第二話『初めての想い』
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「あらー! それってどう考えても一目惚れじゃないのよ!」
念入りに顔の手入れをしていた千代がくるりと椅子と共に小春の方を振り返った。
現在の時刻は午後六時。小春が務めている店は、午後七時から開店する。その為、そこで働く者達は今が最も準備に忙しい時間であった。それにもかかわらず、千代は小春の話に耳を傾け、わざわざ振り返ってまで反応を示してくれたのである。
まさかそんなにもあっさりとその結論を突き付けられ、小春は激しく動揺した。
「ち、違うわよ! 第一、学生よ!? 男子学生なのよ!?」
「良いじゃないのよう! 年の差恋愛なんて、素敵じゃなーい!」
論点はそこではないと言いたかった小春だったが、千代がいつも全く以て人の話を聞いていない事を思い出し、そこで口を閉じる。
小春が働いているこのバーは、小春に似た者達で構成されているものである。マスターの考案によって成立した店であり、キャバクラなどというよりも、お客を励ましたりするような、悩み相談も含めた店として存在していた。
小春の本名は別に存在する。“小春”というのは、いわゆる源氏名というやつに近いものだった。
かつての過去を捨て去り、小春はここに存在している。勿論、ここで働く他の者達も同様に、過去を捨ててここで新たな自分を創り上げ、生活しているのであった。
「それにしても、本当ロマンチックねえ……手を差し伸べてくれる男の子だなんて、完全に白馬の王子様じゃないの」
小春の隣で眉を描いていた菖蒲が呟く。
それは、小春とて同じ想いを持っていた。しかし、助けてくれた王子様に恋をしたという、そんな簡単な話ではない。千代の言ったような年の差という問題でもない。
相手が――男、であるという事であった。小春は自身が女性のように振る舞っているとはいえ、同性に恋をして良いものなのかと悩んでいたのである。
小春が今のような状態になる前もなった後も、特に同性を好きになるといったような事はなかった。それが、今回はあの少年の笑顔を見ただけで、胸が高鳴る様な思いがしたのである。
同僚達と歩いていて、格好良い男性を見掛けた時はふざけて格好良いやら素敵やらと述べる事はあっても、今回のような事は初めてだった。
もしこれを恋であると定義するならば、本当にそういう事なのかもしれない。しかし、やはり罪悪感のようなものも覚えていた。
「……おい、喋ってないで早く支度しやがれって言ってんのが聞こえなかったのか?」
地に響くような低い声色でそう言ったのは、他でもない、バーのマスターである蛍であった。
ドアに近い壁のとこに寄りかかる様にして立ちながら、苛々している様子で煙草を咥えている。彼が不機嫌なのはいつもの事であったが、やはりその声色に恐れを感じない者はいなかった。
必死に準備しながらも、何とか機嫌を取ろうと動いたのは千代だった。
「や、やだー! ちゃんと準備してるわよマスター! お客様に顔見せ出来るくらいには、綺麗にしてるわよう!」
「そんなんじゃ人様に見せられねえよ廃棄物」
「廃棄物!? 何か前より酷くなってない!? 前はまだ余り物って言ってくれたじゃないのよ!」
「もはや余り物である価値すらなくなったんだ。それくらい察しろ」
「そんなの察したくもないわ!」
蛍が毒舌である事はバーで働く者なら知らない者はいなかった。しかも、それが向けられるのは小春を含めた彼らだけである。
それは営業中の中でも平然と毒は吐かれていた。客がいようがいまいが関係ない。小春達は蛍からの毒を受けながらも、日々を生きていた。それが嫌だという事ではない。無論、嫌であったならば言い返している。今の千代が、良い例だ。
こうして日々が過ぎて行く。他人とは少し違うけれど、これが彼らの日常であった。
小春はこの日常に嫌気が差した事は一度もなかった。逆に居心地が良過ぎる程であった。
たった一人で生きていく筈だった者達が集まった、余り物の憩いの場。この世に嫌気が差した者達が暫しの間心落ち着かせられる、夢の店。それがこのバー・レーヴだった。
「……ほら、てめえら、開店だ。お客様をお迎えしやがれ」
「分かっていますとも!」
千代達は鏡を振り返り、最終確認をしてから化粧部屋を後にした。小春もゆっくりと立ち上がり、彼らの後を追う。
昼間の少年の事が頭から抜け切れていない小春だったが、今は何よりも仕事が最優先であるという事を思い出した。これ以上ぼうっとして天を見上げていたならば、また蛍に何を言われるか分かったものではない。
一度だけ深呼吸し、小春は気持ちを入れ替えてバーへと向かうのだった。