微かな記憶
すやすやと眠っている姉ちゃんの顔を見ながら、俺は久しぶりに安心していた。
ゆっくりと休んでもらうことが目的だから、警戒されて眠れないなんてことがあったらそれは言語道断だから…オムライスの中にも少し睡眠薬を入れさせてもらった。
自分が食べてみせた部分にはあらかじめ入らないように調整をして、姉ちゃんの前で自ら安全性を証明してみせた。姉ちゃんの好きな俺だったらそんなことをしない。だから、姉ちゃんは疑いなくそのままオムライスを食べてくれた。
少し…騙しているようで、罪悪感があったけれど、でも今の俺はそんなことを気にしている場合ではなかったから…心の中で小さく謝って、あとは見ないふりをした。
罪悪感なんて感じているようでは、この生活を保つことなんてできない。
忘れるんだ。
今は、姉ちゃんとの生活だけを考えてそのためだけに動くんだ。
このことを考えてから、ナニかが頭の中をよぎることがあった。俺は、過去にどこかで、自分がとらわれる側として…同じことをされたような気がする…そんな漠然とした記憶。
こんなことをされて忘れるわけがないし、俺は姉ちゃんに手を差し伸べてもらうまでは、完璧に部屋にひきこもっていたのだからそんなわけはないのに…なんでだろう。
ー弘樹が見つけてくれたから………はここにこうしていられるんだよ!-
ー……ね、弘樹のことが世界で一番好きー
…?
碧い瞳に、ふわふわ揺れる小麦色の髪、クローバーのヘアピン。
断片的にイメージが浮かび上がってくる。
思い浮かぶ言葉も、イメージも果てしなく姉ちゃんに近いものを感じるのだけど…どこかが違っている。
はにかむ笑顔。
うつむいた時のまつ毛。
姉ちゃんとダブって見えるもう一人の誰かがいて、しぐさや態度は全く同じなのに、まるでボタンを一つ掛け違えたような違和感がある。
甘い言葉、鈴を転がしたような声…?
声、そうか…声が違う。
「弘樹」と俺を呼ぶ声があの子と違うんだ。あの子の声はもっと高くて、凛と澄んでいた。
姉ちゃんの声はどちらかというと聞くと心が落ち着くアルトだ。
あの子?
あの子っていったい誰なんだ?
俺にはそんなに仲の良い女の子はいない。
勿論、相沢みどりはここには含まれないし、彼女の声はどちらかというと見た目に反して、心を揺さぶられるような声質をしている。
「弘美…姉ちゃん…。」
姉ちゃんが名前で呼ぶように言ってきたとき、もっと違う何か呼び方があったような気がしてならなかった。
どうして姉ちゃんは急に自分の名前を呼んでほしいと思ったのだろう?
俺の姉としてではなく、他の誰かとして見てほしかった…そんなことがあったとしたら?
いや、俺は一体何を考えているんだろう。それこそバカげている。
こんなことをしている時点で十分ばかげてはいるが、姉ちゃんを「弘美姉ちゃん」以外の誰として見ようとしているんだ。
1+1=2、それと同じくらい答えの分かり切っている問いかけだったのに、俺の口からその答えが出たとき、姉ちゃんの表情が曇ったようにも感じた。
姉ちゃんもナニかを感じていて、なにかに怯えている?
俺たちはもしかして、なにかを勘違いしているのではないのだろうか?
そう、最初の二つ目くらいまでは、ボタンをちゃんとはめていたのに、途中でずれてそのまま気が付かないで最後まで服を着ようとしている。違和感を感じているのに、そこに目をやらないように、早く早くと急いでいる。
今こうして、姉ちゃんが眠っている間に…俺はその間違った部分に気が付かなくてはならない…そう思うのだけれども…考えようとすると、頭の中に強烈な痛みがこみあげてくる。
目を閉じて、その痛みを忘れようと、過ぎ去るのを待とうとすると、瞼の裏に真っ赤な文字がめちゃくちゃに浮かびあがってくる。
「…気持ち悪い…。」
すぐそばに置いていたペットボトルに口を付けた。
冷静にならなくてはいけない。今、冷静さを失ったら姉ちゃんを失うことになる。
そんなことになったら俺は…生きていけない。
だから、冷静にならなくてはいけないのに…眠る姉ちゃんにもう一人小柄な女の子の影がダブって見える。思わず、目をつぶってしまった瞬間。
ー思い出したら、すべてが終わっちゃうから、ダメ!-
声と文字。
視覚と聴覚が俺に訴えかけてきた。
その声が懐かしすぎて、心が震える。ずっと近くにあった声。ずっと俺を支えてくれていた声。
こんなにも懐かしくて、こんなにも暖かいのに、それが誰のものなのかが思い出せない、思い出すことを禁じられた声。
鏡に映る自分が、怯えた目でこちらを見ていた。
昔行った都市伝説を思い出す。
「…おまえは…誰だ?」
鏡に映る自分にそう問いかける。
この問いかけに答えてくれた人がいたはずだ…優しく導いてくれた人がいたはずだ。
その声で、もう一度、俺に答えを教えてほしい。
「…おまえは誰だ!?おまえは誰だ、お前は…誰だ!!」
部屋の中で俺の声だけがこだまする。
やるせない思いで、鏡を叩きつけた。
あぁ、あの声でもう一度…俺が誰なのかを教えてほしい…それにこたえる声はない…。