散らばる星々
思い返すとわたしには初恋が無い。そもそも恋というものを知らない。もちろん、それらしき感情を抱いた自覚はあるが、それら全ては劣情の萌芽でしかないように思い返してしまう。
小学生のころは中学生に憧れ、中学生のころは高校生に憧れた。高校生になれば、もう社会へ出たかった。社会人となってからは、劣等感と違和感と訳の分からない熱のようなものに振り回されていた。
ずいぶんと老成した子どもであったようで、父にはっきりとそう言われたこともある。そのころのわたしは、同年代を子どもとして見ていた記憶があり、恋の対象とは見ていなかった。ローティーンのころ、奇妙な感覚があった。それは今思えば春先の盛る猫たちの鳴き声のような、浅ましいながら正直な本能の疼きであっただろう。そして、その疼きの中から立ち昇る湯気のように、憧れという概念が湧き出てきた。何時か、何処かで、理想の誰かと出会う。そんな現実離れした概念に、わたしは憑りつかれているようである。かといって、わたしの美の基準はいやに甘いので、人混みへ出るとセンサーが反応するように、あちらこちらの美しい顔の人や、整ったスタイルの人や、センスのよい着こなしの人や、知的な雰囲気の人や、なんやかんやと目に留まる。
だから、ある時期はあえてセンサーを鈍らせる努力をしていたほどである。そのころは本当に気楽だった。構造物の立派さや、内装のカラフルさや、純粋に人々の装いなどを、いいなと眺めることが出来た。しかし、文を投稿するようになり、昔から時々は開いていた扉のような感覚が段々と近しくなってきた。それに応じるように、時折感覚が暴走してしまって、人混みが押し寄せるようなときがある。
わたしには、バランスが取れない精神があって、それは自覚あるところであり、社会性の希薄さというべきものである。気まぐれで、飽きっぽいのだが、つまりは興味関心の移り変わりが激しい。陽が射せば幸せを想い、陰れば不幸を思う。雨が降れば精神は沈殿して、雪が降れば憧れに彷徨いだす。季節の変わり目の気配は、いつも空気の匂いで感じるが、その途端に精神が不安定になってしまう。 こんな状態では社会生活は困難なので、こころの奥へ閉じ込めているが、疲れすぎてコントロールするエネルギーもなくなった時など、頭の中で言葉が戦慄きだしてしまう。
どうも、わたしは美人が苦手である。眺めているのは美しくて本当に素晴らしいと思うのだが、いざ接するとなると緊張してしまう。なんて美しいのだろうか。どうして本当にこんな人が存在して、今目の前にいるなんて信じられない。なぜ、わたしがここにいるのかと不自然さを感じ、妙に逃げ腰になってしまう。
それでも、もしも絵が描けるなら、ずっと美しい人を描いていたい。細部に宿る神秘を解き明かしてみたい。しかし、わたしは描けないから、せめて詩を書いている。それも、何時も散らばってしまう理想を、今は放り出してしまっている。あらゆる美の集約点を探すように努めているが、それは途方もなく難しいことだから、どれほど書いても完成することはないだろう。