後始末
柊ゆゆ、今となっては可愛いかどうかは別として…私の義妹となるであろう存在によって身体を乗っ取られていた間に…私こと、金野弘美はなんと社会人になっていた。
昔見ていたアニメなら飴玉を舐めて大人になって、好きな職業にーなんてのもあったけれど、現実でいきなりOLになっているとか笑えない。
…いや、これ大ごとよ。
ついこの間まで大学で勉強だけしていて、バイトの経験もないような私がいきなり社会人って…あの後から弘樹たちに借りてやってみているゲームで例えるならば難易度ベリーハード。
でも、まさか「AIに精神乗っ取られていたので、この話はなかったことにしてください!」なんて言っていきなり会社を辞めたりしたらあとの人生がどうなるかなんて…おおむねよくはならないことだけはわかる。私の意思ではないにしろ、中途半端に就職活動をしていなかった私を雇っていただいた以上は、果たさなくてはならないことがある。
これは…ある意味ではあの事件の「後始末」。
私は、私として会社で事務員として生活することを選んだ。
これからの職務経歴に1年以内で会社を自己都合で辞めたと記すのだけはプライドが許さないのだ。
しばらくの間、ゆゆちゃんから仕事内容を引き継いだ。ゆゆちゃんは意外なほど丁寧にマニュアルを作ってくれていたので、なんとか滞りなく職務を全うしている。相変わらずPCとの相性は悪いけれど…なんとかだましだまし使えるようになってきた。
ベリーハードモードからハードモードへ移行したような感覚といえばいいのか。
そんなOL生活を送る私には、今とても気になっていることがある。
「おはようございます、金野さん。」
それは、この気軽に挨拶をしてくる身長の高い彼のことだ。
最近、通勤経路で出くわすようになった。
彼は私より後に入った経理の男性社員。面接のときに私が受付をして、制服の手配などをしたので自然と話す機会が多くなった。
いつも本を読みながら歩いていて、少し変わり者とみんなからは評価されているけれど…少なからず私は彼のことを気に入っている。
30を少し超えたくらいの年齢で、一度会社に入ってから大学院に入りなおしたらしい。
大学院を目指していた身としては、彼とは学部や専攻は全く違うけれど、この会社で一番論理的な価値観があうように感じる。何気ない会話なのだけど、思考実験をしているようで興味深い。
だからなのかはしらないけれど…バスが48分に最寄りのバス停につくとそわそわする…このタイミングで歩くと交差点で彼と出くわすことが多いから…無意識に雨が降って渋滞にならないといいななどとふとした瞬間に考えてしまっていることがあって自分でも驚いている。
柊ゆゆが対応した人を除いては唯一、初めから私が金野弘美として対応したのは彼だけだから…なんだか変な気分。他の人たちとは最初、なるべく柊ゆゆが演じていた私をイメージして話をしなくちゃならなかったから…彼との出会いは救いでもあった。
だからこそ、そうだからこそきっと安心して話せるから話したいんだ。
「金野さん、今日はカチューシャしてないんですね?」
「あ、今朝はその…寝坊しちゃって…なんか調子悪いなって思ってたんです!」
「へぇ、だからちょっと髪の毛乱れているんですね。」
どうしようもなく恥ずかしくなる。そんなところ見ないでほしい…。
彼は私の変化によく気が付いて指摘してくる。
服装に髪型に靴、メイクを変えたことにも気が付いてくる。
…私としてはその後に「可愛い」とか「似合ってる」とか感想がほしいなって…思ったりもして。
どっちのほうが好きなんだろう…気になるけれど、それはあくまで…少しでも快適に、気持ちよく仕事してほしいっていう気持ちからなだけであって、別に好みに近づきたいとかじゃなくて、不快ならなおしたいなっていうだけなんだから、ね。
「そういえば、この間の展示会はどうでしたか?聞きましたっけ?」
「や、あのあとなかなか一緒になりませんでしたもんね、疲れましたが楽しかったですよー。」
「僕の前の会社では展示会があって…」
会社まで5分もかからない距離。
でも、本から顔をあげて、視線が合って、その本を振ってくれると心が妙にふわふわする。
弟しかいなかったからもともと兄への憧れがあったというのもある…なんとなく隣にいて話を聞いてもらえると落ち着くのだ。きっとそういうのが重なって…こんな気分になっているんだって私は私を分析している。
内心では分析しているのに…なぜか彼の前では動きが落ち着かなくなって失敗ばかりしてしまう。
「じゃぁ、また、今日も頑張りましょう!」
「はい、じゃーまた。」
彼は三階に、私は一度二階で着替えてから五階の総務部へ向かう。
内心で今日は経理へ運ぶ書類が多いといいななんて思いながら着替える。
ついでにお局様に一緒に通勤している時の姿を見られて散々からかわれた。
やれ、相手の素性がいまいちわからないからもっと探りを入れろだの、私が上に聞いてみた限りだの…とりあえず余計な情報が入ってきて私はなんでかずっと彼のことを考えてしまう。
こんなんじゃ誰でも気になるに決まっているよ。
違う、これは…恋なんかじゃない。
私は、ただ話を聞いてくれる男性が珍しくて甘えているだけなんだ。
でも…明日はカチューシャをしていくべきだろうか…どっちなんだろう?
カチューシャをしたら…彼は私を見てまた声をかけてくれるのだろうか…?
分からないけれど、ゆゆちゃんに勝手に切られた髪型では髪を縛ることもできない長さだし、おしゃれといったら…それくらいしか…私の少ない経験値と知識では思いつかない。
「……帰ったら、ゆゆちゃんに相談してみようかな。」
鏡を見て、髪型を手で色々試してみながら呟く。正解がわからないことは苦手。
割り切れない心のせいで最近仕事でもつい彼のことを気にしてしまう。
こんなんでは社会人としてしっかくだ。
これは恋じゃない…恋ではないけれど…彼と出会うことになったのは柊ゆゆがこの会社を選んだせい。
だからあくまで後始末としてゆゆちゃんにも心の整理に付き合ってもらうくらいの権利は私にだってあるはず…だよね?
もやもやとした心を抱えたままで、私は今日も自分のデスクへと向かうのであった。




