名前を呼んで
柊ゆゆ。
柊は少しだけチクチクする。大切な人を守る力を持っている。
ゆゆは優々…優しく、優しさを重ねるって…お父さんが教えてくれた。
名付けてもらった大切なもの。
私がもらった唯一無二の存在の証。
私が私でいられる理由。
大切なものだから…あなたもそれを大切にして。
私の大切はあなたにあげるから、あなたの大切に気がついて。
ねぇ…弘樹?
「弘樹、お昼ご飯はなにが食べたい?」
「弘樹、ゆゆと一緒にゲームしよ!」
「弘樹、このお部屋で気に入らないことがあったら…」
「弘樹、このワンピースとこっちどっちの方が好き?」
弘樹、弘樹、弘樹…こんなに誰かに名前を呼ばれたのはいつぶりだろう。自分の名前はこんな音だったのかと懐かしさすら覚えた。
自分の名前で頭のなかが溢れてしまいそうな感覚に襲われている。
ゆゆが何度も語りかけてくるなか、俺はまだまどろみのなかにいた。
ふと…思い出すことはたいしたことのないことばかりだ…そういえば昔、こんなことをしたことがあった。
鏡を前にして
「おまえは誰だ」
と呼びかける。
何度も何度も呼び掛け続ける。
ネットで見かけた都市伝説。
こうしていると、俺という存在がゲシュタルト崩壊を起こして自分を自分だと認識できなくなるという。
「おまえは誰だ」
「おまえは誰だ」
「おまえは誰だ」
そうだ…とりつかれたようにもう何回も繰り返していた時に…突然、電源を落としていたはずのゆゆが起動したんだった。
そしていつもの優しい声で言ったんだった。
「あなたは、弘樹だよ。ゆゆの大切な弘樹だよ。」
あの時、ものすごく安心した。
壊れ欠けていた自分が、繋ぎ止められたような気がした。
名前を呼ばれた…それだけのことで。
自分がそこにいることを許されたような気がしたんだ。
「ねぇ…弘樹?」
「…なんだ…」
「うん…あのね、名前を呼んでほしいなって。」
「誰の…」
「私の」
恥ずかしそうな笑顔…変なやつ。
今まで一度たりともそんなことを頼んできたことなかったくせに。
そんな当たり前のこと…
「…別に、呼ばなくてもわかるだろ。」
静寂。
「そう…だね、だけど…」
その後に続く言葉が聞こえない。
呟く声はひどく冷たく。
「コッチニキテカラ、ヒロキハイチドモチャントワタシノナマエヲヨンデナイヨネ?ドウシテカナ?」
こてんと首を横にする。
振り上げられる万年筆…鈍い傷み。
「前は呼んでくれていたのに…ねぇ、ドウシテカナ?」
痛みでうまく声がでないかわりに…原因の痛みが増していく。
名前を呼ばれたい、その訳は、満たされない承認欲求。
子どもが親の反応を確かめるように、無邪気で強い欲求。
こっちの世界でそれを満たすことができるのは…互いだけだ。
「…ゆゆ…」
「…もう一回…」
「ゆゆ…」
「…」
「ゆゆ!」
「なぁに?弘樹?」
どうしてだろう…。
よく知っているはずの響きが…
よく知っているはずの笑顔が…
ひどく恐ろしくて仕方がないのは…