第五話 出会い
馬車の屋根を叩く音に、カーウィンは顔を上げた。
懐中時計を取り出し、時間を確かめる。ラジウムを塗った文字盤は、暗い中でもうっすらと光を放っている。
聖ブラウン孤児院を後にし、一時間と少ししか経過していない。窓から見える濃霧は幸運にも薄まり、建物の輪郭が見える程には晴れている。
しかし時間はさして重要ではない。
孤児院から出てきた女性が、重要なのだ。
日頃と比べれば薄い霧でも、カーウィンには後ろ姿から、女性がミス・アンダーソンだと、見当を付けるのが精一杯だった。間違えたとしても、彼女の居場所が変わる訳ではない。
「やってくれ」
カーウィンが窓の外に声をかけると、手綱を振る音と一呼吸の間を置いて、馬車が動き出した。
彼女が向かうのは街の方角だった。『ゾンビ』の群れを避けながら、足早に歩いている。外出用の濃緑色のケープを羽織っているので、彼女が私服に着替えたのか制服のままか、そこまでは判らない。少なくとも、結わえ上げた髪を隠す白いキャップは被っていない。
馬車は彼女の横を通り過ぎ、数メートル前方で停車した。
カーウィンは窓から顔を覗かせ、彼女が予想通り、ミス・アンダーソンであると確認すると、満足して微笑んだ。
彼女の歩く側のドアを開け、半身乗り出す。
「ミス・アンダーソン」
名前を呼ばれ、彼女は足を止めた。声の主が何者か知り、表情を固くする。
「イムグリオイスト卿」
表情と同様に、声も固い。先程の孤児院の訪問が原因か、クリストファー・オブライエンへの態度が原因か、少なからぬ敵意すら含まれているようだ。
カーウィンは気にしなかった。
「こんな夜分の外出は危険です。市街へ向かわれるのでしょう? お送りしますよ」
「遠慮します」
馬車の横を通り過ぎようとする彼女に、カーウィンは馬車から降りると、立ち塞がった。
「女性を一人歩きさせるのは、それこそ礼儀に反します。馬車がお好きでなければ、お供しましょう」
「それも遠慮します」
彼女は無下に断り、カーウィンの横を通り抜けた。
「お好きなように」
振られてもカーウィンは顔色一つ変えず、慇懃なまでの会釈を、振り返りもしない彼女に送り、シルクハットを被り直した。
「でも残念です。貴女のような女性が、あのような犯罪者と交際しているなんて」
彼女の足が止まった。幾分驚愕の色すら浮かべ、馬車に片足を乗せたカーウィンを振り返る。
「何の事です?」
「ミスタ・クリストファー・オブライエン。彼でしょう、昨晩貴女が一緒だった……男性……は?」
カーウィンは再び路上に立つと、ドアを大きく開け、屈託ない微笑みを浮かべた。
「お送りしますよ」
彼女が頬を強張らせたのを、わざと見逃す。
「ありがとう……ございます……」
歯の間から絞り出すような声で、彼女は感謝を述べた。
○ ○ ○ ○ ○
ジェシカ・アンダーソン。五年前、カーウィンと交際した女性であり、隣に座るジェニファー・アンダーソンの実姉である。
公式には行方不明で処理されている彼女の面影を妹の顔に重ねつつ、カーウィンは楽しい笑みを漏らした。
「何がおかしいんです?」
睨み付ける彼女に、慌てて口元を隠す。
「失礼。貴女のような女性と同伴できるとは、実に幸運なので」
手を伸ばせば、いつでも触れられる距離に彼女がいるのだ、楽しいではないか。袖口に隠し持つナイフで襲いかかれば、一瞬で絶命させられる。このままどこかの宿に連れ込み、時間をかけて解剖するのも有意義だろう。
しかし初対面の女性を、満足に知りもしないまま解剖するのは、信条に反する。今晩はちょっとした会話程度で良い。それだけで、一晩を費やす価値がある。
彼女の方は、同じ心境にないようだ。どこか敵意すら感じさせる険のある目で、外を睨み続けている。
「脅迫紛いに誘っておいて……」
「断るつもりなら断れたでしょう?」
彼女の頬に朱が差した。口を開きかけ、結局適当な言葉が見つからなかったのか、憮然と口を閉じる。
「それとも、余程後ろめたい事を隠しているとか?」
彼女が何人殺害してきたのか知りようはない。昨夜の表情から受けた印象では、そう多くはあるまい。多くなれば、個体数削減に一切の感慨を抱かなくなるものだ。屠殺場の牛馬を殺すのに、嫌悪を抱かないのと同じで。そして自らの行動を正当化する理由があれば、じきに獲物を進んで探すようになる。
「そちら程じゃありません!」
「なる程」
意外に強い口調の彼女だったが、いとも容易く同意されたのが驚きだったのか、しばらくまたも言葉を無くした。
「もしかして……バカにしているんですか……?」
険のある目から、明らかな敵意ある視線へと、彼女の目つきが変わった。
「そんな事ありません。僕にも後ろめたい秘密の一つや二つ、ありますから。貴女が交際相手を秘密にしておきたい理由が、犯罪関係の人物という以外、ほとんど知りませんけど、余程隠しておきたいんでしょう?」
「それだけで、隠すには充分じゃありません? 卿も先程、彼を警戒するよう、言っていたではないですか」
カーウィンは再び笑い声を漏らした。
立ち聞きしていたと、彼女は認めたのだ。こんな夜遅く外出したのも、かのオスにこの件を伝えるためなのではなかろうか。
「貴女の言う通り、それだけ、でしょう? まさかそれで解雇されるだなんて、心配した訳ですか?」
彼女の気勢が半減した。誰が雇用主か、改めて思い出したらしい。
「そういうつもりで……」
「……隠していたのではない。判っています」
彼女の後半の言葉を、カーウィンは受け継いだ。
「率直に言って、貴女の身を心配しているんですよ。彼と交際を続けて、刑務所に行き着きたくはないでしょう?」
「どういう……意味です……?」
失った気勢を取り戻し、彼女はまたも敵意の視線を向けてきた。
カーウィンは笑みを殺し、真剣な表情を取り繕った。
「彼の背後関係ですよ。聞くところによれば、『異端審問』の一員じゃないですか。貴女に濡れ衣を着せ、警察に差し出す程度の事、平気でやる連中ではありませんか」
「そんな事ありません!」
「根拠は?」
声を荒げ否定する彼女に、すかさず質問を返す。
下の連中に全ての罪を着せ、上に立つ自分は知らぬ存ぜぬで通すやり方は、犯罪組織のみならず、組織というもののどこにでも見受けられる行為である。国の最高位にある女王陛下とて、その意味では綺麗ではない。陛下の公にできない秘密も、二つ三つ知っている。警察機関が未だ貴族と平民に分割されている理由も、実はこれが最大の要因だ。
ましてや非合法組織ともなれば、保身のために『親友』とやらを売るのも珍しい事例ではなかろう。終身刑か死刑かの瀬戸際で、親友を売り払わない犯罪者というのは珍しいのではなかろうか。例え売り払わなくとも、それは組織からの口封じを恐れての事で、友情なる関係故ではない。
予想通り彼女は口ごもった。考えた事がなかったのだろう。
「……彼……とどういう関係にあるか、僕は知りませんけどね、犯罪関係にある……人物……との交際は、やはり控えるべきでしょう?」
「でもそんな事、卿に指摘される謂れありません! ちゃんと判っています!」
カーウィンは笑みを再度浮かべた。
彼女のような女性との会話は、実に楽しい。クルミと同じだ。殻を叩き割れば、中身は柔らかく美味な身が詰まっている。解剖で肉体を破壊し尽くす前に、頑迷固陋な殻に包まれた思考の一片一片を叩き壊し、精神的な苦痛に表情を歪めるのを見るのも、交際する楽しみの一部だ。
「それは貴女が、彼の本性を知らないからなのでは?」
彼女が険しい視線で睨むのにも構わず、カーウィンは孤児院から持ち出したファイルを差し出した。
「ここに彼の過去の実績があります。まあ、従業員であれば周知の事でしょうけれど。試しに読んでみては? 新しい発見があるかもしれませんよ」
「結構です。過去の話に、興味ありません」
ファイルを突き返されても、カーウィンは怒りもしない。返って笑みを深めるだけだ。
「それは良かった。ミス・ジェシカ・アンダーソン、つまり貴女のお姉さんの事も、忘れておられる。そういう意味ですね?」
ジェニファーは息を飲んだ。
「姉の事、何を知っているんですか!」
「過去の話です」
カーウィンは平然と受け流し、ファイルをコートの下にしまった。
ミス・ジェシカ・アンダーソンは行方不明となる寸前まで、どこか高貴なオスと交際していたらしいと、陰で噂されている。失踪した原因が、身分違いのオスの子供を身ごもったためとか、オスとの別れ話がこじれ殺害されたのだとか、噂は尽きない。ただし相手のオスについて調査されたとの話は聞かない。
当然の成り行きだ。貴族専門の警察組織の調査内容は、一般警察では関与できない。
「それとこれとは別の話です!」
「そうですか? どう話が違うのか、よろしければ後で聞かせてもらいましょう。それより、到着したようですよ」
馬車は既に、半ばスラム化した街中の一画に差し掛かろうとしていた。ミス・ジェニファー・アンダーソンは、そんな治安がよろしくないとされる通りの手前を、目的地と指定している。
軽い制動がかかり、馬車は停止した。
「本当にこんな場所でよろしい? 自宅までお送りしますよ、遠慮しないで下されば」
彼女の瞳の奥で、複雑な感情が入り乱れた。『異端審問』と合流するか、姉の失踪についてのさらなる情報を得るべきか、葛藤しているのであろう。
「いえ、結構です」
前者が勝利を収め、御者の開けたドアから彼女は外に出た。
「もし卿が、姉の失踪と関係しているなら、そんな方の好意に甘える訳にはいきまん。そうでなくても、姉が行方知れずになった時にも、卿が捜査に協力して下さったとは、寡聞して存じておりません。知っていながら協力して下さらなかった。そんな卑怯者の好意、受け取れるはずないでしょう」
荒れる感情を表すかのように、彼女は挨拶もせずに背中を向けた。ほんの数秒で姿は濃霧に包まれ、じきカーウィンの目には追えなくなる。
「屋敷へやってくれ」
相変わらず唇に薄い笑みを浮かべたまま、カーウィンは御者に命じた。
姉の生存を、彼女がどれだけ信じているかは判らない。しかしそれは重要ではない。撒いた餌に、彼女は食い付いた。もう逃げられない。
姉妹共々楽しませてくれるようだ。
それがカーウィンには嬉しかった。