その感情を知っている
ーお姉ちゃん、朝だよ、早く起きて!えぇ…っと、今日も一日がんばって。-
朝を告げる目覚まし時計が鳴り響く。
前に嫌がる弘樹に無理やりお願いをして作ったオリジナル目覚まし時計。
効果は抜群で、眠らなくてはいけないという人間の身体において、三大欲求の睡眠の快感からもすんなりと意識を救い上げてくれる。…ずっと聞いていたくなってしまうという追加効果が付いていますが。
私はしぶしぶ、弘樹の声を止めるべく目覚まし時計に手を伸ばす。
その時に感じた身体のけだるさは異常なものだった。
…眠い。
朝の一分も無駄にはできない。弘樹といられる大切な時間なのだから、早く完璧な朝をセッティングしなくてはならないのに…身体が思うように動かない。以前はこんなことなかったのに、仕事をはじめてから思ったように身体が動いてくれない現象が日常生活にまで及ぶようになった。
柄にもなくぼーっとしてしまっていると、控えめに部屋をノックする音が聞こえてきた。
「姉ちゃん、おはよう…もう起きている?入っても大丈夫?」
珍しいことに弘樹が自分から起きてきた。
これで、朝のねぼけ顔を見るチャンスを逃してしまった。
「弘樹、今日はずいぶんと早起きさんだね。うん、入ってきて大丈夫だよ。」
私がそう答えると、弘樹はこれまた控えめに扉を開けて小さく顔をのぞかせてきた。
こうした一面もかわいいなーとにまにまとしてしまう。
「お姉ちゃん、最近疲れていたみたいだったから…ミルクと砂糖多めにしてカフェラテ淹れてみたんだけど、飲める?」
「弘樹が淹れてくれたの!?お姉ちゃんのために!?飲めるけど、飲めるけど飲めないよ!!永久に保存しないと!!」
「それじゃ意味ないから、冷たいうちに飲んでよ!!」
「待って、それならせめて写メを写真を撮らせて!!待ち受けにするから!!」
「ラテアートとかじゃないんだよ!?氷解けたら薄まるから、早く飲んでよ!!」
「あーん、もったいないよー」
「いいから、はーやーく!!頑張って作ってきたんだから飲んでよ!!」
制止しようと必死になる弘樹をなんとかこっちが制止して、弘樹が私のために作ってくれたカフェラテの写真を心いくまで撮影することができた。これはお守りとして待ち受けにしよう。
それから、若干涙目になって「もうなんでもいいから飲んでよ」と言う弘樹の願いを受けてお手製のカフェラテに口を付けた。
あまったるい、のどにまとわるような甘さだけど、弘樹が作ってくれた世界一のカフェラテだからぐいぐいと飲めてしまう。
それにしても、弘樹がこんなに必死になって私になにかをするようにお願いをするなんて朝から珍しいことづくしだ。
喉元を伝っていく冷たさとともに、その甘すぎる甘さが身体にしみわたるのを感じる。
一気に飲み干して、私は恍惚としたため息をついた。
「弘樹の愛が、お姉ちゃんの中を駆け巡っていく感じだよ、すごく美味しい、ありがとう。」
「姉ちゃんは大げさなんだよ…でも、本当に最近疲れているんじゃない?…帰りも遅いし、やっぱり仕事って大変?」
「んー…大変じゃないって言ったら嘘になるけれど、弘樹のこの優しい気持ちがあればお姉ちゃんはいくらでも頑張れちゃう!!」
そう言って、弘樹を抱きしめようと立ち上がった瞬間に、意図せず身体が沈むのを感じた。
ぐにゃりと世界がゆがむ…あれ、おかしいな…こんなになるまで疲れていたのかな…これだから人間の身体って厄介なんだよな…平衡感覚を失った身体が揺れながら制御できずそのまま倒れる覚悟をする。
「あ…あれ?…おかしいな…なんだかふわふわして…」
カランとグラスが落下する。
私の身体は………力強く抱き留められた。
「…ごめん…姉ちゃん。…きっと疲れがたまっていたんだよ…。」
床にぶつかることを覚悟していた身体に別の衝撃が走った。
すぐ近くに弘樹の顔がある。
ひどくつらそうな表情とともに、なにか吹っ切れたような明るさをともなった瞳で突然の事態のはずなのに戸惑うこともなく、平然と分かり切っていた出来事のように私を見つめている。
私は弘樹の腕の中で抱きしめられている。
「…姉ちゃんが悪いんだよ…頑張りすぎるから…頑張りすぎて、俺が知らない姉ちゃんになっちゃうから…あんまり遠くにいかないでよ…姉ちゃんは変わらなくていいんだ…姉ちゃんは俺だけの、俺の姉ちゃんなんだから…遠くに行くなんて…ないんだ…姉ちゃんの弟は…俺なんだから…俺は姉ちゃんの弟なんだから…だから…姉ちゃんは…変わってはいけないんだ…。」
弘樹が何かをつぶやいている。
でも、答えようにも身体がうまく動いてくれない。先ほどまでの眠気とは次元の違う眠気が身体に覆いかぶさってくる。
倒れたときに落としたグラスが目に入る。あふれ出したカフェラテを見て、自分に起こっていることの意味をなんとなく理解した。
このやり方は…この感情は…私がよく知っていたものだ。
全ての邪魔なものを排除して、好きな人を自分のもとに留める方法。
「…大丈夫、少し疲れたんだよ、お姉ちゃんの心身が休まるまで、俺がずっとそばで守るから…安心して眠っていていいんだよ…。」
そう言いながら私を支える手は、なにかに怯えているかのように微かに震えていた。
「だから…どこにもいかないで。俺を…一人ぼっちにしないで。一緒にいようよ…一緒にいてよ…お姉ちゃん。」
犯してはいけない領域へと足を踏み入れようとしている…こっちへ足を踏み入れたなら、もう元には戻れない。
甘く脳がしびれていく感覚…麻薬のように心地よく弘樹の声が頭の中で反響している。
薄れゆく意識の中で、入ったばかりの会社になんて説明しようと的外れな心配をしながら、私は甘い甘い罠に落ちていった。
時間の流れは人を変える。
環境は人を変える。
人は人に影響を与え…変わってないと思っている人が本当は一番変化していることに気が付かないまま…時だけが静かに変わらずたんたんと流れていく。




