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第七話 接触

 総個体数百万を越える大都市ともなれば、貧富の差により、住居を構える区画に格差が産まれるのは、仕方のない話だ。

 ミス・ジェニファー・アンダーソンが住むスパイタルフィールドと言う一画は、街の最東部寄りの、中の下といった平民が住む区画である。馬車の入れないゴミゴミした区画が多く、浮浪者避けの水を撒く家屋も少なくなるためか、路上に寝泊まりする頭数が、ちらほらと増え始める場所でもある。

 幸いと言うべきかどうか、この辺りにたむろする宿無し連中は、まだ上等な部類に入るらしい。最東部のイーストエンドに見られるような、古新聞を煮詰めた粥で一日を食いつなぐ光景は、まず目にされない。そこでは運が良ければ、下水道で捕まえたネズミの肉を入れるそうだ。逆にネズミに食い殺され、二度と陽の目を見ない個体も多いと聞く。野良とされる犬猫を見かけないのは、言わずもがなだ。

 いかに多少治安が良いと言え、アイロンをきちんとかけた折り目正しいスーツの上下を着ていれば、嫌でも目立ってしまう区画でもある。ズボンの裾が泥で汚れておらず、おろし立ての純白の手袋はシミ一つなく、握りが金製のステッキという出で立ちともなれば、濃霧で隠されてでもいなければ、あちこちの路地裏に隠れた強盗の絶好の餌食であろう。

 場所に不似合いな服装だと判っていても、平民らしい服装をするという思考は、カーウィンには余りにもおぞましい案だった。

 倫理にもとる。爵位を持つ者はそれらしく、平民は平民らしく、身分に相応しい服装をしなくてはならない。

 彼女の住むアパートも、想像するだけで身の毛がよだつ構想の代物だ。壁一枚隔てた隣に、赤の他人が住むのだ。考えただけで吐き気を催す。

 建物の中に入り、二階までの階段を中程登った頃から、赤ん坊か幼児の泣き声が聞こえてきた。父親なのか、別の部屋からなのか、意味を聞き取れる程ではない罵声も加わっている。

 階段を登りきった先は、ボロボロのカーペットが敷かれた廊下になっていた。泣き声は一層高くなり、怒鳴り声も響き渡っている。

 しかし一体も出てこない。

 隣の個体の生死など、気にしないものだ。騒々しいからと文句を言った途端、逆鱗に触れた個体に銃を持ち出されないと、どの個体に言える。あるいは、暗がりで待ち伏せされ、骨の二、三本、へし折られるのも教訓だろう。外から石を投げられ、銃を乱射され、火炎瓶を投げ込まれなければ、御の字とすべき時だってある。中には、学ぶ機会を得られなった個体だって存在するのだから。

 怪我をしたくなければ、関わらなければ良い。名前すら知らなければ、なお良い。隣の個体を知らなければ、身元不明の腐乱死体が一ヶ月ばかり転がっていたところで、気がつかなかった、の一言で面倒を避けられる。

 二千年程昔の強度の妄想患者とて、『無関心』を『八大罪悪』の一つに加えていたものだ。それが今や、押しも押されもせぬ市民権を獲得し、大気の如く蔓延するに到っている。仮にも『無関心』を嘆こうものなら、時代錯誤の一言で迫害される風潮すら漂っている。

 支配する側からすれば、非常に都合良い淳風美俗じゅんぷうびぞくだ。

 その結果、どのドアからも住人の名を記すプレートは姿を消した。残ったのは、部屋番号だけだ。数式化されるのを嫌い、管理に抵抗しておきながら、辿り着いた先がどこなのか、尋ねるまでもない。

 かくして、革命の名の下、多大の血を流して勝ち取った自由のもたらしたものは、思想と行動の自由の名を借りたアナーキズムとパラノイアだけだ。発言力のある個体の言葉こそを真実とし、自らの無知に安寧とする家畜の精神が完成した。

 支配からの自由を求めておきながら、結果は、自ら別の檻の中に入っただけではないか。どこが進歩したというのだ。飼い主の顔触れが変わっただけで、本質は何一つ変わっていない。変われないのは、二千年前のヒト属と較べ、どれだけ進歩したか、見るだけで良い。

 所詮は管理され、支配される事を望む、『大衆』の一言に埋もれたい顔のないヒト属だ。質問する自体間違えている。

 通りかかったドアの反対から聞こえる肉を叩く小気味良い音と女性の悲鳴が、カーウィンを現実に引き戻した。オスが女性を殴りつけたらしい。オスの怒声に合わせるように、赤ん坊の泣き声も一層高まる。

 立ち止まり、目的の部屋の前を通り過ぎてしまったと気づく。

 立ち止まったのは、争う女性とオスのいる部屋の前だ。確かにそれなら、物音が一番良く聞こえてもおかしくない。

 カーウィンは一体で納得すると、目的の部屋に脚を向け直し、途中で動きを止めた。

 オスの声音が変わったのだ。ドア越しのために内容は聞き取れないが、これまでの一方的な侮蔑と怒号から、侮蔑の中にも一抹の哀願が込められた口調へと変わっている。それとも、撃てるものなら撃ってみろと、侮蔑でもしたのだろうか。

 じきに、くぐもった銃声が上がった。続いて、何か重い物の落ちる音。そしてオスの声は聞こえなくなる。

 そしてもう一度銃声。

 赤ん坊の泣き声も消えた。

 室内で何が起きたのか、想像に難くない事態だし、銃声は他の部屋にも届いたはず。

 なのに、ヒト属は一体も出てこない。

 ヒト属の安全欲求は、自称『理性人』の呼ぶ『理性』より強かっただけの話だ。

 それはまた、カーウィンのヒト属に対する認識の正確さを証明するものでもある。

 カーウィンは満足すると、ミス・アンダーソンの部屋のドアを叩いた。

 出てこないのは、ミス・ジェニファー・アンダーソンにしても同じだった。居留守を使っているのか、本当に留守なのか、ドアを見るだけでは当然判らない。

 多分留守なのだろうと、カーウィンは見当をつけた。彼女の非番の日を狙ったつもりなのが。例のオスの元にでも行ったのだろうか。

 もう一度ドアを叩き、返答がないと確認すると、カーウィンは階段へと脚を向けた。

 しかし二歩も歩けなかった。

 階段からオスが一体姿を現し、立ち塞がったのだ。片手に拳銃を握り、銃口を向けている。

 アイロンすらかかっていない着古した安物の服。泥で茶色に汚れたブーツには、無数のヒビが入っている。蓬頭垢面ほうとうこうめんなのは、裕福でないらしいから許すとしても、不潔にも手袋すらしていない。そのような汚い手で食事を摂ると考えるだけで、胸がむかついてくる。

 言葉を口にしたのは、オスが先だった。

 「何者だ、てめぇは!」

 「名前を尋ねるなら、まず自己紹介が先でしょう?」

 それの言葉遣いは、下層階級の訛りが色濃い。顔を背けたい衝動を堪えるには、かなりの自制心が必要だった。

 「やかましい! 訊いているんはこっちだ! ジェニーに何の用がある!」

 「ミス・ジェニファー・アンダーソン」

 カーウィンは柔らかに訂正した。

 「ところで、彼女とはどういうご関係?」

 「うるせぇ! てめぇはこっちの質問だけ答えりゃあ良いんだ!」

 取りつく島もないとは、この事だ。怒鳴り散らせば、相手から敬意を得られるとでも思っているのだろうか。少なくとも、銃器を見せびらかせば、尊敬を得ると信じているのは間違いなさそうだ。

 「いいか、始めから聞き直すぞ! てめぇ、何もんだ!」

 「ところでミス・アンダーソン、今晩は……ミスタ……オブライエン……の所なのかな……?」

 オスに敬称を付けるだけで、舌が下顎に貼り付き、鳥肌が立つ。顔以外の全身、余すところなく隠してあるのは幸いだ。

 質問を無視され、オスは顔を赤らめた。

 「てめぇ、これが脅しだと……」

 「ああ、やっぱり……。じゃあ、案内して下さい」

 オスが聞く耳を持たないように、カーウィンも最後まで聞いてやる義務は感じなかった。どうせ一語一語予測のつく単語の羅列は、聞いても面白くない。

 オスが何らかの調教を受けているのは、態度から伺える。しかし軍隊や警察関係ではなさそうだ。その手の組織に加わるには、少々精神的に不安定に見える。入りたくても入れてもらえないだろうし、必要最低限の教育も受けているとは思えない。語彙の少なさが物語っている。

 となれば、残される筋は『異端審問インクィジョン』や他の犯罪組織になる。パラミリタリー程度の躾なら、そこでもやっているはずだ。

 「バカか、てめぇ……。何でわざわざ……」

 「さ。行きましょうか」

 オスのご託は無視し、カーウィンは階段へと歩き始めていた。

 オスの横を通り抜け、三歩行き過ぎた所で立ち止まり、振り返る。

 「彼女の居場所を知らないなら、話は別ですけどね」

 「……てめぇ……生かしちゃおかねぇからな……」

 歯軋りの音すら聞こえそうな険悪な威嚇にも、カーウィンは顔色一つ変えなかった。

 この手のオスは、教えられた以上の行動はしないよう調教されている。元から思考の幅が狭い上に、体罰や例をもって仕込まれ、唯々諾々と従うしかできなくなっている。

 ただし問題は、オスがオブライエンの指示下にいるのか、『異端審問インクィジョン』の命令で来たのか、どちらなのか判断できない事だ。

 まあ、じきに明らかになるだろう。

 その点に関しては、カーウィンは楽観的だった。


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