第四話 孤児院
カーウィンを乗せた馬車がイムグリオイスト家の門を抜け、夜の街中に出たのは、ダールトン警部が去り、一時間としないうちだった。
目指すは聖ブラウン孤児院、ミス・ジェニファー・アンダーソンが働く孤児院だ。
馬車に揺られながら、カーウィンは読んだばかりの彼女の経歴を、頭の中で反芻した。
その内容に、思わず含み笑いを漏らす。
報告に目を通すまでは、彼女が何者か予想すらできずにいた。『異端審問』での追われる側と追う側が、表では雇用主と従業員の間柄に逆転するという、それだけの関係ではない。
五年前、彼女の姉が謎の失踪を遂げている。行方を知るのはカーウィンだけだ。
そして現在、奇しくも行方不明になった当時の姉と同じ年になった妹が、同じようにカーウィンの目に止まった訳だ。
偶然と呼ぶには出来過ぎた偶然に、何か大きな存在の意図を、疑いたくなる。
無論、『主』なる存在は、頭から信じていない。何かしらの永続性を求めたヒト属が、苦肉の末に創造した偶像を、後生大事に崇める趣味は微塵もない。宗教を完全に捨て去っていない理由は、貴族の名目を守り、世間からの信用を得るためだ。
脇道に逸れかかる思考を、元の軌道に戻す。
ミス・アンダーソンにどのような接触を図るか、具体的には決めていない。いつものように、一週間から一ヶ月以上費やし、相手の過去や行動パターンを調査した後、接触を取るような手段は、まず取れまい。彼女がこちらを知っているのは確実だし、行方不明になった姉との関連を、疑っている可能性すらある。
利点としては、彼女の過去を五年分調査するだけで良いところか。姉の知人という事実も、役に立つかもしれない。
だが、綿密な計画を立てるのは、カーウィンの趣味ではない。杓子定規に計画に従う女性は、交際しても面白くない。交際するなら、慎重かつ綿密に組み上げた計画に穴を開け、台無しにしてくれる女性であろう。もし用意周到な計画を立て、接近するなら。そういう意味で驚かされるのは、決して嫌いではない。
だからと言って、無為無策な通り魔や、手練手管に長けた本業の殺し屋扱いされたくはない。通り魔では相手の女性と知り合う機会がなく、殺し屋では操り人形と交際しているようなものだ。そしていずれにせよ、好みでもない女性と、交際しなくてはない義務が増える。
交際し、気に入った女性だけを念入りに解剖する信条だけは、誰にも譲らない。
「まず、彼女に挨拶してから、かな……?」
彼女と交際するためでなく、孤児院の出資者としても、彼女を『異端審問』の犯罪行為から引き離すよう尽力する責任がある。彼女が警察に取りつかれては、後の交際に支障が出るし、孤児院と『異端審問』が繋がっていると噂されるのも、迷惑な話である。
二十分も馬車に揺られたところで、馬車は停止した。
聖ブラウン孤児院は、工場街の片隅に位置していた。地理的には、石炭や鋼材を運ぶ汽車が、昼夜問わず往復する鉄道を右手に臨み、鐵を打つ音の止まない広大な各種工場の敷地が、背後を占めるような場所だ。左手に建つ小さな古びた同名の教会は、工場からの煤煙でさらに薄汚れ、実際よりも古びた印象を与える。
正面の通りを行く歩行者は少ない。見かけるとしても、ほとんどは住む場所すらない浮浪者か、朝から夜遅くまで低賃金で働かされ、疲れた足を引きずる就労者ばかりである。どちらも瞳は虚ろで、希望も夢も無い、死んだ目をしている。経営者や貴族といった手を汚すことのない連中が、『ゾンビ』と侮蔑する行尸走肉である。
御者の開けたドアから路上に降り立ち、カーウィンはすぐさま形の良い眉をひそめた。
『霧の都』名物の濃霧と夜の暗さに、気の滅入るような光景を目にせずに済むのは有り難い。しかし工場の排煙なのか、近所のドブ川から立ち上る臭気なのか、腐食した重金属とメタンを混合したような悪臭は、霧では誤魔化しようもない。
濃霧を透かし、孤児院の名を記した煤で黒く汚れた看板と、煤で黒いシミの付いた窓越しに、厚いカーテンの隙間から光が漏れているのをカーウィンは認めた。
看板の横を通り過ぎ、ステッキの頭でドアを叩く。
すぐ側のカーテンが動き、誰かの顔が一瞬覗いた。カーテンはすぐに閉じられ、ドア越しにも、慌ただしい足音と怒鳴り声が聞こえてくる。最低三つの名が叫ばれ、たっぷり一分は待たされてから、ドアが開いた。
出迎えたのは、五人の女性だった。年齢は様々でも、全員濃い緑色のワンピースに、白いエプロンという恰好をしている。髪は頭の上で結わえ、白いキャップの下に隠している。
五人の女性のうち一人が、昨晩の『異端審問』の一人だと認め、カーウィンは上機嫌な小さな笑みを口元に浮かべた。似顔絵だけの報告でも、警察の調べは間違っていなかったようだ。彼女こそが、ミス・アンダーソンであろう。
「イムグリオイスト卿!」
五人の中では一番年長の、四十を越えた女性が、どこか卑屈さすら感じさせる恭しさで進み出た。
「あらかじめご連絡下されば、皆でお出迎えしましたものを……」
前置きを並び立てる女性の言葉を、ステッキの一振りで黙らせる。
「別に、視察に来た訳ではありません」
この一言で、五人の表情に安堵の色が現れた。
多くの孤児院と異なり、採算を無視した完全な一個体の慈善事業なのだ。切り捨てられるとすれば、真っ先にリストに上げられるのは避けられない。それだけに、スポンサーの視察には戦々恐々とするものらしい。万が一切り捨てられれば、すぐ外の通りを歩く『ゾンビ』が、彼女らの翌日からの姿である。
「それじゃあ……どんな御用で……?」
平身低頭する年長の婦人に即答はせず、勝手知ったる足取りで、事務室へと向かう。室内には他に彼女だけが入り、残りを外に置き去りにし、ドアを背後で閉じる。
カーウィンは窓際まで歩み、ほとんど何も見えない外を背に、彼女に向き直った。丁度彼女が、デスクの上のランプに火を入れたところだ。
「この孤児院出身で、よろしくない噂を耳にしました。心当たりは?」
年輩の婦人は、眉をしかめた。記憶を探っているのか、演技なのか、別に重要ではない。
「さあ……。何しろ、百人以上がこの数年で独り立ちしていますから……。全員が全員、模範的な市民になった保証はありませんわ」
予想していた返答だ。場所が悪いと喚き、食事が少ないと文句を言い、嫌いな個体がいると暴れ、すべての不満の責任を管理する個体に押し付けるのは、ごく自然な反応だ。どれか一つの不満を取り除くため、収容できる個体数を減らしたところで、不満の種はいつでも幾らでも転がっている。横になったまま餌を食わせてもらい、動かずに下の世話までしてもらう無為徒食こそが、ヒト属の理想なのだから仕方ない。
そしてそのような理想的な生活を与えてくれなかった管理人、果ては社会全体にまで悲憤慷慨し、責任追及を称し犯罪に走る個体は少なくない。
「では、クリストファー・オブライエン、という名に心当たりは?」
「やっぱり、問題を起こしたんですね」
突然のスポンサーの訪問の意味が、ようやく納得できたとばかりに、彼女は大きく頷いた。口振りからするに、孤児院でも問題だったようだ。
「何でも、悪い連中と交際している。そう聞いただけです」
カーウィンは正確な表現を避けた。ドアの外で立ち聞きされているかもしれず、それがミス・アンダーソンでない保証はない。カーウィンの独断専行に、ダールトンがどう反応しようと、この時点では大して問題ではない。
婦人は小首を傾げ、左手を顎に当てた。
「さあ……。卿がどのような噂をお耳にされたのかは存じませんけど、親しい関係については……。まあ、犯罪に走ったとしても、彼なら不思議じゃありませんけど」
「と言うと?」
オスの経歴などに興味はなかったが、カーウィンは先を促した。ミス・アンダーソンを手中に収めるためなら、精子製造と散布のみが存在意義のオスのつまらない話にも、耳を傾け、苦痛に耐える価値があるかもしれない。
「自分勝手な子供だったんです。……と言うか、自己顕示欲の強い我が儘で、意見が通らなければ暴れるような、そういう意味で、ですけど……」
婦人は壁沿いに立てられた本棚に歩むと、無数の書類の中から、一つのファイルを取り出した。『クリストファー・オブライエン』と、名が記されている。
「これが彼の、ここでの業績ですわ。割られたガラスに、怪我をさせられた子供、近所の商店での盗み、警察に補導された経歴まで、すべて記録してあります。もし興味があるのでしたら、どうぞ、お持ちになって下さい。彼はこの孤児院の汚点の一つですわ」
最後の一言は、彼女の本心からの言葉らしく、吐き出すような口調だった。
理由はいずれとして、院で飼育する子供達は全員両親不在だ。大人に目をかけてもらいたい気持ちから、問題児という行動に繋がるのは、別に不思議ではない。毎度のように問題を起こしていれば、確かに大人の注意を引ける。
あるいは、実際深刻な性格的欠陥を持っていたのかもしれない。どのような欠陥かは、まだ何とも言えないが。
雇用主に示すにはぞんざいに突き出されたファイルを、カーウィンは受け取った。
「それで、彼と親しかった子供、あるいは親しい人物に、心当たりは?」
彼女の反応は、侮蔑と軽蔑を一つにまとめ、一息に吐き出す音だった。
「は。彼と親しい? すぐに殴りつけるような相手に、好意を持つ子供がいるはずありませんわ。まあ当時は、気の弱い子供を何人か無理矢理従えていたようですけどね。ここを出てから、その関係は切れたのじゃないでしょうか」
要するに、群れのボスになる事が好きなオスらしい。
群れの頂点に立ちたがる本能は、社会を構成する生物なら当然の反応だ。ボス、もしくは第一順位個体なら、真っ先に気に入った女性を選ぶ権利から、餌の一番旨い部分を食する権利まで与えられる。同等の存在を拒絶する心理は、ここから発している。精子製造が存在の全てなのだから、交配できなければ意味がない。非生物と言え、肉体の維持には食物を必要とするのだから、食えなければどうしようもない。
それと同時に、なぜ『異端審問』に加担するのか、その理由も少し見えてくる。もし思考に進歩がないなら、の話だが。
群れの頂点に立ちたいなら、自分が一番強いと、群れ全体に証明すれば良い。そのためには、常に戦い続け、勝利していれば良い。万が一にも敗北する訳にはいかないから、自然選択される敵は、自分より弱い相手でなくてはならない。
しかし群れのどの個体でも勝ててしまう敵では、やはり説得力に欠ける。
その結果、選ばれた個体でしか勝利できない、架空の強敵が必要とされる。それがかつての『異端審問』と同じように、『吸血鬼』や『魔導師』であるのは、ただの偶然であろう。本人に何か別の強敵を想像する力があれば、『異端審問』に加わる必要はなかったとも、考えられる。
無論、婦人の証言からのみで、ここまで断定する訳にはいかない。ダールトンから渡された書類と合わせても、やはり心許ない推測だ。
「でも、それだけで伯爵様がお越しになられるには、根拠が弱くありませんか……?」
婦人の指摘に、カーウィンは頷いた。
「ええ。……彼……の犯罪行為に、この孤児院の者が協力しているとまで、噂されているようでしてね」
婦人は驚きに目を見開き、右手で口元を隠した。今にも卒倒しそうに見えるのは、大袈裟すぎる演技と、見えなくもない。
「まぁ! そのお話、本当なんですの! まさか……ここの従業員がなんて……!」
従業員が加担しているとまでは、想像できなかったらしい。
「噂です。あまり真剣に受け取らないように」
警察でも非公式でしか調査を始めていないのだ。余計な騒ぎは起こしたくない。だが同時に、ミス・アンダーソンが盗み聞きしているかもしれない期待を、言葉にせずふいにしたくもない。
「でも……でも……。卿がここに来られたからには、信憑性がおありなんでしょう……?」
胸に右手を添え、左手でテーブルに寄りかかる婦人の顔が、下からのランプの光で不気味に歪んだ。顔色が悪いように見えるのは、光の加減だけなのか。
「この件について、誰にも言わないように」
カーウィンは質問に答えなかった。
「彼がここの出身者で、従業員に共犯者がいるとなれば、最悪の場合、ここを閉鎖する必要があるかもしれません。まだ余計な心配を子供にかけさせたくありません。もし本当に共犯者がいるなら、今迂闊に騒ぎ立て、状況を悪化させたくもありません」
「ええ……ええ……。勿論ですとも……」
糸が切れた人形のように、何度も頷く婦人に、カーウィンは冷たい青い瞳を向けた。
盗み聞きされなければ、会話が部屋の外に漏れたりしないだろう。婦人とて路頭に迷いたくなければ、孤児院が閉鎖されないよう、協力を惜しむまい。それに同じ職場の女性が犯罪に加担してようものなら、最悪の場合芋蔓式に刑務所に行き着くか、良くても経歴書に傷が残る。
「僕がここに来た理由は、別に噂の真偽を追求するためや、貴女方に危機感を持たせるためじゃありません」
彼女の極端すぎる反応に、カーウィンは補足を加えた。
「子供達が……彼……の自己中心的な計略に巻き込まれないよう、もう少し注意してもらいたいと、頼みに来たんです。万が一噂が本当で、従業員の誰かが……彼……に協力しているようですと、ここを去った途端、……彼……の手下にされてしまう危険があるでしょうから」
「勿論。私達共はすでに、子供達の安全に全力を尽くしておりますとも」
「それは判っています」
どこか自尊心を傷つけられたような顔の婦人に、カーウィンは軽く微笑んだ。
「ですが噂が噂です。相手がどのような……男……なのか、そちらの方が良くご存じでしょう? ここが犯罪関係に巻き込まれるのは歓迎できませんし、ここの出身と言うだけで、子供達が不公平な扱いをされたくもありません」
カーウィンは言葉を切り、婦人の表情を伺った。
彼女にしても、孤児院出身の子供が、犯罪関係に従事するよりも、社会に貢献する人物となる方が、彼女の将来に有利に働く程度の考えはあるはず。子供達を管理・教育してきた実績は、多少なり彼女の経歴に反映するのだから。
「せめて噂の真偽が確認できるまでで構いません。お願いできますか?」
「それはもう……。卿のご要望でしたら」
婦人は満面に笑みを湛えた。
カーウィン自らに依頼されるという事実は、信頼を寄せられているという事である。仮に噂が本当で、孤児院が閉鎖される派目になっても、ここでの働き如何では、何らかの特典を期待できる。新しい孤児院の設立する際、院長なり副院長の地位は、スポンサーからの信頼次第で手に入れられる。
「お願いします」
カーウィンは小さく会釈した。
「以上です。お手数かけさせて、すみませんでした」
「いえいえ。ここはイムグリオイスト卿の所有物なんですから。遠慮なさらないで下さい」
すでに窓際から離れたカーウィンに、婦人は即座にドアを開けた。盗み聞きをしていたらしい従業員の女性数人が、慌てて廊下を駆けて行く。
彼女達の中に、ミス・アンダーソンらしい姿を見かけ、カーウィンは内心笑みを浮かべた。