2章 ざわめきの行方
納得がいかない。
休み時間中の、クラスの女子たちとの会話を思い出して、授業中にも関わらず沙羅はむぅと頬を膨らませた。
沙羅の双子の兄、双樹の話だ。
昨日の放課後、双樹と花恋が花白公園を怪しい出で立ちで徘徊していたことは、あっという間に校内に広まった。他の学年までは分からないが、少なくとも、一年生はほとんど全員が知っているようだった。
ついでのおまけに、沙羅と木下がデートしていたことまで知れ渡り、双樹と花恋がなぜそんな奇行に走ったのかも、すっかり把握されているようだった。
精悍な顔立ちで成績も上位、運動神経も悪くない双樹は、女の子にモテた。花恋との仲が微妙なこともあって表立って騒がれるわけではないが、はっきり付き合っていると明言しているわけでもないため、あわよくばと思っているのか、月に何回かは女の子に呼び出されていた。最近では、たとえダメでも一瞬でも二人で話ができるから、という理由で思い切って告白してくる女の子が多いらしい。半分、イベント化している感じだ。
ちなみに、花恋の方も密かに人気はあるらしいのだが、フラれる可能性が高いと分かっていて告白に踏み切る男子はあまりいないようだった。男子の方が繊細なのかもしれない。
そんな双樹も、あれだけ痛々しいシスコンっぷりを見せつけたら、さすがに女の子たちの気持ちも醒めるだろうと思ったのだが。
なぜか、そうはならなかった。
ついに花恋と付き合うことになったのかどうかというのが、彼女たちが一番気になるポイントのようだった。
もっと、他に、気にするところがあるでしょう!
引きつった笑みであいまいな答えを返しながら、沙羅は胸の内で叫んだ。
当の本人の片割れである花恋はこの質問に対し「何言ってるの? 今は、沙羅が大事な時なんだから。自分の恋愛にかまけている場合じゃないのよ!」と答えて、質問してきた女の子たちをドン引きさせていた。
一応、双樹への恋愛感情を自覚しているらしい花恋に、少しだけ安心した沙羅だったが、それはそれとして。
花恋には普通の反応を返す女の子たちも、沙羅の「双樹はこれに輪をかけてひどかった」という呟きには、「双樹君、妹思いだよねー。いいお兄さんじゃん。愛されてるよねー、沙羅。羨ましい」などと目を輝かせるのだ。
解せぬ。
なぜ、花恋はダメで双樹ならいいのか。
彼女たちの脳内には、双樹を美化する特殊なフィルターでもかかっているのではないかと思う。
沙羅が直接話を聞いたのは、同じクラスの女子たちのみだけれど、恐らく、他のクラスの子たちも似たようなものなのだろう。
恋愛脳、恐るべし。
だが、もしかしたら。木下に告白される前の自分にも、似たようなフィルターがかかっていたのかもしれない。そのせいで、兄たちの残念ぶりに気づいていなかったのかもしれない。そう考えると、頭を抱えたくなった。
もしも、フィルターがかかったままだったら。「双樹たちがこう言っているから、やっぱり木下君とは付き合えない」などと言って、木下からの告白を断ったりしていたのだろうか。
早く目が覚めてよかったと、沙羅は心底思った。
断るにしても、その理由はない。
(どうすれば、二人も正気に戻ってくれるんだろうな)
頬杖をついてじっと黒板を睨み付けるが、授業の内容は全くと言っていいほど頭に入っておらず、ノートは真っ白なままの沙羅だった。
放課後は沙羅たちの一年二組の教室に集まり、沙羅がクラスの女子にもらった手作りのクッキーをみんなでつまんでいた。放課後にみんなで食べてねと渡されたのだが、彼女が本当に食べて欲しい相手は双樹なのは明白だった。同じクラスの女子からだけだが、こういうことはよくあるのだ。断るといつまでも押し問答を続ける羽目になるので、沙羅は観念していつもありがたく頂戴し、言葉通りにみんなで食べるようにしている。
気を利かせて、双樹だけに渡したりはしない。沙羅はあくまで花恋の味方のつもりだったし、大好きな兄を取られたくないという沙羅自身の嫉妬もあったかもしれない。だが、昨日の双樹のセリフを聞いた後では、そんな思いは綺麗さっぱり砕け散り、代わりにクラスメートへの同情心が湧き上がってくる。
アーモンドの入った厚焼きクッキーは、手作りとは思えない美味しさだった。たぶん、何度も練習したのだろう。
みんな、健気だなあ、と沙羅は他人事のように考えながら、クッキーを齧る。
女の子たちからの『差し入れ』はどれも、みな美味だった。きっと、みんな、ちゃんと味見をして自信作だけを『差し入れ』しているのだろう。
(その労力は他の男の子にかけてあげた方が、建設的だと思うな)
クッキーをありがたく味わいつつも、覚醒後の沙羅は割合シビアな感想を胸の内だけで呟く。
(花恋はいつも、平気な顔で差し入れのお菓子を食べてるけど、こういうの、気になったりしないのかなぁ。それとも、敵じゃないとか思ってるのかな? まあ、確かにそうなんだけど)
昨日の双樹の発言を思い出しながら、チラリと花恋を流し見て、沙羅は首を傾げた。
「? あれ? 花恋、どうしたの?」
花恋は、摘み上げたクッキーを口元に運ぶことなく、ただじっと見つめている。
(も、もしかして。ついに花恋にも、私を差し置いて双樹へ差し入れするなんて! とか思うような、普通の女の子的な感覚がついに芽生えて!?)
花恋の乙女的成長の可能性に沙羅は胸をときめかせたが、期待はあっさりと裏切られた。
「なんか、不思議な夢を見たのよね…………」
そう言うと花恋は、ぽいっとクッキーを口の中に放り入れ、むぐむぐと口を動かす。厚焼きクッキーは花恋のお口にもあったようで、眉が幸せそうに下がり、口元が緩んだ。
単に考え事をしていただけで、『差し入れ』に思うところがあったわけではないようだ。
クッキーには罪はないが、他の女の子からの双樹への想いに対しては、もう少し何かを感じて欲しかった。
「どんな夢だったんだ?」
消沈する沙羅に代わって、双樹が先を促す。
花恋はもう一つクッキーを味わってから、腕組みをして答えた。視線は双樹ではなく、机の上のクッキーに注がれている。
「子供の頃の…………夢?」
「なんで、疑問形?」
首を傾げながら答える花恋に木下がつっこむ。
「んー。私と、沙羅と双樹もいた……んだけど。なんか、服が、日本昔話に出てくる子供が着ているみたいなのだったんだよね……」
「まあ、そこは夢だし。あんまり、気にしなくていいんじゃないのか? で、不思議って、服のことか? それとも、内容? てゆーか、どういう内容だったの?」
興味を持ったのは、木下だけのようだった。
消沈している沙羅は、小さい頃の夢の話とかどうでもいい、むしろ今を何とかしてほしいと思っていたし、最初に話を促した双樹も、その後は何故か沈黙している。
もしかしたら、木下も花恋の話に興味を持ったわけではなく、ただ空気を読んだだけかもしれなかった。
幸いにも、花恋は気にした様子もなく、というよりは自分の夢に気をとられていて、沙羅たちの様子には気づいていないようだった。クッキーを凝視ながら、木下に聞かれたままに話を続ける。
「えーとね。昔っぽい服を着た小さい頃の私たち三人が、山の中? 森の中? みたいなところで、鳥の羽を探していたのよ。で、三人で一つずつ探し終えたら、それを沙羅が首飾りにしてくれてね。三人でお揃いの首飾りをつけて、仲良く遊んでいたんだけど。途中で沙羅だけ、知らない大人に連れて行かれちゃったの」
その時の気持ちを思い出したのか、花恋は少し涙ぐむ。
何と声をかけたらいいのかと木下が考えあぐねている内に、花恋は一人で勝手に復活した。キラリと瞳を輝かせ、話を続ける。
「でも、夢はそこでは終わらなかった! 美しく可憐に成長した沙羅と私たちは、再び! 再び! 再会するの! んー、沙羅と私は今と同じ年ぐらい? でも、双樹はなんか大人っぽくて実物よりの何割か増しでカッコよかったような……」
「それはまあ、夢だから美化されてたんだろ? え? で、結局、何が不思議なの? オレには不思議ポイントがよく分からなかったんだけど。あ、双樹がカッコよかったってトコ?」
「違う! そこじゃなくて。夢の中では、違う名前で呼び合っていたのよね。沙羅がエンで、私がライ。で、双樹はハヤって呼ばれていた。あだ名とかでもないし、全然知らない名前のはずなのに、それがやけにしっくり馴染んでいて。それが、なにか不思議な感じで……。どうしてなんだろう?」
「ふ、ふーん……?」
花恋と木下のやり取りを聞きながら、沙羅はギシリと固まった。背中に、嫌な汗が滲み出てくる。
鳥の羽。首飾り。
エンにライ、そしてハヤ。
同じような夢を、今朝、沙羅も見た。
夢の中で沙羅は、実物よりも数倍格好いい双樹に一目惚れし、その後すぐに、それが生き別れになっていた兄だと知って失恋する……みたいな、そんな内容の夢。
頭が痛くなってくる内容だったから、忘れようと思っていたのに。
どうして、その夢を花恋まで?
「花恋……。それと同じような夢を、俺も見た……と思う。そうだ、夢の中で俺たちは再会を喜び合っていた。つまり、沙羅を連れ去ったのは木下ので、一時は悲しい別れを迎えた俺たちだが、最終的にはまた三人で仲睦まじく暮らすようになるという夢のお告げに違いない。沙羅、おまえも同じ夢を見たんじゃないか?」
「見てません!」
即答した。
舞台俳優か何かのように、オーバーなほどの喜びを顔に表す双樹がこれ以上調子に乗らないように、努めて冷たく切り捨てた。冷たく冷たく切り捨てた。
夢なんか見なかった。
忘れる、とかではなくて、そもそも自分はそんな夢は見ていない。
沙羅は自分に強く言い聞かせた。
夢の中で双樹に一目惚れしたことが、二人に筒抜けになっているのではないかと考えると居た堪れない。
三人で同じような夢を見ていたことを不思議に思うよりもまず、夢そのものをなかったことにしたかった。
「そんなに照れなく」
「照れてません」
全くダメージを受けていない双樹をかなり食い気味に再度バッサリ切り捨てる。
「くっ。珍しく、花恋が夢の話なんて始めると思ったら……。結局、それが言いたいだけかよ! いつの間に仕込んでたんだよ!?」
どちらかといえば温厚な木下も、これにはさすがに声を張り上げる。握りしめた両方の拳でテーブルをバンバンと打ち鳴らしているが、テーブル上の包み紙の上からクッキーがこぼれ出ない程度に加減されていたため、本気で怒っているわけではないのだろう。
「仕込むだなんて。私が夢を見たのは本当だよ? きっと、深層心理が反映されて……」
「なお、悪いわ!」
「ちなみに、俺も本当に見たぞ。花恋ほど、はっきりとは覚えていないが。だが、二人で同じ夢を見るなんて、やはり、これは神のお告げに違いない。おまえ達は可及的速やかに別れるべきだ。今すぐ」
「やかましいわ! てゆーか、人のことはいいから、まずはおまえ達がどうにかなれよ。同じタイミングで似たような夢を見るとか仲良すぎだろ」
びしっと木下が双樹に指を突き付ける。
沙羅も頷きながら木下に加勢した。兎に角、夢の話から離れたい。
「双樹と花恋は、何て言うか魂が双子だよね。すっごく、お似合いだよ。お互いの相性を確かめ合ったところで、そろそろ一歩進んだ関係に発展してもいいと思うな」
私の未来のためにも。
という一言は、胸に仕舞いこむ。
「………………」
「………………」
双樹と花恋は、無言で見つめ合う。
探るように視線を絡め合い、それから照れたように同時にフッと視線を外す。
つい最近もこんなことがあったな、と思いながら、沙羅はこそこそと椅子を木下の方に寄せた。
今なら、二人の関心が沙羅から離れている。
それに気づいた木下も、沙羅の方に体を近づける。
沙羅は自然体だったが、木下の方は緊張で体を強張らせていた。
「ね。今の夢の話って、どこまでホントだと思う?」
顔を近づけてのヒソヒソ話。
木下が顔を赤らめて視線をウロウロさせるので、それまで何ともなかった沙羅も、何だかじわじわと恥ずかしくなってきた。
相手に意識されると、つられて自分も意識してしまう。
何か照れる。でも、話は続けたいので顔は近づけたまま、視線だけを木下から外す。
足をジタバタさせたくなる衝動を、沙羅は必死に抑え込んだ。
「花恋ちゃんは、本当に夢を見たんだろうと思う。双樹は、どうだろう? 本気で驚いていたみたいだし、それにバレた嘘をいつまでも突き通すヤツでもないと思うし、なんか似たような夢を見たんじゃないかな? さすがに、夢の中で聞いた名前が一緒だっていうのは何か元ネタがあるんじゃなければ、あいつのでっち上げだと思うけどさ」
なるほど、と沙羅は思った。小さい頃に三人で読んだ本とか、アニメとか。共通の元ネタがあるなら、内容が被った夢を見てもおかしくないような気がした。その元ネタに思い当たるものはないのだが、そこはあえてスルーする。
自分もその夢を見たことは伏せたまま、沙羅はもう一歩踏み込んでみた。木下から、客観的な意見を聞いてみたかった。
「同じタイミングで似たような夢を見るなんて、そんなこと本当にあるのかな?」
「んー。あいつら、沙羅ちゃんが絡むことには似通った思考回路してるし、そんなシンクロがあってもおかしくないような気はしてる……。オレと沙羅ちゃんが付き合い始めたことがショックで、とかありそう」
「ああ、うん…………」
「まー、何て言うか。いろんな意味でお似合いの二人ではあるよな」
「……破れ鍋と綴蓋的な意味でね…………」
話している内に、というか話の内容的に、恥ずかしさはいつの間にやらどこかへ退散していた。
(似通った思考回路……って、わたしもってこと?)
そう考えると、微妙な心持になる。
(まあ、いいや。忘れよう…………いや、わたしは最初からそんな夢、見てないし。そもそも、関係ないし。うん、関係ないから)
これで解決ってことにしよう、と沙羅は心の中でひっそりと呟いた。
帰り道は、駅までは四人一緒だ。
木下とは乗る電車が違うため、駅で一次解散。電車を降りてから沙羅たちの家までは、徒歩で約7分程度。あんまり栄えていない無人駅の先の、ごく普通の住宅街だ。
放課後の教室での一件を引きずっているのか、いつも煩いぐらいに沙羅に話しかけてくる二人が今日はやけに静かだった。
いつもは沙羅が真ん中になるのだが、気を利かせて、それとなく花恋が真ん中になるようにしてみると、二人はぎこちなくお互いの様子をチラチラと窺っている。
(うん。いい傾向)
沙羅は二人の陰で、グッと拳を握りしめた。
昨日の夜はどうなることかと思ったけれど、これならば大丈夫そうだ。
沙羅と木下の次のデートは、とりあえず保留になっている。沙羅たちが接近しようとすると、双樹と花恋は自分たちのことを忘れて沙羅たちの妨害に集中してしまうからだ。
前回のパンケーキ屋でせっかくお互いを意識し始めた二人だったのに、沙羅が木下とのデートを宣言したために、あっという間に残念な保護者に戻ってしまった。
(次のデートの作戦を練るよりも、二人の仲を何とかした方が早い)
それが、沙羅と木下の出した結論だった。
(二人がちゃんと付き合うようになったら、こんな風に三人で帰る機会も減っちゃうんだろうなぁ)
そう考えると、やはり少し寂しい。
でも。二人がデートをする時は、自分も木下とデートをすればいいのだ、とすぐに気持ちを切り替える。
そもそも、そのための二人の後押しでもあるのだから。
また明日と声をかけあって花恋と二次解散をしたら、沙羅たちの家はもうすぐそこだ。
やっぱり無言のまま、門の前まで来たところで、ごうっと湿気を孕んだ重い風がうなりを上げた。
「うわっ」
スカートの裾と髪を押さえて目を閉じる。
「すごい風。台風が近いのかな?」
ザワザワ。ガサガサ。パタパタ。ガタガタ。
風に煽られて、あちらこちらからいろんなものの悲鳴が聞こえてくる。
「沙羅。じっとして」
「え?」
双樹の声がして、目を開けると。
ゆっくりと腕が近づいてくる。
ざわざわと胸の奥から音が聞こえてきた。
このざわめきを、知っている。
「風で飛ばされてきたみたいだな」
耳元でカサリと音がした。
そうだ。
双樹が。
双樹がわたしの髪に絡まった葉っぱをとってくれて……。
そして、わたしは…………。
夢で見た、茂みの前に立っている気がした。
ざわざわ。ざわざわ。
胸の奥がざわめくたびに、甘い痺れが沸き起こる。
ざわめきに飲み込まれそうな沙羅を現実に引き戻してくれたのは、聞きなれた双樹の少し慌てた声だった。
「飴の包み紙……うわっ、なんかベタベタしてるな。沙羅、髪の毛は大丈夫か?」
沙羅の頭から離れていく双樹の指の先には赤い色をした飴の包が摘ままれている。沙羅の髪に絡まっていたのは、木の葉ではなくただのゴミだった。
その現実に、夢は急速に遠ざかっていく。
「え? あ! か、髪が、ベタベタする……。うぅ。早く洗いたい」
「風も強くなってきたみたいだし、早く家に入ろう。風呂、先に入っていいから」
「うー、うん。ありがと」
髪の毛のべたつきを気にしながら、沙羅は双樹に背中を押されて玄関のドアを開ける
外では風はまだ止まないけれど、胸の中のざわめきはどこかへ行ってしまっていた。
「さーて。お風呂、お風呂~」
一旦、二階の部屋に戻ってカバンを置き、部屋着に着替えてから、湯を沸かすために浴室へと向かう。鼻歌を歌いながらパタパタと階段を駆け下りていると、残り数段というところでひょいと双樹が顔を出した。
「おい、沙羅。階段を駆け下りたら危ないだろう!」
「え? きゃっ!」
「沙羅!!」
駆け下りていたからというよりは、突然現れた双樹に驚いて、沙羅は足を踏み外した。
身を竦め、衝撃に備えてギュッと目を閉じるが、予想していた衝撃は訪れず、代わりに何だか暖かいものに受け止められた。
「大丈夫か?」
頭の上から、双樹の心配そうな声が降ってくる。
消えたはずのざわめきが、再び蘇ってきた。
ざわざわ。ざわざわ。
胸の奥で何かが揺らいでいる。
背中に回された、双樹の腕。頬に感じる、双樹の胸の温かさ。
沙羅を受け止めても、少しも揺るがない力強さ。
ざわざわが大きくなっていく。
鼓動が速くなっていく。
夢と同じざわめきに翻弄されて、双樹の胸に抱かれたまま、身動きも出来ない。言葉を発することすら、出来ない。
(お、おおおおおお、落ち着いて、わたし! 夢の中の双樹は格好良かったけれど、現実の双樹はそうでもない! ただの残念なシスコン! あれは、別人! 絶対、双樹じゃない!)
胸の内で叫ぶ。
パンケーキ屋から始まった双樹の残念なセリフの数々を思い返していると、段々と鼓動は落ち着いてきた。ざわざわも、霧散していく。
ほっとして肩から力を抜くと、双樹の声が頭の上から降ってきた。
「本当に大丈夫か、沙羅? 全く。だから、階段を駆け下りるなって言っただろう? 丁度俺が通りかかったからいいようなものの。そうじゃなかったら、怪我していたかもしれないんだぞ。しかし、こんなタイミングで現れるなんて、流石俺だな。やはり、沙羅を守れるのは俺しかいない。今すぐ部屋に戻って木下に断りの」
「いや、助けてくれたことには、お礼を言うけど! そもそも、双樹が急に現れるから、びっくりして足を滑らせたんでしょ! あと、木下君とは別れません!」
説教めいた物言いで木下バッシングに走る双樹にカチンときて、沙羅はがばっと顔を上げる。
「沙羅が口答えを……」
沙羅を受け止めてもびくともしなかった双樹の身がよろける。
「口答えって……」
沙羅は口元を引きつらせる。
「ま、まあ。木下のことは一旦、置いておいてだ。急に声をかけたのは、俺が悪かった。兄として失格だ。もう少し配慮すべきだった。だが、駆け下りないで普通に降りていれば、少しくらいびっくりしたって足を滑らせたりしかったんじゃないのか?」
双樹は直ぐに立ち直ったようで、木下のことは棚に上げての反省と謝罪をしつつも、結局は説教になった。
「そうとは……限らないでしょ?」
「だが、駆け下りた場合よりは、階段を落ちる確率も怪我をする確率も下がると思うぞ? それに、沙羅が階段を駆け下りたりしなければ、俺だって急に声をかけることもなかったはずだ」
「ぐっ。うぅ。……すみませんでした。以後、気を付けます! …………あと、ありがと」
正論だった。
何となく悔しいけれど、沙羅は素直に謝ることにした。
最後に小声でお礼を言うと、誤魔化すように双樹の脇をすり抜けた。
★★★
三人は再会を喜び合った。
改めて、エンとしてハヤに再会して、エンは切ない笑みを浮かべた。
改めて、妹と兄として再会して。
エンはハヤの腹違いの妹だった。
エンとハヤの父親は、里の長だった。
亡くなったエンの母親は、長に仕える呪い師であり、その妾でもあった。
エンを里に呼び戻したのは、父である長だった。
娘としてではない。長に仕える、呪術師としてだ。
母が死んだ後、エンは母の一族に引き取られ呪術を教え込まれた。取り立てて腕がいいわけでもないが、悪くもない。
エンを雇い入れたのは、腕を見込んだからではなく、血を分けた娘だからなのだろう。
だが、かつて母と暮らしていた粗末な離れを与えられた後は、特に仕事を任されるわけでもなく、会いに来てくれるでもなかった。遠くから視線を感じることはあるが、それだけだ。
それを、不満に思うことはなかった。
本妻である、ネツの目を気にしているからだと、分かっていた。たぶん、こうして呼び戻すだけで、精一杯だったのだろう。
ネツについては、恐ろしい噂を耳にしていた。
ハヤとライは、エンとの再会を喜んでくれた。
以前と変わらずエンに接してくれた。
以前と同じようにエンに笑いかけ、話しかけてくれた。
ボロボロになった羽の首飾り。二人とお揃いの、エンの宝物。
同じものを、ハヤもライも昔と変わらずに、大事にしてくれていた。
そのことが、嬉しかった。
幼い日の思い出を、エンと同じように、二人も大切に想ってくれていたことが、嬉しかった。
だから、それ以上を望んではいけないのだ。
望んだところで、得られるはずもないのだから。
エンはハヤの妹なのだから。
だから。
だから、茂みの先でハヤと会った時のことは、忘れなければいけないのだ。
あの時感じた胸のざわめきは、忘れなければならないのだ。
ああ。
どうして、あの時。
茂みの中を通ろうなどと考えたのだろう。
どうして、自分はハヤと血を分けた兄妹なのだろう。
もしも、兄妹でなければ。
兄妹でなければ。
兄妹でなければ、きっと……。
きっと、自分など歯牙にもかけられなかっただろう。
たとえ、半分だけでも。
血が繋がっているからこそ、ハヤは自分に微笑みかけてくれるのだ。
優しくしてくれるのだ。
それに、きっと。
あの時、茂みの先でハヤと出会っていなくても。
それがハヤだと承知の上での再会だったとしても。
きっと。
自分は、ハヤに惹かれていた。
だって、ハヤはあんなにも。
逞しく、頼もしく、精悍に育っていたのだから。
長の跡取りとして、あんなにも自信に満ち溢れて。
ハヤに惹かれない女性なんているのだろうか?
――一体、どうしたら、この胸のざわめきを止めることが出来るのだろう?
薄暗い物陰から、そっと。
通りを歩くハヤを見つめる。
眩い日差しの中を歩く、ハヤの屈託のない笑顔。
たとえ、妹でなかったとしても。
焦がれてはいけない人なのだ。
ハヤの笑顔の先には、咲いたばかりの花のように美しいライがいた。
二人は、来月には祝言を挙げる。
自分たちはもう、子供ではない。
昔と同じようには、戻れないのだ。
二人の幸せを願っている。妹として、幼馴染として。
その気持ちに嘘はない。
それなのに。
光の中で微笑み合う二人を見ていると、どうしようもなく胸が締め付けられた。
あそこにはもう、エンの居場所はないのだ。
ざわざわと胸を騒がせ。じりじりと焼け付く胸の内を持て余し。どろりと何かが解けて崩れ落ちるのを感じる。
それでも。
二人から目を外すことは出来なかった。
いつまでも、いつまでも。
暗がりの中からエンは。
明るい日差しの下を歩く、二人の姿を見つめ続けた。
何も知らなかったあの頃に戻れたらいいのに、とエンは思った。
ずっと三人でいられると、無邪気に信じていられたあの頃に。
戻れたらいいのに、と。
★★★
「おはよー・・・・・・」
「おは・・・・・・って、どうしたんだ、沙羅? 随分と眠そうだな。眠れなかったのか? やはり、おまえもあの夢を見たんじゃないのか?」
眠い目を擦りながら洗面所へと向かうと、先に起きていたらしい双樹が、心配そうに沙羅の顔を覗き込んできた。
突然、迫ってきた双樹のアップに、沙羅の鼓動が跳ねあがる。
「な、なななな、なんでもない。なんか、昨日はずっと、ざわざわしてたから、ちょっと眠りが浅かっただけ。それよりも! 急に近づかないでよ。びっくりするじゃない」
慌てて、双樹の胸を両手で押して遠ざける。
大丈夫。今、ドキドキしているのは、急に双樹の顔が近づいてきたからであって、それ以上の意味はない。
沙羅は必死に、自分に言い聞かせていた。
「ああ。そう言えば、夜中ずっと風が騒がしかったな」
沙羅の説明に納得したのか、洗面所を譲って、双樹はあっさりと離れていく。
双樹の背中を見送ってから、沙羅はほーっと息をついた。
今朝見た夢のことは、誰にも知られたくなかった。
「………………夢の中で二人のストーカーしてるって、どうなんだろ? なんか、ごちゃごちゃと面倒くさいこと考えてたみたいだけど、あれがわたしの深層心理? 粘着質っぽくて、わたしあの子あんまり好きじゃないんだけど……」
ぐしゃぐしゃと両手で髪の毛を引っ掻き回しながら、鏡の中の自分と見つめ合い、自分が制服を着ていることに気付いて我に返った。
「しまった。こんなことしてる場合じゃなかった。い、急がなきゃ、遅刻しちゃう。ああ、髪が、ひどいことにっ!?」
自分で乱した髪を、何とか整えようと焦っている内に、夢のことは吹き飛んでいた。
何か特別な事情がない限りは、放課後に集まる教室は、沙羅たちの一年二組と双樹たちの一年五組を交代で、というのが暗黙の了解になっていた。
昨日は沙羅たちの教室だったので、今日は五組の双樹の席に集まり、木下が家から持ってきた醤油せんべいを齧っていた。主に、沙羅と木下が。
双樹と花恋はせんべいには目もくれず、今朝見たという夢の話を暑苦しく語っている。昨日二人が見た夢の、その続きを。
聞いてないから。
そうアピールするかの如く、沙羅たちは盛大にバリバリと音を立て、せんべいを噛み砕くことに集中する。昨日と同じ展開になることが予想できたからからだが、沙羅の方には、今朝の自分の夢を思い出さないように、という理由もあった。
「夢の中でもエンとハヤは兄妹なんだけど、母親は違うのよ。所謂、腹違いってヤツ? で、私と双樹は婚約関係っていうか、もうすぐ結婚することになっていてね」
「ふ、ふーん?」
思ったのと違う話の展開に、努めて話を聞いてないふりを装っていた木下が思わず相槌を打つ。
てっきり、昨日と同様に木下いじりになるのかと思ったのだが、今のところはただの惚気にしか聞こえない。
無関心を装っていた沙羅は、あれ、と軽く首を傾げる。
なんだか、どこかで聞いたことがあるような設定……のような気がする。二日も続けて同じような設定の夢を見るなんて、やはり何か元になる話があるのだろうか。それにしても、偶然にしては出来過ぎている気がするが。
「そう。もうすぐ結婚することになっているんだが、ハヤの方はどうやら再会したエンのことが気になっている……みたいなんだ」
「「は!?」」
花恋の跡に続いて、少々困惑気味に夢を語る双樹に、沙羅と木下の声が被った。
せんべいを摘まもうとした指を止め、まじまじと双樹の顔を見つめる。
気になっている、というのは。つまりそういう意味なんだろうか? どうなんだろうか? いや、もちろん、妹としてなんだよね? でも、双樹だし、何か困惑した調子だったのが気になるというか、話の流れ的にはなんか不穏な感じなんだけど!?
胸の奥がざわっとした気がしたが、沙羅はそれを無理やり遠くへ押しやった。
沙羅とて夢の中で双樹に一目惚れした揚句にストーカーのようなことをしていたので、それについては人のことは言えないのだが、今ここでそれを公言する意味が分からない。
ここには花恋もいるのに。
そもそも、ここ、教室なのに。自分たちの他にも、生徒が残っているのに。チラホラと教室内に残っている双樹のクラスメートたちに、今の話を聞かれていないといいのだが、周囲を見渡して、それを確かめる勇気は沙羅にはなかった。
何と言えばいいのか分からずに、錆びついたロボットのようなぎこちない動きで、隣に座る木下に顔を向ける。
木下は沙羅の視線を受け止めて、何か口を開きかけたが、やはり言葉が見つからないようだった。ふっと沙羅から視線を逸らして、誤魔化すように食べかけだったせんべいをバリリとかみ砕く。
(え、えぇー!?)
抗議のつもりで、机の下で木下の足を軽く蹴りあげるが、木下からはバリバリという返事しか返ってこない。
(もー!!)
頬を膨らませながらも内心では、このやり取りが楽しくなってきていた。
だが。浮ついていないで、兎に角、二人の口を封じるべきだった。
双樹と花恋の二人によって、沙羅を巻き込んだもっとひどい爆撃が行われた。
「あの夢を見て、沙羅の小さい頃の夢を思い出したんだよ。俺と花恋の二人と結婚するって、よく言っていたよな?」
「へ? いや、言ってた、かもしれないけど。……それ、幼稚園の頃の話だよね?」
木下の足を構うのを止めて、沙羅は顔を赤くして双樹を睨み付ける。
双樹と花恋は、とても真面目な顔つきをしていた。何か、大事な話をする時のような。
たぶん。
二人にとっては、とてもとても大事な話なんだろう。
「こんな夢を見たってことは、つまり。その夢を叶えろっていう、天のお告げだと思うわけよ」
「は!?」
「えーと、つまり?」
せんべいをバリバリやっている場合ではないというのは木下にも察せられたが、二人がどういう結論を導き出したのかは、さっぱり予想が出来なかった。
「つまりだ。俺と花恋が結婚して」
「私と沙羅が養子縁組をして」
流れるような掛け合いから続いて。
「「三人で暮らせば、万事解決!」」
パンとお互いの手を合わせながら、声を揃える。
「………………いや。何が解決したのか、さっぱり分からないんだけど……」
木下は椅子の上で脱力し、沙羅は勢いよく立ち上がる。
「ちょっと、何なの!? その、主に私一人がとてつもなく痛々しい将来設計はーー!?」
大きくなったらお父さんと結婚するのと同レベルの、幼い日の微笑ましい一幕だったはずなのに。高校生が本気で叶えようとすると、ただひたすらに痛々しい。
というか。それは、叶えてはいけない類の夢だ。
せめて。その夢に、自分を巻き込むのだけはやめて欲しいと切に思う。
「い、痛々しいってことはないだろ?」
「うん。私たち三人が幸せになれる、いい方法だと思うんだけど」
沙羅に怒鳴られて身を縮めながらも反論を試みる二人を冷たく見下ろすと、二人は押し黙った。
沙羅は、フッと氷のような笑みを浮かべた。
最近、この表情を浮かべることが多い気がする。そのうち、雪女になってしまうかもしれない。
「わたし。おせんべいの食べ過ぎで、喉が渇いちゃった。二人で、飲み物買ってきてくれない?」
「飲み物なら、俺が一人で買ってこよう」
木下に行ってこいと言わないだけ、マシだったかもしれない。
だが、沙羅は許さなかった。
「ふ・た・り・で!」
「はい」
「はい……」
沙羅の剣幕に押されて、二人は肩を落としながら渋々教室を出て行った。
見送るついでにざっと教室の中を見回すと、中に残っていた生徒たちはみな、わざとらしく沙羅から視線を外す。
くっと唇を噛みしめながら、沙羅は椅子に座り直した。
まさか、あんなことを言い出すとは。
双樹と花恋の本気に、沙羅は眩暈がした。
もっと。もっと、自分がしっかりしないと。
「ねえ、木下君。今週末って空いてる?」
「お、おう。空いてる、けど」
木下の返事に、沙羅がフフッと笑う。
その笑みは、まるで幽鬼か何かを思わせた。冷気が漂っている。
「じゃあ、今度こそ、デートしよう?」
「へ? それは、嬉しいお誘いだけど、あいつらは大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫。作戦があるの。今度こそ、何としてもデートを成功させよう。あの二人の仲は、ある意味行きつくところまで行っちゃってるし、進展を見守ってても意味がないっていうか、むしろ二人の仲が進展するにつれてわたしが社会的に抹殺されかねないって分かったから。こうなったらもう、何としてでもわたしたちの仲を先に進めるしかない!」
「お、おう……」
拳を握りしめて宣言する沙羅は勇ましくも頼もしいのだが、デートという言葉から連想される甘やかさは一切感じられない。
(デートっつーか、任務にでも赴くみたいだよな……。すっかり、逞しくなっちゃって。まあ、やる気になってる沙羅ちゃんも可愛いけど。しかし、沙羅ちゃん。先に進めるって、どのくらいまでを想定しているんだろうなー……)
双子とその幼馴染に振り回されていることを自覚しながらも、木下は沙羅を満足させるべく、来る日のデートプランを練り始めた。




