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番外編 幻住庵

 《ぼくの世界》


…ジリリリリ!

「ん…うるさいなぁ」

少女はそう言って目覚まし時計を切る。

「ここは…そうか…戻って来ちゃったんだね…」

少女はそう言って布団から起き上がるとおもむろに玄関から外へと出た。朝日がようやく顔を出したばかりの、薄暗い空にまだ僅かに星の光が点在していた。

「…今思えば…あれが夢だったのか現実だったのかぼくにはわからない。けれども…あの世界での出会いと約束だけは紛れも無い事実なんだよねきっと…」

早朝の清んだ空気の中、少女は一人静かにそう呟いた…。

…とある世界、とある辺境の小さな村にとても元気で活発な女の子が住んでいました。

彼女の名前はイチ。元々は小さい頃に村の近くに捨てられていたのを村人によって拾われた捨子でしたが、村人達に大切に育てられ今では独立して、小さいながら自分の家と畑を持って生活しています。

親切な村人達や幼なじみのバルに囲まれ、イチは幸せで平凡な毎日を過ごしていました。

…でも彼女には一つだけ悩みがありました。彼女にとっては平凡な毎日はとても退屈でした。どうにかしてこの退屈な現状を打開しようと毎日のように考えていましたが…その答えを見つけられずにいたのです。


「…ふぅ…種まきの前の畑の手入れは疲れるなぁ…今日はここまでにしようっと」

…少女は今日もいつも通り農作業に励んでいました。気がつけば既に日は傾き、辺りは闇に包まれつつありました。

「今日も特に何も無かった…毎日が同じことの繰り返し…ぼくはこんな退屈な人生を延々と送り続けるのかなぁ…?」

沈み行く太陽を見送りながら少女はそう呟いた。


家に帰った彼女は汚れた体を濡れたタオルでよく拭いた後、夕食の準備を始めた。畑で収穫した野菜に山で採った山菜、川で捕まえた川魚…毎日のメニューはたいして変わらないものだった。そんな単調な夕食を、毎日のように少女はさっさと胃袋に収めてしまうのである。

「…ごちそーさま!今度はもう少し濃い味付けにしようかな、うん」


夕食を済ませた少女は特にすることもないので、畑の端に寝転んで満天の星空を眺めるのが日課となっている。

「…綺麗だなぁ…この星空はいったい何処まで続いているのだろう…」

少女は星空を見る度にそんなことを考えるのであった。

「…オリオン座…そうか…ぼくが村に来てからもう16年も経つのかぁ…」

彼女は自分の誕生日も正確な年齢も知らなかったが、拾われた時に空の真上にオリオン座があったことは聞いていたので大雑把な年月はわかった。

「星座は一年を掛けて空を巡るけれど…ぼくは一年中この村の中だなぁ」

そう少女は呟いた。

…やがて夜も深くなってきたので少女は家に戻り眠ることにした。

歯を磨き、寝間着に着替え、いつものように床に布団を敷いてそこに横になる。薄い掛布団を首まで被ると、やがて少女を緩やかな睡魔が襲う。

「明日も早起きして畑の世話をしなくちゃ…でも、ちゃんと起きれるか心配だな…早起きはあまり得意じゃ…ない…し…」

そんな不安を考えながらも、彼女は静かに眠りについた。


…そして、この日の出会いが少女の運命を変えることになる…



  《幻夢の世界》


「…ん…あれ…ここは…どこ…?」

…ふと気がつくと、イチは見知らぬ景色の中に独りたたずんでいた。辺りには赤茶色のレンガ造りの家々が立ち並び、イチが立っている道は甃でできていた。…そこは何処かの町のようであった。

「町…?見たことの無いような景色だけど…?」

イチはふと空を見上げてみる。…青い空を白い雲がゆっくりと流れるだけの、別に普通のよく晴れた日の空だ。

「なんでぼくはこんなところにいるのだろうか?…確か布団に入って寝てたはずじゃあ…?あっ、そうか!これはきっと夢なんだ!」

そう言ってイチは自分のほっぺをつねってみる。

「いででっ!」

…痛かった。

「夢じゃあないの?じゃあ…ここはいったい?」

彼女はヒリヒリと痛むほっぺを擦りながらしばらく考えていたが…

「うーん…こうしていても仕方ない。とりあえず色々と探索しようっと」

そう言ってとりあえず町の中を歩いてまわってみることにした。


…とても静かだった。昼間にも関わらず町中には人影が全くない。家の中には灯りがともり、店には様々な商品が並んでいて人々が生活している様子が容易に伺えるのにも関わらず、人間はおろか動物の気配すらしない。

…それはまるで、ついさっきまでこの町に人がいたと言うよりはむしろ最初から誰もいない…そんな気がした。

「おかしいなぁ…なんで誰もいないんだろう?」

さすがに単純で気楽な性格のイチも、誰の気配も感じられないので段々怖くなってきた様子。とりあえず、ふと目についたパン屋へと入ってみることにした。

「すいませーん!誰かいませんかー?」

…返事はない。

店の中には様々な種類の焼きたてのパンがところせましと並べられ、何とも言い難い良い香りが漂っていた。

「うわぁ、いい匂い…美味しそうだなぁ…誰もいないし…ちょっとだけ食べちゃえ!」

イチは誰もいないのをいいことに、近くに置いてあった丸くて小さなパンを手にとると一口かじってみた。

「もぐもぐ…うん、香ばしくて美味しい!」

まだかすかに温かなパンの旨味が口いっぱいに広がる。…彼女には、それがこの静かな世界では不自然なくらいに美味しく感じられた。

「そうだ、今更だけど…もしかして店の奥に誰かいたりして」

イチはそう言って、残りのパンを口に頬張ると店の奥にあるパン工房へと足を踏み入れた。工房にはまるでついさっきまで職人がパンを作っていたかのように、パン生地や麺棒が無造作に置かれていた。そして、パンを焼きあげるための釜戸には火すら焚いたままであった。

「…やっぱり誰もいない…ホント、どうなってるんだこの町は?」

イチにはただ首を傾げることしかできなかった。


…その後もイチは町中をさまよい歩いたが、やはり誰もいない。犬も猫も鳥も人も…命ある物の存在は一切感じられなかった。ただ、静寂と無生物的な物だけがそこに転がっていた。

「…なぜだろう…知らない場所のはずなのに…なんだかずっと前から知っていたような…そんな気がする…」

そんなイチの髪を不思議なほど優しく柔かなそよ風が撫でてゆく…。


…もうどのくらいの時間(とき)が過ぎたのだろうか?本当に静かな町だった。イチの住む村もそれほど賑やかなところではなかったが、それでも小鳥のさえずりくらいは聞こえる。しかし、この町にはまるで『無』しかない…そんな気がした。

「ふぅ…さすがに足が疲れちゃったよ」

イチはそう言って空を仰いだ。…相変わらず空はきれいに晴れわたっている。

「あれ〜…もうだいぶ歩いたつもりなのに…あんまり太陽の位置が変わらない気が…ま、気のせいかな」

とりあえず、落ち着いて休憩できる場所を探すためイチは再び歩き出す。

「それにしても…誰にも会わないのはともかく、こんだけ歩き回って町の出入口にすらたどり着かないなんて…」

そう、普通これだけ歩き回れば町の端、つまりは出入口に遭遇してもよいはずなのに…全くそれが見えない。

それに、イチにはもう一つ気になることが…

「気のせいかも知れないけれど…なんだかぼく、さっきから同じような場所ばかりぐるぐる回っているような気が…?」

まるで巨大な迷路の中に閉じ込められた…そんな気すらしてきた。


…しばらく歩き回っていると、やがて広場のような場所にたどり着いた。円形に作られたその広場はとても広くて直径は200m以上あるだろうか。中央には彫刻で装飾され、何段にも重なり合った立派な噴水が絶えず大量の水を美しく吹き出していた。

「うわぁ…すごい…初めて見る景色だよ」

初めて見る噴水の姿にイチは自分の置かれた状況も忘れて、しばらくその美しい装飾と躍動する水に見入っていた。

「あれ、誰かいる…?」

噴水を眺めていたイチがふと気がつくと、噴水の縁に誰かが腰掛けているのが目に入った。

「誰だろう?今まで誰もいなかったのに…」

イチは不思議に思いながらも、この町に人がいたことに少しだけ安心して噴水の方へと歩みを進めた。


「…あら…この世界に人間が来るなんて…珍しいこともあるんだね」

噴水に腰掛けていた人物はそう近づいて来たイチに言った。

身長は小柄なイチよりもさらに少し低く、顔付きから判断するにイチと同じ女の子で歳も同じくらいだろうか。髪はあまり長くなく鮮やかなオレンジ色、瞳は透き通った美しい桃色をしていた。服装はパーカーにジーンズとゆう比較的カジュアル…と言うかむしろラフな格好で、頭には何故か不自然に黒い角帽をかぶっている。そして、手には何やら分厚い一冊の本が開かれていた。

「え…君は?」

「私は…ヴァイシェーシカ・ディスヴァイス・ディアボロス・ニル・アドミラリィ…だよ」

「…?????」

「…ニルでいいよ。あなたの名前は?」

あまりに長い名前を聞いて目が点のイチに、自らをニルと名乗るその少女はそう言った。

「ぼくはイチだけど…ニルはこの町の人なの?」

イチはそう聞いてみる。

「そうだね…半分くらいは正解かな?」

ニルは少々不適な笑みを浮かべながらそうイチに答えた。

「半分?」

イチはそう首を傾げた。

「確かに私はこの町の住人。でも、そもそもこの世界にはこの町しかない。この町にはこの私しかいないから…」

「…え?」

「この世界はあなたの創造よりずっと小さくて…そして複雑なの。この町がこの世界の全てであり…私がこの世界唯一の存在なんだよ」

ニルはそうイチに言う。

「つ、つまり…この町にはニルしかいないってこと?」

「そうだよイチ」

「それって、他の人は何処に行っちゃったの?」

「何処にも行ってないよ。…最初からいないんだ、この町に人間なんて」

「…???」

「なかなか理解に苦しんでいるみたいねイチ、無理もないけど。いいわ、私もいくつか聞きたいことがあるし…ついて来て、私の家で話しましょう?」

頭の中が混乱しそうなイチの様子を見て、ニルはそう提案した。


…こうして、イチはニルと並んで広場を後にして町の中を北へと歩き出す。ニルの歩幅は小柄なイチのそれよりもさらに小さかったので、イチもニルに合わせてゆっくり歩いた。

「そう言えば、その本は何なのニル?」

イチはどうやらニルが手にしている分厚い本のことが気になる様子。

「ああ、コレ?ラスト・プレリュードって小説だよ。読んでみる?」

「え、あ、いや、ぼくはいいや…」

…イチは文字だらけの本が大の苦手である。

「そう?面白いと思うんだけどなぁ」

「はは…ニルは本は好きなの?」

「好きと言うか…読書くらいしかやることないし」

「そっか…そうなんだ」

「ところで…イチはどうやってこの世界に?」

ニルが少々不思議そうにイチに聞く。

「さぁ…ぼくにもよくわからないんだ。自分の部屋の布団で眠ってたのに、気がついたらこの町にいたんだよ」

「なるほど…多分、イチの睡眠中の意識の波長とこの世界の波長が同調(シンクロ)して一時的に亜空間の歪みがうんぬんかんぬん…」

「は?え??」

「…要はここはあなたの夢の中の世界ってこと」

「でも、さっき自分のほっぺをつねってみたけど普通に痛かったよ?」

「だから…厳密に言えば夢の中とは違うんだって」

「ふ〜ん…ところで、ゲンミツって何?ハチミツの親戚?」

「…」

ニルがこの時、イチがどんな人間なのかを悟ったのは言うまでもないだろう。

「ニルはさっき他の人はいないって言ってたけど…それじゃあパン屋さんのパンとかは誰が作っているの?」

「さぁ…知らないよ。だけど、いつでも生活に必要なものは揃っているから独りでも私が困ることは無いんだよ」

「そうなんだ…ホントに不思議な世界(ところ)なんだね」

「まぁ、私にとってはこれが当たり前なんだけどね。…着いたよ、ここが私のお家」

そう言ってニルは一つの建物の前で足を止めた。その建物は一階建てのレンガ造りの小さなもので、まるで周りの風景に溶け込むようにして建っていた。

「こんなところにこんな建物があるなんて…全然気がつかなかった」

「さっき言ったでしょ、この世界は小さいけど複雑だってね。とりあえず中に入りましょうか」


家の中に入ってみると意外と中は広く見えた。部屋の壁に沿って本棚がずらりと並び、その中には様々な書籍が大きさも色も不揃いに並べられている。読みかけなのかそれとも本棚に入りきらないのだろうか、部屋の端の床にはいくつかの本が無造作に山積みにされていた。大きな窓が奥に一つあって、他には部屋の真ん中辺りに小さなちゃぶ台が置いてあるだけのシンプルな家であった。

「ほぇ〜…本がいっぱい!」

「だから、読書くらいしかやることないのよ私。ちょっと待ってて、今お茶とか出すから」

そうイチに言うと、ニルは部屋の一番奥へと入っていった。

「読書くらいしかやることない…か。なんだかぼく…今までものすごく贅沢なことを望んできていたのかも」

今までの自分の生活とこの世界を比べながら、イチはそんなことを考えるのであった。自分の育った村での生活は確かに退屈なものなのかも知れない。けれども、誰かと会おうと思えばいつでも会えたし色々楽しく会話だってできた。そんな当たり前だとばかり思っていた他人の暖かさ、優しさを感じることがこの世界ではできない…だとしたら、彼女(ニル)はいったい今までどんな気持ちで過ごしてきたのだろうか?そう思うと、イチは自分のあまりにも身勝手な考えがなんだか恥ずかしくなるのであった。

「…お待たせ。ささ、座った座った」

やがてニルが部屋の奥から戻ってきた。すると彼女はそう言って、何やら緑色の飲み物と黒くて四角い食べ物をちゃぶ台の上に置いた。

「…なにこれ?」

「ただの緑茶とただのようかんだよ。…大丈夫、毒なんか入ってないから」

ニルが座りながらそう言う。

「それはそうだろうけど…どれどれ…?」

イチはちゃぶ台の前に座ると、刺さっていた楊枝でようかんを一口食べてみる。それから緑茶をゆっくりとすすってみた。

「…どう?口に合うかしら?」

ニルが聞くと、

「うん!初めて食べたけど、すっごく美味しいね」

イチは満面の笑みで答えた。

「そう…それはよかったわ」

満足そうなイチを見て、ニルは出会ってから初めてそれらしい笑顔を見せた。

「ニルは毎日こんなに美味しいもの食べてるの?」

「まさか、これはそもそもお菓子の類だよ。普段は…そうだなぁ、何を食べてるんだろうか?」

「え?覚えてないの?」

「覚えてないと言うか…食事なんて気の向いた時に適当にしか食べないから」

ニルはようかんを口に運びながらイチにそう言う。

「ふーん、じゃあぼくと同じだ。ぼくもお腹が空いたら我慢しないですぐに何か食べちゃうもん」

「それとはちょっと違うような気が…」

イチの発言を聞いてニルは苦笑いした。

「緑茶にようかん…世の中には色んな食べ物があるんだね」

ようかんをまじまじと見つめながらイチが感心するように言う。

「そうだよイチ、世界はとても広いし知らないことだらけなんだ」

「それって…どうゆうこと?」

「まぁ…簡単に言えば人間なんて小さくてちっぽけな存在ってこと。例え人生の全てを捧げたとしても、世界の全てを見ることなんて到底できないし世界の全てを知ることもできないだろうね」

「ふ〜ん…」

ニルはさらにこう続ける。

「世界の数なんて誰も知らない。イチが普段生活してる世界も私のいるこの世界も…星の数ほどもある世界のほんの一つに過ぎないんだよ」

彼女はそう語った。

「つまり、世界は無数に存在してぼくの知らないことがたくさんあるわけだ?」

「…ま、要訳するとね」

イチの問いにニルは茶をすすりながらそう答えた。

「そうか…よし!決めた!」

突然、何かを思いついたかのようにイチが言った。

「決めたって何を?」

ニルがそう質問する。

「前々から思っていたんだけど…向こうの世界に帰ったら、ぼくは旅にでることにするよ」

「別に構わないけど、また何故?」

「なんだかぼくは村で一生農作業するのには向いていない気がするんだ。もっと色んな世界を見て感じて…とにかくもっと色々知りたいんだ」

「色々知りたいんだったらそれこそ本なり何なり読めば済むんじゃなくて?」

「それはそうかも知れないけど…実際に経験しなかったら本当の価値ってわからないんじゃないかとぼくは思うんだよ。正直、本を読んで感じられるものって実はそんなに無いんじゃないかって時々感じるんだ」

イチはそう真剣な眼差しで語る。

「…そうね…確かにどんな優れた文献でも所詮は薄っぺらな二次元の世界…空虚(ニル・アドミラリィ)な虚像…そう、この世界の…この私のように…」

ニルはそう呟く。イチの話を聞いていて、彼女はなんだかとても虚しい気持ちになった。自分の生きている世界には何も感じるものが無い。だとしたら自我を持つ意味が果たしてあるのだろうか?本の中でしか自らの感性を発見できない自分に生きている価値があるのだろうか?…普段からそんなことを考えていたニルにとってはイチの言葉が痛烈に心に突き刺さった。

「あ…ごめん、別にそんなつもりで言ったんじゃ…」

「…ううん、気にしないでイチ。あなたの言う通りなんだから。

もし、あなた自身が納得するなら旅に出てみるのも悪くないと思うわ」

ニルはそうイチに言った。

「うん、とにかくよく考えてからにするよ。…でも…その前に大事なことを聞き忘れてた」

「何?」

「この世界からはどうやって帰ればいいのかな?とりあえず帰らないとみんな心配するだろうし旅にも出れないし…あ、別にぼくはニルとずっと一緒でも楽しいからいいんだけどね」

「…だめよイチ、あなたはちゃんと自分の世界に帰らないと。この世界は本来あなたのいるべき場所じゃないんだから…」

「そっか…」

「…私についてきてイチ、この世界から唯一出られる場所に案内するから…」

「うん…わかったよニル」

こうして、心になんだか言葉では表現できない曇りを残したまま二人はニルの自宅を後にしたのでした…。



  《空間赤化》


ニルの自宅を出た二人は町中をさらに北へと進んでいきました。さっきまで青かった空も夕日に照らされて真っ赤に染まっていた。それでも、辺りは相変わらず不気味なほどの静寂に包まれている。

「ねえ、ニル?」

「何?」

「ぼくは今まで自分が不幸な人間だとばかり思ってた。…だけど、ニルと出会ってそれが間違いだったって気がついたんだ。当たり前だと思ってた村人(みんな)の存在がどれだけぼくにとって大事だったかのか、それがどれだけ幸せなことだったのか…この世界に来て初めて解かったよ」

イチはそう言った。

「…そうだね、人間ってなかなか当たり前であることの幸せには気づかないものなのよね。私も…ううん、なんでもない。でも旅には出るんでしょ?」

ニルはイチに何か言いかけたが、あえてそれ以上言わなかった。代わりにイチに旅に出るか否かを質問した。

「もちろん。でもね、世界の全てを見たらちゃんと故郷の村に帰るつもりなんだ。やっぱり、ぼくがいるべき本当の場所だと思うから…」

「私もそれが良いと思うよ。旅は大変な重労働だけど、終わった後に何かが残るような良い旅路になるといいわね」

「うん!ぼく、ニルの分まで頑張るよ」

「うふふ、ありがとうねイチ。…さぁ、着いたよ。ここがこの世界で唯一無二の出入口だよ」

二人が辿り着いたのは小さな駅だった。プラットホームにはベンチが一つあるだけで閑散としている。…そして、単線の線路が真っ直ぐ何処までも伸びていた。

「ここが?」

「そうだよ、待っていればいずれ汽車が来るだろうからそれに乗れば元来た世界に戻れるよ」

ニルはそう言った。とりあえず二人はベンチに腰掛けて列車を待つことにした。目の前には、沈み行く大きな夕日が赤々と輝き世界をオレンジ色に染めている。

「…綺麗な夕日ね。もう数え切れないくらい見てきてるはずなのに…今日の夕日はいつもと何だか違う気がするよ」

ニルがそう言う。

「そうだね」

「帰ったら旅に出るんだろうから私から一つアドバイス。世界は常に中立的な存在なの…『正義』とか『悪』みたいに二極化できないってことだけは絶対に忘れないでね」

「う〜ん…難しいけどちゃんと覚えてるよ」

「きっとイチにもそのうちわかるようになるわよ」

「それもそうだね!…ところで、今度はいつ遊びに来てもいいのニル?」

「…それはできないわ。おそらく永久にね…」

「…え…?」

一瞬、沈黙の時間が流れた…。

「…この路線は一方通行、つまりこの世界からは出られるけどこの世界に再び来ることはできないの」

ニルがそう説明する。

「そ、そんな…で、でもぼくが寝ればまた…」

「それも無理ね。そう毎度同調なんかしないから。…そもそもあなたがこの世界に来れたこと自体が奇跡に等しいんだよ?」

「そんな…それじゃあニルは…」

「そうだよイチ。私はまた独りぼっちになる」

ニルは淡々と言った。

「独りぼっちになるって…どうしてもっと早く言ってくれなかったの!?」

「言ったって何もならないし、それが私にとっては当たり前のことだから…」

「ダメだよ!独りぼっちだなんて…そうだ!ニルもぼくと一緒に来ればいいんだ!そうすれば…」

「残念だけどそれは出来ない。…私はこの世界の中だけの存在…この世界の中だけでしか生きられないのよ」

「それならぼくが…」

「あなたもこの世界には長くはいられない。24時間も経てばあなた自身が消滅することになっちゃうから…」

…夕日で世界がよりいっそう赤味を帯びる頃、強い風が二人の髪を撫でていく…そして、間もなく小さな無人の蒸気機関車に客車が2両だけついた粗末な列車が到着した。…それは二人の別れの時を意味していた。

「…さぁ、お別れの時間だよイチ。短い時間だったけど…本当にありがとう。私、こんなに楽しかったの初めてだった…こんなに嬉しかったの今までなかった…ずっとずっとイチのことは忘れないよ…!」

ニルはその桃色の瞳に涙をいっぱいに溜めてそう言った。

「そんなこと言わないでよ!ぼくは帰らない!ずっとニルと一緒だもん!」

「ありがとうイチ。…でもその言葉だけで十分よ。あなたには自分の世界に帰ってやらなくちゃいけないことがきっとたくさんあるはずなんだから…」

「ニル…」

…イチとニルは静かにお互いを抱きしめあった。それはまるで、これで最後になるかも知れない友人の温もりを惜しみ感じているようでもあった。

「…さあ、もう汽車が出るわ。忘れないで、自分が何をするべきなのか…」

「うん…ありがとうニル。ぼくもとっても楽しかった。…絶対に約束する、何があってもぼくはまた必ずこの世界に来る」

「私もずっとイチのこと待ってる…何があっても…」

…二人はそう言って再び熱い抱擁を交わした。


やがてイチが客車に乗り込むと、まるでそれを待っていたかのように列車はゆっくりと動き出した。列車は徐々に速度を上げて、ホームから遠ざかって行く。

「ありがとうニル!だけどもさよならは言わない…また必ず会えるから…!!」

イチが客車の窓から身を乗り出して力いっぱいホームのニルに叫んだ。

「元気でねイチ!私、ずっとずっといつまでもイチのこと待ってるからー!」

ニルもホームの端から精一杯列車に向かって叫んだ。


…やがて、列車は遥か遠くの地平線にその姿を消していきました…そして、再び世界には独りの少女と静寂だけが残されました…。


「…さよならイチ…あなたは私の宝物だよ…」

ホームの上の少女はそう涙ながらに呟いた…。


 《私の世界》


静寂が支配する夜空の星々を独りの少女が眺めていた。

「…静かだなぁ…いや、きっとこれが普通なんだよね。今までがにぎやか過ぎたんだ」

少女はそう言って、掌を夜空にかざしてみる。

「あなたは私に色々教えてくれたね。楽しいこと、嬉しいこと…そして誰かを愛すること…数えればきりがないよねきっと。また会えるのだろうか?…ううん、それまで私はずっと待ってる。だからきっとまた来てくれるに違いないんだ。…あなたは今、何処で何をしているの?もう…あなたのことしか考えなれないよ…」

…少女の瞳から、一筋の大粒の透き通った涙が零れ落ちるのでした…。

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