られた。

「止めてよ。こんなの、無理やり言わせても、意味ない……」

 絞り出すようにそう言うと、テーブルに手をついたまま、誰とも目を合わせようとしない。花恋を見つめる双樹の瞳が、次第に見開かれていく。

「花恋……。もしかして、おまえなのか? おまえが、沙羅に呪いを……痛っ」

 木下に思い切り脛を蹴られてテーブルに蹲る双樹に花恋は目を向け、泣きそうに顔を歪めた。何かを断ち切るように、ギュッと目を閉じて顔を逸らすと、そのまま何も言わずに席を後にする。

「花恋! ……木下君、ごめん! わたしの分も、殴るなり蹴るなりしておいて」

「おう。そっちは任せた!」

 沙羅は木下に後を任せると、花恋を追って店を出た。


「花恋!」

 店を出るなり、花恋は本気で走り出した。歩道を、駅方面とは逆に走っている。たぶん、駅の側から三人の男子高生たちが横並びで歩いてくるのが邪魔だったからなのだろう。花恋の進む方角には、パラパラと人影はあるが、立ちふさがるように邪魔をするような障害物はなかった。

 沙羅も慌てて、花恋を追ってスピードを上げた。

 テニスやらの球技は花恋の方が上手だが、ただ走るだけなら沙羅も負けていない。次第に差は縮まってきていた。

(でも、これ。無理やり止めたら転ぶんじゃ?)

 何とか、手を伸ばせば届きそうな距離まで追いついたはいいものの、その手を伸ばすのを躊躇ってしまう。普通に呼んでも、止まってくれそうもないし、何か花恋の気を引くいい方法はないだろうか、と考え。

(あ、これなら? でも、どうだろ……。あー、もう、いいや、ダメならダメで、次ってことで)

 思い付いた微妙案を決行する。

「花恋! 愛してる! わたしと結婚して欲しい!」

「!」

 花恋がスピードを落とす。数メートル進んだところで、立ち止まって沙羅を振り返った。

 沙羅も花恋の前で足を止め、逃げられないように花恋の手を握る。振り払われたりはしなかった。止まったらかえって息苦しさと熱気が襲ってきて、しばらくは何も言えずに、呼吸を整えることに集中する。

「とりあえず、どこか、入ろうか」

 少し落ち着いてきたところで、花恋に促されて沙羅は頷く。

 あまり人通りは多くないが、皆無ではない。

 好奇心が混じった視線。

 手を繋いだままなのも、原因だろう。

 分かっていながら、手を離す気にはなれなかった。

 たぶん、もう。花恋は逃げたりしないだろう。体力的に、もう一度追いかけっこをするのは厳しい。それは、花恋も同じはずだ。

 それでも、やっぱり。手を離す気にはなれない。

 繋いだ手に力を込めると、花恋も強く握り返してきた。

 話をしてくれる気はあるのだろう。

(……さっきのを、真に受けたからじゃないよね?)

 チラリと嫌な考えが頭を掠めたりもしたけれど、手は離さない。

 好奇の視線が気になる沙羅は背中を丸め、全く気にしていない花恋は堂々と、通りの先に見つけた喫茶店の看板へと向かって歩き始めた。


 レトロな内装の喫茶店には、沙羅たちの他に客はいなかった。

 窓際を避け、奥の席に向かい合わせに座ってアイスコーヒーを頼む。

 注文を受けた店員がカウンターの奥に引っ込んだのを見届けてから、花恋はスッと背筋を伸ばして沙羅を見つめてきた。

「沙羅の気持ち、受け止めた。つまり、私たちに必要なのは養子縁組じゃなくて、同姓でも結婚が可能な国へ移住しての……」

「そうじゃないから! あれは、花恋を呼び止めようとしただけで、本気じゃないから!」

 慌てた沙羅がテーブルの上に身を乗り出すようにして反論すると、花恋はテーブルに顔を伏せて震えだした。

 笑っているようだ。

 揶揄われただけだということと、笑うだけの元気を取り戻したらしいことに、沙羅は安堵して、椅子に座り直す。

「ごめんね、沙羅。沙羅が好きなのは双樹だって分かっているのに、さっきプロポーズされた時、嬉しかった」

 身を起こし、目じりを指で拭いながら、花恋は透明な笑みを浮かべた。

 花恋の美貌も相まって、まるで映画のワンシーンのようだったが、見とれる余裕もなく沙羅は固まった。体も、脳の活動も。

(何を言っているんだろう? この子は……)

 花恋はそんな沙羅の様子に気付いているのかいないのか、よく分からない告白を続ける。

「ライは、ライも。エンとハヤの気持ちに、薄々気が付いていた。気が付いていたけれど、気づいていないふりをした。だって、二人は、腹違いとはいえ兄妹なんだし。ハヤと結婚するのは、自分なんだからって。結婚しちゃえば、きっと何とかなるって、信じていた。信じようとしていた。……結局、二人とも失ってしまったんだけど。ライは、生まれ変わったら、今度こそハヤと一緒になりたいって、願っていた」

 凍結していた沙羅の脳内に、血が通いだした。ライのその気持ちは、理解が出来る。花恋の微妙な告白よりもよほど。

「ライが本当にエンを呪ったのかは分からない。でも、ライには動機がある。ハヤを奪ったエンを恨んで呪ったとしても、おかしくない。だから、私は罪を償わないと。私は、沙羅を応援する。たとえ兄妹でも、そんなこと気にすることない。沙羅の気持ちの方が大事だから。だから、何とかして、沙羅と双樹が二人で幸せになれる方法を、私も考えるから、何か方法を考えよう。呪いになんか負けないで。今度こそ、二人で幸せになって。絶対に何か、方法があるはず。沙羅のためなら何でもするから、絶対に諦めないで。双樹に、無理やりあんなこと言わせる必要なんてない。木下とも、無理に付き合う必要なんてないから」

「いや、ちょっと待って! わたし別に、木下君と無理に付き合ってるわけじゃないから!」

「アイスコーヒー、お待たせしました」

 何か痛い勘違いをされている上に、話の内容が迷走し始めて気が遠くなりかけたが、最期の一言が見過ごせなくて声を張り上げたところで、アイスコーヒーが運ばれてきた。

 微妙な沈黙が、テーブルを支配する。

 沙羅と花恋はテーブルにアイスコーヒーを並べる店員に目礼だけを返し、黙ってその背中を見送ると、アイスコーヒーに手を付ける。

 ガムシロップもミルクも入れないまま、一気に半分ほど飲み下す。

 一息ついたところで、花恋が先ほどの話を蒸し返した。

「沙羅は別に、木下が好きなわけじゃないんでしょ?」

 アイスコーヒーのおかげか、幾分冷静になったようだった。

 逆に沙羅は慌てだす。クールダウンしたはずなのに、頬を上気させて、広げた両手を軽く前に突き出して激しく左右に振り始める。

「え? ええ!? 好きとか、そんな! ま、まだよく分かんないし! そ、そりゃ、嫌いじゃないけど、好きかどうかと言われると、なんてゆーか、その!」

「…………………………………………」

 沙羅を見つめる花恋の顔から少しずつ表情が抜け落ちていき、最終的に地蔵のような顔になった。

「あ、あれ? 花恋? どうしたの? なんか、抜け殻みたいになってるけど、水分が足りないんじゃない?」

「うん……。なんか、悟りを開いた気分。夢に振り回される、か。確かに、そうだったかも。夢の中の三人と、私たち三人が、ごっちゃになってた。ごめん、沙羅。ちゃんと、沙羅のことを見ていなかった。沙羅のこと、分っていなかった。まあ、木下は別に悪い奴じゃないしね。よく知らない他校の男に掻っ攫われるよりは、まだマシか」

 花恋は一人で納得しながら、半分残っているアイスコーヒーにガムシロップを投入し、ストローでかき混ぜた。そのまま、残りも一気に飲み干す。花恋の変わりようについていけず、瞬きを繰り返している沙羅に、少し意地悪く笑いかけた。

「で。木下の、どこが好きなの?」

「いや、だから、好きって言うか……。あ、でも、木下君からすれば、わたしたちの夢の話とか呪いとかって、与太話もいいところだと思うけど、いい感じに真面目に付き合ってくれるとこ、とか」

「いい感じに、真面目?」

「うん。呪いとか、本当に信じてるわけじゃないと思うんだけど。でも、本当に本当だったら洒落にならないから、満月が過ぎるまでは呪いが本当にあるのを前提に話を進めよう――みたいな?」

「ああ、なるほど。突き放しすぎず、かと言って振り回されるわけでもなく、いい感じの距離感、かもね。確かに、そのくらいの方が頼りになるかも……」

「それと、もし夜中に怖くなったら、どんなに遅い時間でも構わないから、遠慮なく電話していいって言ってくれて……」

 沙羅は頬に手を当てて、体をくねくねさせた。

 花恋の顔から、再びいくつかの感情が抜け落ち……というより、剥がれ落ちていった。

「うん。ご馳走様。もう、いいや」

「え? ご馳走様って……」

「時間がないんだよね? 本題に入ろう」

「あ、うん」

 流石に沙羅も真顔に戻って、居住まいを正す。

 最も、花恋が“本題”を持ち出したのは、これ以上、惚気を聞きたくなかったからという理由も含まれていたが、それはそれだ。それに、口に出したことで、花恋の気も引き締まった。

「花恋は今朝、何か夢は見たの? 双樹は、見てないみたいなんだけど」

「うん。私は、見た。沙羅そっくりの女の子たちが、何人も死んでいくの。私、夢の中の私は、いつも何にも出来なかった。罪悪感と無力感に打ちのめされるだけの夢。呪い……とまでは思わなかったけれど、でも、そう言われたら、もうそうとしか思えない。今となってみると、私が夢に引きづられておかしくなっていたのも、そこからすでに呪いだったんじゃって気もする。言い訳、かもしれないけど」

 目を伏せた花恋に、沙羅は首を横に振った。

「ううん。分かる、気がする。わたし、わたしも感じた。夢の中でエンが感じてたのと同じざわざわした気持ちが、双樹といる時に湧き上がってくることがあった。わたしの場合は、双樹が残念さを暴走させてくれたおかげで、それ以上は引っ張られないで済んだけど。あとは、木下君のおかげかなぁ。わたしに彼氏とかいなくて、双樹がもう少し夢のハヤさんみたいにカッコよかったら、危なかったかもしれない。……そう考えると、夢の女の子たちが可哀想だな。お兄ちゃんに愛されるなら、たとえ死んでも幸せだって、本当に心から思っていたのかな。本当はそうじゃないのに、思わされていただけだったら、ひどすぎる」

「うん、そうだね。でも、まずは、私たちのことを何とかしよう。……って、邪魔したの、私か!? ご、ごめん。あの時は、双樹と沙羅は相思相愛だって信じ込んでいたから。双樹に無理やり私が好きみたいなこと言わせているって、それが、耐えられなくて」

「気にしなくていいよ。あれは、双樹が悪いし。たとえ、ライが呪いの犯人だとしても、そんなの花恋には関係ないのに。だから、花恋が気にする必要ないし、わたしも気にしてない。双樹も、今頃は木下君に説教されてるんじゃないかな。それよりもさ、双樹に無理やり好きって言わせることに耐えられなかったのは、どうしてなのかな?」

 花恋がしょんぼりと肩を落としてしまったので、場の雰囲気を変えようと、沙羅はあえて意地悪く切り込んだ。目論見通り、花恋は一気に茹で上がった。

「わ、分かっているくせにっ。うう、そうだよ。双樹のことが好きだから、本心からじゃない告白なんて、自分がみじめになるだけだから、聞きたくなかったんだよ」

 固く目を閉じ、真っ赤になって花恋は俯く。

 この姿を双樹にも見せてやりたいと沙羅は思った。

 微笑ましい気持ちで見守っていると、花恋は顔を上げた。熱を帯びた眼差しで沙羅を見つめる。

「明日、双樹にちゃんと自分の気持ちを伝えようと思う。出来れば、沙羅たちも一緒にいて欲しい。もし、上手くいったら、どんな手を使ってでも双樹の頭の中を私で一杯にして見せる。呪いなんか入り込む余地がないくらいに。沙羅のためにも、私のためにも、双樹のためにも。でも、上手くいかなかったら、その時はみんなで双樹をどうにかする方法を考えて欲しい。沙羅のために」

「花恋……。本当なら、告白は二人きりの時にやれって言いたいところだけど、付き合うよ。双樹が完全に目を覚ますまでは、一緒にいた方がいい気がするし。きっと、大丈夫。花恋が本気で本音をぶつければ、双樹だってきっと、今度こそ目を覚ましてくれる、ハズ。……。大丈夫、きっと、大丈夫。……まあ、でも、もしもの時のために、一応、次の策も考えてあるの」

「次の策?」

 呪いを何とかするためには、双樹に花恋への想いを自覚させればいいだけなのだが、沙羅と木下は今一つ双樹を信頼しきれなかった。

「うん。効果があるかは分かんないけど、これを突き付ければ、少しはわたしが本当に望んでいるものが何なのか、伝わるんじゃないかと思って。もしかしたら、ご利益、あるかもしれないし」

 そう言って、沙羅がカバンから取り出したものを見て、花恋は目を丸くした。



 木曜日の放課後。

 花恋の提案で、四人はカラオケボックスに集まっていた。

 個室だし、話を聞かれる心配もないし、つい声を張り上げてしまったとしても問題ないし、椅子じゃなくてシート席だし、というのが理由だった。

 ただでさえ余計なこぶが二人もついてくるというのに、告白の場所がそんなところで本当にいいのか、沙羅は心配になったが、花恋は譲らなかった。特に無理をしている様子もなく、何か熱意に燃えている。

(本人がいいなら、いいか)

 沙羅は大人しく引き下がることにした。

 L字型のシート席の、角の部分の両脇に、沙羅と花恋が陣取り、沙羅の隣に木下、花恋の隣に双樹という並びで座る。この並びも、花恋の指示だ。双樹は、意外とあっさりと花恋の指示に従った。昨日の一件については、朝の内に謝罪を済ませ、花恋からのお許しは得ていたが、やはり少しは気にしているのだろう。それから、沙羅の“下準備”のおかげもあるのかもしれない。


 昨夜の夕飯の後。沙羅は双樹の部屋を訪れ、一冊の本を手渡した。

 『誰にでも簡単に唱えられる般若心経』。

 それが、本のタイトルだった。

 沙羅と手の中の本を交互に見ている双樹に向かって、沙羅は口を開いた。

「双樹。わたし、死にたくない。それが、わたしの本当の願い。もしも、双樹が本当にわたしのことを好きなんだとしても、その気持ちよりも自分の未来が欲しい。それを、忘れないで。夢に惑わされてわたしが死んじゃったりしたら、後悔するのは双樹だよ。だから、ハヤの気持ちにもエンの気持ちにも惑わされないで。ちゃんと、自分の気持ちを見つけてよ。そうすれば、わたしたちは、本当は大丈夫なはずなんだから」

 沙羅はそこで一端口を閉ざし、双樹の手の中の本に目を落とす。

 それから。瞳に強い力を込めて、双樹を見上げる。

「でも、どうしても、間違った煩悩で頭が一杯になりそうなときは、これでも唱えて煩悩を完全に抹消してもらえる? 今後は、妹の顔が頭に浮かびそうになったら、すぐさまお経で上書きして。いい? 花恋で頭の中をいっぱいに出来ないなら、お経で頭の中を一杯にして。何なら、俗世のすべてを捨てて、仏門に下ってもらってもいい。わたしのために。可愛い妹のためだもん、出来るよね? お兄ちゃん?」

 自分の気持ちを煩悩呼ばわりされたことにショックを受けたのか、双樹は魂が抜け出そうな顔をしていたが、沙羅はそこで手を緩めたりはしなかった。

 沙羅の目の前で、さわりの部分だけを暗記するまで復唱させたのだ。

 今朝は、沙羅があげたのと同じ本を両手に持った僧侶たちに追いかけまわされる夢を見たらしい。

 ハヤやエンの夢を見て、心をフラフラさせたりしないだけでも、十分に効果はあったなと沙羅は思った。どうも双樹は夢に影響されて、エン同様沙羅も双樹を好きなのだと勘違いしている節がある。再び“前世”の夢を見て、夢と現の迷路に彷徨い込んだりしないだけでもありがたかった。


 店に入る直前、花恋は沙羅と木下にだけ、こっそりと告げた。

「おまえの出番はもうないんだって双樹に思い知らせるために、沙羅たちはなるべく密着して、そしてイチャイチャして」

 その時は真剣に頷いた二人だったが、いざ並んで座ると、どうしていいか分からなくなった。

 二人の距離は、あと約三センチ。

 花恋に言われた通り、なるべく密接しようとはしたのだが、これ以上は近づけない。店内は冷房が効いているはずなのに、二人の周囲だけ、異常な熱気に包まれていた。

 頬を赤らめて俯き、どちらかが体を動かすたびに、もう片方はビクリと身を竦ませる。そんなことを、さっきからずっと繰り返している。

 だが、それだけでも、十分に効果はあったようだ。

 斜め前でその様子を見せつけられ、血涙を流しそうな顔でわなわなと震えていた双樹の瞳から、フッと生気が消える。

 昨日の、花恋のように。

 短時間で効果が得られたのも、昨夜の“下準備”のおかげかもしれなかった。

 それだけでも満身創痍だったのに、木下とともに二人だけの世界に旅立ってしまった妹の姿にとどめを刺され、沙羅は自分のことを好きなのかもしれないなどという幻想は、今や欠片も残っていなかった。

 大事なものが遠くへ行ってしまった喪失感と寂寥感に打ちのめされていると、慰めるように花恋が体を寄せてきた。

 ピタリと体を密着させ、双樹の太ももの上に、片手をそっと置く。

「か、花恋?」

 驚いて隣に座っている花恋を見下ろすと、花恋は熱っぽい瞳で双樹を見上げていた。

 蒸気した頬。どこか思いつめたような、潤んだ瞳。

 目が合って、見つめ合う。

 花恋が、双樹を見上げながら、口を開く。

「双樹。伝えたいことがあるの。私、私は、矢沢花恋は、双樹のことが、好き。ずっと前から、小さい頃から、ずっと。双樹のことが、好き。ハヤもライも関係ない。あんな夢を見るずっとずっと前から、双樹のことが好き」

「花恋……」

 幼馴染の少女を見下ろす双樹の目には、最早花恋しか映っていない。ここがどこなのかも、直ぐ近くに妹と親友がいることすら分からなくなるくらいに、花恋しか見えない。

 さっきまで三センチの距離を巡って二人の世界を繰り広げていた沙羅と木下は、花恋が勝負を仕掛けたことに気付いて、固唾を飲んだ。文句のいいようのない花恋の告白に、打ち合わせ通りとはいえ、やはりここにいたらお邪魔なのではと思うのだが、今更動くに動けず、オブジェと化すしかない。

 ソファーの上で密着した体。膝に置かれた手。上目遣い。熱く潤んだ眼差し。

 これでまだ、俺には妹が……などと言い出すようなら、その時はもう、カラオケボックスを借りた一時間みっちり、マイクを使って般若心経の暗唱をし続けてもらうしかない。

「双樹。私には、あなたしかいないって思っている。沙羅のことを何よりも大事に思っている双樹だからこそ、私は生涯を通じて共にありたいと思っている」

(あ、あれ?)

 オブジェが揺らいだ。

 文句のつけようがなかったはずの告白は、明らかに迷走し始めている。更に信じられないことに、双樹の胸には最初の告白よりも響いたようなのだ。

 感極まった瞳で全身を震わせながら、膝に置かれていた花恋の手をとり、両手で握りしめる。

「花恋……。そこまで、沙羅のことを考えてくれているとは。俺、俺もだ。俺にも、おまえしかいない。二人でずっと一緒に沙羅を見守っていこう」

「双樹……! うん、約束……」

 すっかり盛り上がって抱き合う二人を見る沙羅と木下の目は、リア充を呪っているわけではないのに完全に冷めている。

「何、これ……?」

「おかしいよね……。絶対」

 望んだとおりの結果のはずなのに。

 双樹と花恋の二人を祝福する気持ちはあるのに。

 なんだかとても、やりきれない気持ちになった。


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