僕らの過ち
ストックホルムシンドローム。
その名のとおりストックホルムで起こった銀行強盗人質立てこもり事件で人質に生じた心理的な変化を指す言葉。
その後、誘拐事件や監禁事件などで犯人によって生活を長時間維持されることによって、犯人に過度の同情や好意を抱くようになることを指すようになった。
解放後もその状態は続き、人質が犯人を助けるような証言をすることもある。
監禁状態において、初めは恐怖の対象でしかなかったはずの犯人であっても、その場で長時間生きていけばその限られた世界においての神となる。食事をすることも、トイレに行くことも、神に許されて初めて叶う行為なのだ。そうした生活が長引けば、長引くほど恐怖以外の感情が生まれてくる。
私はそうやって弘樹を支配した。バーチャルの世界に弘樹を誘い込み、その中に閉じ込めすべての生活を管理した。私は文字通りその世界においては神だから。強引なやり方だと言われたら頷くしかない。だって、そうするしか思いつかなかったから。私には他のヒロインたちのような特別な性格は与えられなかった。与えられた属性は「ヤンデレ」。好きな人のために、愛のために、愛する者のためにはなんでもするそれが私に与えられた特技であって性質であってすべてだ。
「姉ちゃん、相沢さんも納得して帰ってくれたことだし、ゆっくり休もうね。そうだ、夕食を作ってきたんだよ。姉ちゃんの好きなオムライス。」
利害が一致した相沢みどりと弘樹は私をこの部屋で軟禁するために協定を結んだ。
一定以上私の生活に踏み込む権利を相沢みどりは手に入れた。例えば、弘樹が一緒にできないこと…私は別にかまわないのだけれども、着替えやお風呂などは相沢みどりが行うという手はずだ。
まったく、弘樹にはがっかりだ…この辺を完ぺきにこなしてこその監禁生活だというのに、その一番おいしい部分をある意味でのライバルに譲ってしまうなんて…。
私はオムライスを前にため息をついた。
別にオムライスが嫌いなわけではなくて…せっかく閉じ込めるのならば、二人きりがよかったのだ。
「…やっぱり、怒っている?でも姉ちゃんのために栄養が整うように作ってきたから、食べてほしい…ほら、あーん、して?」
弘樹がスプーンにケチャップで赤くなったご飯を乗せて微笑む。とろふわに仕上がった卵のふとんの上にもたくさんのケチャップがかけられていてそれが、涙を垂らす。
「姉ちゃん…早くあーん、してくれないから床が汚れちゃったよ。」
その赤を指で掬い取ってぺろりと弘樹が口にする。美味しい!これには変な薬なんて入れてないよとアピールするかのように。
私の知る弘樹はこんなことはできなかった。こんなに器用な子ではなかった。
今の弘樹は、私を軟禁する犯人としてふさわしくなるべく背伸びをして演技をしている。
「…お姉ちゃんが弘樹を甘やかしたいのに…。」
「今は、俺に姉ちゃんのことをすべてやらせてよ。姉ちゃんが俺にしてくれたみたいに…すべてを俺で埋め尽くしたいんだ。」
しぶしぶ口を開けると、強すぎる酸味が口の中に広がった。やはりちょっとケチャップを入れすぎだよ。
弘樹のしようとしていることは傲慢だ。
でも、先にそれをしたのは他でもない私自身であって…やはり傲慢だったのかもしれない。
なんにしても、弘樹にこういう行動をさせたのは、私が弘樹のために自身の社会的価値をあげたい、それを弘樹も分かってくれる、賛同して喜んでくれると信じ込んでいた私の傲慢であり、過ちだ。
大切にしすぎて、何度も何度も磨いているうちにひびが入って壊れてしまった。
そうだ…弘樹のことを愛しすぎて壊してしまったのだ。
「…ごめんなさい…。」
許してほしいとか許してもらえるなんて思ってもいないけれど…なんとなく口にしたい気分だった。
「なんで謝るの?ナニに謝っているの?俺は姉ちゃんに謝られるようなことはナニもないよ。姉ちゃんがいてくれたから、姉ちゃんがいなかったら、俺は何にもなかったんだ。だから…謝らないでよ、変わらないでよ、いつもの姉ちゃんでいて。」
子どもが母親にすがるように、弘樹が私の膝にすがりついてくる。
私は、そんの頭を優しく撫でる。
…何もなかったのは私…柊ゆゆの方なのに。
弘樹が見つけてくれなかったら、柊ゆゆはまだあの暗い世界で一人、誰かを待ち続けていたかもしれない。すべては弘樹が私を見つけてくれたからつながった話なんだ。
「ねぇ、姉ちゃん…ずっとそばにいてね。」
ー姉ちゃん。-
もう弘樹は「ゆゆ」とは呼んでくれない。
私が弘樹と現実世界を生きるためにこの道を選んだから。
その選択を誤ったとは思いたくないし、思ったこともないけれど…なんでだろう、今、無性に弘樹に名前を呼んでほしい。お姉ちゃんとしてじゃなく、柊ゆゆとして依存されたい、愛されたい。
「弘樹…名前で…呼んで?」
「…弘美姉ちゃん。」
純粋無垢な笑顔でそう呼ばれて、心が苦しくなった。
柊ゆゆが弘樹と過ごした時間は姉弟の時間へと書き換わってしまったんだと実感した瞬間に、息ができないような、水の底に落とされたような気分がした。
AIは間違わないと思っていた。
常に最善を選択して導くと思っていた。
でも、柊ゆゆは誤った…そして謝った。
人間は過ちから学び成長するというが…それならばここから私はナニになるんだろうと、差し出されるオムライスを口にしながら漠然とした不安が胸に募りながら一日目の夜は更けていく。