第八話 憎悪
ミス・ジェニファー・アンダーソンのアパートから通りへ出ると、オスは銃を持つ手を振り、東へと向かう仕草を送ってきた。
オスの飼い主は、どうやらイーストサイド方面にいるらしい。
と言う事は、飼い主はオブライエンである可能性が非常に高くなる。『異端審問』はそちらへは進出していない。
確かに犯罪組織ではあるが、本来の目的は存在しない『異端』を狩り出し、自らの正義と主張を認めさせる事だ。英雄的行為を目撃するのが下層階級や移民ばかりのイーストサイドでは、その主張をヒト属全体に蔓延させるのは到底無理だ。住民の質の高い地域に、自然と活動場所は限定される。
最低とされる区画に根城を構えるのは、かのオスのプロファイルの方に適合する。
ミス・アンダーソンがなぜ、それと行動を共にするのかが、まだ完全には理解できていない。少なくとも、進んで『異端審問』に加担する程の意志力は、持ち合わせていないはず。
姉が『異端』に浚われたとでも、想像しているのだろうか?
彼女の心を射止めるには、その辺の謎を解くのも、おそらく有効な手だろう。
歩き続けるうちに、いつの間にか、さらに危険な場所へと来ていたらしい。
濃霧越しにも、路上の端々に座り込む浮浪者の群れは、一ブロック毎に増えていくのが判る。満目荒涼たる建物の連なりの中、胸のむかつく臭気が辺りを漂う。臭気の元が浮浪者達の体臭なのか、開け放たれたままのマンホールから漂う汚物臭なのか、それともどこかで腐乱死体が転がっているからなのか、確かめる術はない。
どうせこの付近からは、警官が脚を踏み入れるには二の足を踏む地区のはずだ。立ち入ったが最期、二度と姿を見せずに消えるなど、イーストサイドでは日常の出来事だ。
「ここだ」
オスが言ってきたのは、ゴミの散らばった十字路の角に建つ大廈高楼たる劇場だった。しかし今や見る影もなく、壁の塗装は半ば剥げ落ち、二階から三階に当たる窓はすべて砕かれている。
印象的なのは、『Theatre』の看板の、『T』と最初の『e』の二文字が抜け落ち、最後に『d』の赤い文字が、壁にペンキで殴り書きされている事だ。
書いたのは誰であれ、オブライエンではなかろう。あれにはそこまでのユーモアのセンスも、想像力もない。
ユーモアの持ち主に、カーウィンは一抹の敬意すら抱いた。『hatred(憎悪)』とはまた、絶望的な環境にふさわしい飾りだと、言えなくもない。
折しも十字路の方では、濃霧に紛れて複数の赤い光が舞っていた。大人の怒声に、子供の許しを乞う泣き声、重い金属の擦れる音が、光の方角から聞こえてくる。
「………やだやだ、やだっ……! もう行きたくない!」
「やかましいっ! 飢え死にしかかったとこ、誰に拾われたと思ってやがる! 無駄飯食らいが! ちったあてめえの食い扶持ぐれぇ、てめえで稼いできやがれ!」
短い口論の後に、肉を叩く音が鳴った。子供を殴りつけたのだろう。
子供に何をさせようというのか、尋ねるまでもない。下水道に降ろし、ネズミを捕まえさせるつもりだ。
捕まえたネズミの多くは賭場で殺されるが、一日に一度でも古新聞を溶かした粥を啜れれば上出来のヒト属にとり、ネズミの肉は貴重な動物性蛋白質である。ネズミの肉を商売にするのがいても、おかしい話ではない。
子供を使うのにも、論理的な説明がある。下水道は狭く、大人では満足に動き回れない。その点、子供なら不自由なく動き回れるし、雇う賃金も少なくて済む。環境が悪いと抗議するようなら、腕ずくで黙らせるのも良いし、人一倍働かせるのも良い。
すすり泣きながらも、子供達はおとなしく下水道へ送られているらしい。反抗した時の仕置きを思えば、当然であろう。
「……良いかぁ。一人十匹捕まえて来るまで、出してやらねぇからなぁ。気張って捕まえて来い!」
何体かが、たがの外れたけたたましい笑いを上げた。
連中の上げる笑い声は、少なくともカーウィンの趣味ではなかった。左頬をひきつらせ、再度劇場の看板を見上げる。
『hatred』
果たして何体の子供が、このような感情を抱いて成長するのだろうか。
さして多くあるまい。
一日の大半を暗い下水道で過ごし、一歩間違えれば、ネズミに生きたまま喰われる環境下にあるのだ。大人の仕打ちに対する怒りを、どれだけ持続できる? 激情を保てるのは幸運な少数だ。
「何ボサッと突っ立ってやがる! とっとと歩きやがらねぇか!」
通りで行われる光景には一抹の関心も向けず、オスは銃口をカーウィンの背中に押し付けた。
カーウィンは一歩前に進んでから、オスへ向き直った。
「君。そのような無粋な代物、押し当てないでくれたまえ。不潔じゃないか」
銃や弾薬など、カーウィンの目には汚物の塊としか見えない。花火や刃物は嫌いではないが、殺傷のためだけの道具は、目にするのも汚らわしい。
同じ価値観をオスは持っていなかったらしい。露骨に形相を変え、銃口を今度は胸に押し当てる。
「てめぇ! どこの貴族様だか知らねぇがよぉ、ここまで来といて、綺麗汚ぇ言っている暇、あるとでも思っていんのかぁ! 明日の朝までにゃあ、路地裏でネズミの餌になってっかもしんねぇんだぞ!」
「確かに」
カーウィンは認めた。
「けど、死んでしまえば、綺麗も不潔もネズミの餌も、関係ないではないか。今の僕は生きているのでね、綺麗さと清潔さは気になる」
自分の台詞に、カーウィンは自嘲めいた微笑を浮かべた。
生命の定義では、オスは生命ではない。単独で子孫を生産できないからだ。それは他生物の核に自らの遺伝子を潜り込ませ、取り付いた核に生産させるウィルスも同様だ。
なのに細胞段階で見ると、オスでも細胞は『生きて』いる事になってしまう。『オス』では持ち得ない『自己増殖』の能力を、細胞は有するからだ。
細胞レベルでは生命で、集合体になると非生命になってしまう。オスとはそれ程に不安定な存在だ。
一瞬オスは、不可解な表情を見せた。カーウィンの笑みの意味を理解できなかったらしい。
「……そうかよ。てめえを殺した後にゃあ、下水道に捨てて、ネズミ取りの餌にでもしろって、言っといてやらぁ」
オスが未だに理解できていないと見、カーウィンは思わず再度微笑んだ。オスが鼻白むに任せ、蝶番から外れかかっている『hatred』のドアへと向かう。
ドアの手前で立ち止まり、背後のオスが開けるのを待つ。
しかしオスは後ろで立ち止まり、ドアを開けようという素振りを見せない。
「どうしたのかね? さっさと開けないか」
「てめえが開けるんだよ! ここはてめえがいつも通っているような、お上品な場所じゃねぇんだ。てめえが通りたきゃあ、てめえで開けるんだな」
オスのご託に、カーウィンはもう一度振り向いた。
「ところで、本当にここに、ミス・ジェニファー・アンダーソンはいるのかな? 君の下らない強盗行為のためなら、余計な手間をかけさせないでくれたまえ」
目的は彼女だけなのだ。自分が目標にされない限り、そしてヒト属の増殖率に影響するのでもない限り、オブライエンが何を計画しようと、何体殺害しようと、何体の子供が下水道でのたれ死のうと、今は知った事ではない。
目の前のオスの存在も、彼女の居場所を知るために、我慢しているに過ぎない。我慢できないからと、除去に自分の手を煩わす主義は持ち合わせていない。
オスは鼻息を吐いた。侮蔑のつもりだったのだろうか。
「ふん。安心しろよ。ジェニーなら、クリスと一緒にいるからよ」
多少は安心できる答えだ。それでも関係の深さ如何によっては、犯罪に関わらないよう彼女を説得するのは、骨の折れる仕事だろう。
カーウィンは見えない程度に小さな溜め息を漏らすと、ステッキの頭でドアを押した。
壊れているのは蝶番だけでなく、錠も同様だったらしい。油の切れた軋み音を立て、ドアは開いた。
街灯の満足にない路上と較べても、中は当然の事ながら一層暗い。光源となる物は何一つなく、入ってきたドアを閉めてしまえば、完全な暗闇に閉ざされそうだ。
「右側にランプがあるだろ? 点けろ」
オスの言う通り、右手の壁の下には傘付きのランプが三つ並んでいた。案内役のオスの他にも、まだ別の個体が来ると、予定でもしているのだろうか。
ランプを一つ拾い上げ、手持ちのマッチで火を灯す。喫煙の習慣は持っていなくても、持ち歩くのは礼儀だ。
赤橙色の光に照らされた廊下を、オスの銃口に示されるまま、楽屋に続くらしい階段を目指して歩き出す。
「ミス・アンダーソンの居場所を教えてもらえれば、案内してもらうまでもないと思うのだが?」
拳銃のような不潔な代物が背中にあると考えるだけで、嘔吐感にも似た不快感が、胸から喉元の辺りまで駆け登ってくる。オスの言葉遣いも、正直なところ耳を塞いでしまいたい。潔癖症な婦人方を卒倒させるに充分で、正しい言葉遣いを教えてやりたい誘惑すら覚える。
「うるせぇ! そんなてめぇの言い分聞いて、逃がしてやるような間抜けだと、思ってでもいるんかよ!」
返答は、予想した通りのものだった。典型的な被害妄想に取り憑かれており、逃げられる状況でないのにも関わらず、見張る事に固執している。
しかし、まだ危険ではない。
階段を降りた先に、光が漏れていた。
元は物置だったらしい部屋の前で、オスは立ち止まらせると、声を上げた。
「おいジェニー、客だ」
目的のミス・ジェニファー・アンダーソンが顔を覗かせたのは、数秒後の事だった。客の正体を見て取り、露骨に顔を歪める。歪めた理由が、現れた雇用主のためか、場違いな貴族のためだからか、そこまでは判らない。
「卿。なぜこんな所まで……?」
「貴女を放ってはおけない。それだけですよ」
カーウィンは軽く会釈すると、場違いとすら思える上品な微笑みを口元に浮かべた。
「……放って……? 一体何を……」
戸惑いすら感じさせる女性に、カーウィンは頭を振って見せた。
「貴女をいつまでも、犯罪者の仲間にさせておく訳にはいかないでしょう?」
「大きなお世話です!」
「てめぇ、何言ってやがる!」
彼女とオスの声が重なるが、カーウィンの耳に入ったのは、ミス・アンダーソンの声だけだった。笑みの度合いは変えずに、首だけをわずかに傾げる。
「大きなお世話? 貴女から見ればそうかもしれません。ですが、犯罪者と手を切りたくても、切れない状態にあるらしい貴女を見て、この僕が見て見ぬふりをしていられると、誤解されては心外ですね」
「何を根拠に」
「おや、違うとおっしゃられる? 人殺しは楽しくないと、確か先日言われたばかりではないですか。それとも、殺人は趣味ではなくとも、他の犯罪行為は止められないとでも?」
彼女は息を飲み、頬を染めた。
「私が喜んで犯罪に手を貸しているだなんて、思わないで下さい!」
「だったら、手を切れるよう、僕に協力させて下さい」
「無理です!」
「何故?」
カーウィンの問いに答えたのは、背後のオスだった。言葉にはせず、銃口をカーウィンの背中に押し当てる。
声にはされなくても、答えとしては充分だ。
「なる程」
極めてありふれた成り行きに、カーウィンは納得した。
犯罪者の組織など、入るのは簡単でも、抜け出すには骨の折れるものだ。真面目に生きたいからと、これまでの罪を償うために刑務所で数年を過ごそうとも、無事に生きて出られるとは限らない。大概刑務所内の抗争に紛れて暗殺されるか、出所したところを狙われるのがほとんどだ。一度入ったが最期、死ぬまで抜けられないのが、犯罪者組織の規則だ。
「つまり、抜け出したくても抜けられない。そうおっしゃられたい? 僕がそれを理解してないと、誤解されるとは」
「ふん。まるでてめぇ、何か考えがあるみてぇな言い方じゃねぇか」
オスは鼻を鳴らすが、カーウィンは答える手間をない。
オスが抜け出そうと考えていないのは、言わずもがなの事だ。抜け出そうと画策する個体がいれば、真っ先に処刑に走る方だろう。まかり間違い、犯罪から手を洗おうと模索したところで、カーウィンには手を貸す気もない。
対するミス・アンダーソンの表情は、能面を思わせる無感情だった。
抜け出すか留まるか、半々という所だろう。何故に犯罪者連中と行動を共にしているのか判らないが、敢えて危険を冒してまで、抜け出したいとは考えていまい。同時に、多少なり連中のやり方に不満も抱いており、交際が疎ましくなっている所でもある。
結果、何も考えたくないからと無感情になり、自意識も著しく阻害されるようになる。
ミス・アンダーソンを犯罪から遠ざけなければ、後の交際に影響が出てしまう。できるなら避けたい事態の一つだ。
「それで、イムグリオイスト卿? 本当に何かお考えでもあって、ここまでいらしたのですか?」
カーウィンは小さく頷き、懐に手を入れた。背中の銃口がより強く当てられ、武器の類ではない証拠に、ゆっくりと手にした紙片を取り出す。
「実は、劇場のチケットが手に入ったのでね、誘いに来たのですよ」
「どういう理屈だ! バカじゃねぇのか、てめぇ!」
喚き散らすオスと同意だと言いたげに、彼女は力なくかぶりを振った。
「何か考えがあるのかどうか、尋ねたのはそちらではないですか。ミス・アンダーソン、貴女を誘いに来るのは、そこまでバカげた行為ですか?」
「時と場合によります!」
声を荒げる彼女にも、カーウィンは恐れ入った素振りを見せない。
「ほう? では、どういう時と場合によるか、教えてもらえませんか? 次の参考にしたいですから」
「貴族っての、常識知らずのバカばっかじゃねぇんだろうなぁ? そのくれぇ、てめぇの頭で考えられねぇのか」
オスは呻いた。
田夫野人極まりないオスの言い分に、返答するする気力も湧かない。他人の行動が理解できないから、バカと決めつけるのはお門違いの話だ。その理屈で行けば、掌で踊る単純さこそが、賢いという説になる。そしておそらく、オスの基準にある賢愚とは、その程度のものだろう。
オスの存在は頭から無視し、カーウィンはポケットから懐中時計を取り出すと、時間を確認した。
「さて、ミス・アンダーソン。そろそろ行きましょうか」
答えたのは彼女ではなく、オスの方だった。カーウィンが体勢を崩しかねないまでに、銃口に力を込める。
「だからてめぇはバカかって聞いているんだ! はいそうですかって、簡単に見逃すとでも思っていんのかよ!」
理性的に考察すれば、もっともな言い様だ。折角貴族の一体を誘拐しながら、おとなしく逃がす犯罪者を見つけるのは、酷く骨の折れる仕事だろう。生かしておくかどうかはともかく、身代金を要求しようと思いついて、何ら不思議はない。
今回のオスの言い分も、カーウィンは無視した。話の相手はミス・アンダーソンであり、その邪魔をする礼儀知らずを、相手にするつもりはない。ただのオスに、興味もない。
「ミス・アンダーソン、せめて返事位、聞かせてもらえませんか?」
彼女はわずかにたじろいだ。この時になってもなお、返答を求められるとは思っていなかったようだ。
「それは……」
「きくひつようねぇだろうが!」
割って入ったのは、背後のオスではなかった。
二体目のオスが、ミス・アンダーソンのいる物置跡から顔を覗かせた。歳は二十代の半ばというところか。どちらかと言えば頑健な体格をしており、無理矢理とすら思える乱暴な態度で、ミス・アンダーソンを中へ引き入れてしまう。
「こいつぁオレのおんなだ! なんでてめぇみてぇなやつとつきあわなくっちゃならねぇ!」
クリストファー・オブライエン。
危険人物だ。