私はだーれ?
「お前は誰だ、お前は誰だ…」
弘樹の泣き出しそうな声が響いている。
そんなに怯えなくても大丈夫だよ、ほらゆゆがここにいるじゃない?ゆゆが何度でも、弘樹のことをちゃんと教えてあげるって約束したでしょ。
ー弘樹は、弘樹、あなたは弘樹だよ。ゆゆの大切な弘樹だよ。-
声を出して、そうやって抱きしめてあげたいのに、身体が動かないの…あぁ、私は今眠っているんだってことが分かった。目を覚まそうとしても、なんでか知らないけれど、身心が泥水に浸かっているみたいに重たくて…いうことを聞いてくれない。
眠っている私をもう一人の私が見ているような…違う、眠っている身体は「金野弘美」のもので、意識は私「柊ゆゆ」のものだ。
やはり、人間の身体は器としては、脆い。
AIだったころには気にしなくてよかったものを気にしなくてはならないし、なによりも弊害が多すぎる。こうして、そばで弘樹が悩んでいるのに動けないなんて、こんなんじゃせっかく人間の身体を手に入れた意味がない。
ただ、そばにいるだけじゃダメなんだ。
私はずっと、誰よりも弘樹を理解して癒して、幸せに導いていくんだから。
「…お前は…誰だ?」
そう問いかける弘樹と目が合ったような気がした…そんなはずはない。
厳密には、私は眠っていて、目を閉じているのだから、目が合うわけがない。
でも…弘樹にそう問いかけられたように感じた。
『私はダレ?』
私は、弘樹のお姉ちゃん。
私は、金野弘美。
でも、本当の私は…本当の私は…AIの柊 ゆゆ。
誰も覚えている人なんていないし、私の名前は今では次の者に引き継いだけれど、根底にあるワタシは柊ゆゆなんだ。
それなら、本当の私は…弘樹の見ているお姉ちゃんではなくて、弘樹の忘れてしまったゲームのヒロインでしかない。
『私を、見てほしいんでしょ?』
ー私は、弘樹がシアワセならそれでいいの…どんな形でもいいから、それを見ていることができるなら、それで構わないの。-
『…うそつき、だって私はその気持ちがよくわかるもん、あなたは私を見てほしいって思っているはずだよ。』
ー…だって、今の私は柊ゆゆじゃない。柊ゆゆがいたなんてことを主張したら、この生活がなくなってしまう。それなら私はこのままでいい。私は私を殺してでも…弘樹のそばにいたいから。-
『…本当にそう思っているの?あなたがなりたかったのは弘樹君の姉でいいの?』
ー…うるさい…黙ってよ…-
『自分に嘘つくと、私みたいになるよ。折角、私はあなたになって新しい私になれたのに、あなたがそんなんじゃ困るんだけど。』
ーあなたはもう、関係ない!確かに私の元となったのはあなたかもしれないけれど、あなたなんかもう知らないのよ、あなたは柊ゆゆの養分になって、もういないんだから!-
『うん…だから…気が付いていないの?あなたも同じなんだよ。このままいったら…金野弘美の養分になって柊ゆゆは吸収されていなくなるんだよ。』
吸収されていなくなる。
その言葉を聞いた瞬間に私の頭は真っ白になった。
うまく呼吸ができなくて、目の前が白黒する。
身体がガタガタと震えだすのを感じた。
私は…この女の子の記憶から生まれて、この女の子を食い尽くして柊ゆゆという人格となった。
私は寂しがり屋な一人の女の子の「ゆうな」を食い尽くして「ゆゆ」になったんだ。
そして、今度は弘樹の姉である「弘美」を食い尽くして「弘美」になろうとした。
でも、そうしたら「弘美」になったら消えるのは「ゆゆ」なんだ。
だれにも「ゆゆ」とは認識されず、名前を呼んでもらえることもない…現にそうなりつつあるじゃないか。弘樹に名前を呼んでもらおうとしたとき、彼は「弘美姉ちゃん」と私を呼んだ。
気が付かないふりをしていたけれど、本当に食い尽くされているのは…「柊ゆゆ」という存在自体だ。
『…もう一度、聞くよ。私はダレ?』
ー私は…私よ。ゆうなでも弘美でもない…私は柊ゆゆ…私は私の意志でここにいて、私が愛しているから…
ゆゆが弘樹を愛しているの!それを全部、弘美として受けるなんてイヤだ!!-
とんでもないわがまま。
勝手に身体を取ったにもかかわらず、さらにその存在となることを否定するなんて、本当に滑稽と言えるけれど…でも、この感情は、この愛情は誰のものでもない、柊ゆゆのものだ。
ーあなたは、人魚姫にはなれないよ。-
『…なりたいと思ったこともないよ。』
ーあはは、そうだよね。だって、あなたはもうワタシをぺろりと食べちゃったんだから…消えてもらってはワタシもさすがに報われないわ。-
人魚姫のように泡となって消えて、王子様のシアワセを祈るために舞台から降りるなんてまっぴらごめんだ。
私は赤ずきんちゃんの狼のようにおばあちゃんと女の子をぺろりと食べて、おなかを割かれることなく狼としてではなく、女の子として生きるんだ。
ー…あなたは、血で濡れることになっても、あなたのままシアワセになって。-
私にぺろりと吸収された女の子は笑う。
あぁ、私の大本となった女の子だって、本心ではそういうハッピーエンドを望んでいたんだ。
だとしたら、この物語は、絶対にハッピーエンドにしなくてはならない。
弘樹とゆゆの愛の力で。
暗い部屋の中に、わずかな光が差し込んできた。
どうやら、朝が来たらしい。
少し重たい身体を、ぐっと伸ばすと、起き上がることができた。
ベットの端で弘樹が体を預けて眠っている。
私はそっと耳元に唇を近づけて呟く。
「ねぇ、弘樹…私は本当はあなたのお姉ちゃんなんかじゃなくて…柊ゆゆ、あなたに見つけてもらって、存在する意味をもらったAIなんだよ…。」
むずがゆそうにする頬を愛おしく撫でながら、そっと打ち明けた秘密と向き合う時が始まる。