Moment-Confusion-Unagitated
小説の草稿みたいなものです。
あっさりしてシナリオ的ですし、描写の細かい部分もないです。
これを下敷きにして、女性視点で本編を書く予定です。
[Moment]
濃い夜気に紛れずに、緑の匂いがする。
今は何も見えなくとも、確かに春は過ぎ行き、夏が始まろうとしている。
疲れ切った身体は、それでもここかしこに熱の余韻を残す。
白い明かりの灯るエントランスに滑り込み、自動ドアが開くのを待った。
耳慣れた音がして、ドアはいつものように開いてくれた。
12階のボタンを押すと、変わりなくエレベーターは上に向かう。
……はずだった。
閉じかけたドアが不意に開く。
ぼんやりしていた俺は気づかなかったようだ。
誰かが乗るために外からボタンを押したのだ。
「……すみません」
細い声は鼓膜をかすかに震わせた。
ふっと、顔を上げる。
正面で、目が合う。
お互いに息を呑んだ。
何も言わないのに、ただ視線を交わしただけなのに、強い圧力が心臓にかかる。
乗ってきたのは、何度か見たことのあるマンションの住人。
顔を合わせれば会釈くらいはする仲だ。
彼女は靴の音を控えめに響かせながら、箱の中に身体を収める。
ボタンをよどみなく押し、閉ざされたドアの前に立った。
点灯したオレンジ色の数字が示すのは、11階。
俺の部屋の、すぐ下の階。
エレベーターはゆっくりと上昇し始める。
息づかいまで聞こえてきそうな、窒息しそうな空気が満ちる。
疲労のせいだと思いたい、酒が残っているせいだと思いたい。
強いめまいがした。
耐えきれず、壁に手をつく。
身動きした気配を察して、彼女の肩が揺れた。
それは、もしかしたらエレベーターそのものの揺れから来ているのだろうか。
でも俺には、もう何も分からなくなった。
レンズ越しの世界が、これほど頼りないものだとは思わなかった。
万物の見える世界が、そこに潜む真実を覆い隠す。
違う。
俺は見ないのではない。
見えないのではない。
見たくないのだ。
自身の弱さを、醜さを、そして彼女への……。
呼吸を忘れていた。
声が洩れないように細く息を吐く。
それでも、彼女には聞こえてしまった。
「大丈夫ですか?」
「……ええ」
返事をするために、逸らした視線を戻さなければならなかった。
彼女は俺を気遣って、振り返った。
体調が悪いと思われているのか。
そう思われていることに、得体の知れない違和感を覚えた。
押し込めて、声を絞り出す。
「大丈夫です。もう着きますから」
「そうですか。……お大事に」
ドアにかけた彼女の左手を何気なく見やる。
エレベーターの動作がいっそ緩慢に思えた。
緩慢? ……それとも性急?
俺はこの瞬間を、いったいどうしたいのだ?
7階、8階、9階……。
あと何秒かで、ドアは開くだろう。
ここで言わなければ。
ここで言えば。
鈍く強く、薬指がきらめいて目に映る。
どちらにせよ、後悔は避けられない。
ーー引き留めるなら、今ーー
[Confusion]
迷ったときは後悔しない方を選べと言う。
では、どちらにしても後悔することが分かっているなら、どうしたらいいのか。
種類の違う後悔が確実に俺を待っている。
この歳になって、する後悔としない後悔の比重はそれほど変わらない。
して味わう後悔と、そうでないものと、噛みしめる思いはまったく違うから。
どちらがどうと一概に言えるものではない。
予測可能な未来、事態、状況、それらを超越してここにいる。
思慮深い方だと思っていた。
衝動とは無縁だと思っていた。
それは違った。
同じ炎でも、業火に焼かれる方を選んだ。
自らの内にくゆり続ける苦しみよりも、指さされ貶められる苦しみの方を。
よりエゴイスティックな方を。
エレベーターは11階を目指していた。
ドアが開くまで、本当にあと数秒だった。
俺は踏み出してしまった。
手を伸ばして、彼女の肩に触れたのだ。
彼女が振り返る。
強い視線が注がれる。
咎めるような、驚いたような。
目を伏せて、聞き取れないほど小さくつぶやいた。
俺の名前を。
彼女は俺を誰なのか、知っていた。
「……すまない」
「いいえ」
11階に到着した。
ドアが開く。
彼女は、何事もなかったかのようにドアの向こうに消えていくだろう。
過ちを赦して、きっとまた、変わらない日常を過ごすために。
それでよかったのだ、と思う。
秘めた言葉は捨てて、忘れて。
彼女は、11階に着いたエレベーターのドアを閉めた。
動揺が隠せずに、たじろいで彼女の顔を見つめる。
唇がスローモーションで動いて、時間がゆっくり進んでいくのが分かる。
この箱だけ、世界から取り残されて。
「……私も、ずっと」
長い睫毛が表情を曖昧にする。
けれど、吐き出された言葉は核心を突く。
繰り返すだろう、一度では済まないに決まっている。
それでいいのか? 俺は? 彼女は?
ーー覚悟は、できているのか?
12階に着いてしまった。
俺は下りなければならない。
だから決断を今、もう一度。
ここで引き返せばまだ間に合う。
11階と12階の住人というだけの関係は保たれる。
12階のフロアに足を踏み入れて、箱の中にいる彼女と対峙する。
深い色の目が、すべてを物語る。
後悔することは分かっているんだ。
ならば、後悔に値するだけのものと引き替えにしよう。
手を取った。
冷たく、じっとりと汗ばんだ手。
俺はとうとう、部屋のドアを開ける。
振り向くと、彼女は静かに頷いた。
ヒールが乾いた音を立てる。
もう重力も揺れもないはずなのに、俺はまた強いめまいを感じていた。
[Unagitated]
重いのとは違う。
けれど密度が高すぎて、胸が苦しい。
俺は肩で息をするのに、彼女は静かにこちらを見つめているだけ。
凪いだ黄昏の海のような空気をまとい、そこにいる。
一瞬、自分が何をしたかさえ忘れた。
今ここにあるのは、幻や妄想のたぐいだと。
それくらい、現実感がなかった。
すべて自分でしたことで、自分が決めたことなのに。
夢みたいだった、というのはたやすい。
でも、その一言で片付けるほど、無垢でも純粋でもない。
俺も、そして彼女も。
ここへこうして来たなら、分かっているはずだ。
俺が何を求めているのかを。
それでなくて、どうしてーー。
ソファに座る彼女。
立ち尽くしてそれを見るばかりの俺。
触れたかった。
身体だけではなく、心までも。
火傷するほどに熱い滴りを、どうにかして感じたいと。
白痴のように手が伸びた。
それしかできることがなかった。
頬に触れようとする手を、彼女がつかんだ。
いや、そっと触れて、それだけで動きを止めた。
わがままを咎められた気がした。
気まずくなり、臆病に手を引っ込める。
彼女が振り仰ぎ、眉間に深い皺を刻んで声を上げた。
「謝らないで」
無言で頷く。
はっとした様子で、彼女は視線を逸らした。
「ねえ、私の名前……知ってる?」
マンションの郵便受けに書かれていた、名字とそれに続く二人分の名前。
その女性名の方。
よどみなく、答えてみせる。
「……そうだったの」
「何が……?」
「ほんの出来心だろうって思ってたの。だから私の名前さえ、知らないんじゃないかって」
「そんなこと……」
「うん。でも、違うみたいね」
今度こそ黙りこくった。
何が違うのか。何から外れれば、違うというのか。
だとしたら、きっと最初から何もかもが違うだろう。
外れ、隔て、疎まれて。
それは俺だけじゃない。
彼女も同じだ。
これから、俺と彼女は同じ穴に堕ちるのだ。
あの箱は俺たちを乗せて、この夜の吹きだまりへ運んできた。
澱んで停まった世界をもう一度動かすために。
ー続く