第二話 異端審問
街は濃霧に覆われていた。
別に珍しい出来事ではない。一年中、夜間の大半が濃霧に包まれるために、『霧の都』の名の別名で呼ばれている。
外の寒気に、カーウィンは一度身震いすると、コートの襟を合わせた。
純白の手袋を引き締め、シルクハットの位置を正し、ステッキを右手に、背筋も正しく夜道へと歩き出す。
ブーツの踵が、路上に敷き詰められた石畳を蹴り、乾いた音を人気の途絶えた路上に響かせる。
舗装の整った街中とて、ブーツは外出の基本である。少しでも横道に入れば、踏み固められただけの土になるし、雨の降った後などは、くるぶしより深いぬかるみになってしまう。
例え晴れた日でも、夜間の路上は濡れているのが常だ。浮浪者を道端に住み着かせないため、通り沿いの店は、閉店前に水を撒くからだ。
街灯が立ち並ぶ大通りにも人気が見えないのは、霧のせいばかりでもない。撒かれた水に、浮浪者は全員大通りから姿を消すし、単体を狙う強盗の犯罪件数も、年を追う毎に増加している。
濃霧に包まれた歩道を、カーウィンは歩き続けた。
歩き続ける毎に、彼女との逢瀬で感じた雲の上を歩く感動は冷め、皮肉な世界観と同属への嫌悪に取って代わる。
ホモ・サピエンスと言う動物の個体数が、余りにも多すぎる。個体数の密度が増せば、社会的な生物であっても、お互い攻撃的になるものだ。そして、特定の個体密度を越えてしまうと、どれだけ充分な食料があろうとも、共食いに走るのが自然界の法則だ。しかし生憎と、ヒト属の密度は、まだそこまで高くない。
だが、すでに臨界近くに達しているのは間違いない。近年の犯罪率の上昇は、その仮説を如実に示しているし、自身の抱く憎悪は、疑いなく同属のみに向けられている。
カーウィンを激昂させるのは、ほぼ全ての自称『良識ある知識人』や『常識人』とやらが、現実に目を背けるべく、全力を尽くしている事だ。犯罪の原因は貧富の差と、金銭への欲望にあるとすり替え、ヒト属は他の動物より賢いと、傲慢な幻覚を信じて疑わない。度重なる動物実験の比較結果にも関わらずに、だ。
最悪なのは、感情に任せ、手当たり次第に殺戮を行ったところで、状況は好転しないと、知ってしまった事だ。法・道徳・倫理以前の問題に気づいてしまったし、見境のない個体数調整は、女性一人一人を時間をかけて切り刻む楽しみを奪う、自身の信条に反する没個性的な行動でもある。
自らの思考に没頭していたカーウィンは、濃霧の反対側から聞こえてくる靴音に、現実に戻された。
ほんの一瞬濃霧がゆらめき、霧が晴れたようだった。
濃霧と暗闇が晴れた先の横道から、転がるように一つの影が躍り出た。色褪せた茶色のコートに、頭からずり落ちそうになる帽子を右手で押さえている。体格とズボンからして、一体のオスだ。少しでも身だしなみを心得る女性であれば、ズボンのような無粋な衣類は身に付けたりしない。
カーウィンの靴音を聞きつけたらしいオスは、飛び上がるような動作で振り向いた。いかにも平民的な服装をしたオスだが、明らかな恐怖が、態度から滲み出ている。飛び出してきた脇道を一瞥すると、カーウィンに背を向けて走り出し、濃霧の中に見えなくなる。
オスをそこまで恐怖に駆り立てる原因は、すぐに脇道から姿を現した。
一人の女性と、二体のオスだ。足首まで隠れるドレスの裾と風になびく長髪を、見誤ったりしない。
女性は見るからに手ぶらでも、オス共の手には、ボウガンが握られていた。拳銃が発明されて以来、競技用程度の価値しかなくなった武器だ。それを剥き出しにして持ち運ぶだけでもおかしいのに、つがえているのは矢ではなく、太い木の杭である。
一人と二体の追っているのが、先程のオスである事は疑いようない。
だが、ただの強盗ではなかろう。ボウガンに木の杭をつがえるなど、目的は数える程度しかない。
同時に、追っ手の正体にも見当がつく。
「『異端審問』……ですか」
カーウィンは鼻で笑った。連中は、自分達が何を追っているのか、知っているつもりなのだろう。それがいかに誤りかは、すぐに知ることになろうが。それとも、知らぬままに終わるのか。いずれにせよ、結果に変わりようはない。
一人と二体は、カーウィンの漏らした小声に、気が付かなかったようだ。通りに出た直後に左右へ目を向け、獲物の逃げていった方向へ駆けていく。
幸か不幸か、カーウィンの進む方向でもある。
カーウィンは速度を変えず、連中の駆けていった方角へと歩き続けた。
悲鳴が聞こえてきたのは、二十メートルと歩かないうちだ。追い詰められた獲物が、助けを求める絶叫である。
誰も助けに現れないだろうとは、獲物も狩り人も、カーウィンも知っている。『知性ある生物』は、理由も無く危険かもしれない物事に首を突っ込む愚かさを知っている。
この手の自己保存本能を、『理性』とやらを持ち合わせる『常識人』に言わせれば、知性的な行動らしい。他の動物と異なり、『危険かもしれない』と思考し、行動するからだそうだ。
とんでもない笑い話だ。それが理性の正体だとするなら、理性とは『理屈付けした本能』ではないか。そんなものを、『常識人』は後生大事に抱いている訳だ。
獲物が悲鳴を上げた場所まで、残された距離はわずかだった。霧の向こうに蠢く三つの姿を認め、右手の建物の壁に背中を押し付ける。
二体のオスが、動かなくなった獲物の両腕を掴み、引きずっているところだった。獲物の胸から、一本の杭が生えている。
オス達は一言も言葉を交わさない。まるで何度も同じ事を繰り返してきたような、息の合った動作で、獲物の身体を路地裏へ引きずりこむ。
二体と連れ立っていた女性は、路地裏で待ち構えていた。二体が手を放すと、獲物に何やら液体を振り撒く。
油だろうと、カーウィンは見当を付けた。
心臓に木の杭を打ち込み、骨まで焼き払う。吸血鬼を滅ぼす常套手段である。日光に晒すのも効果的であるが、夜間にそれを期待できるはずもない。
カーウィンが物陰で見守る前で、オスの一体がマッチをこすり、火を灯した。赤橙色の小さな光を受け、オスの顔が暗闇に浮かび上がる。
オスは勝利に酔った凄惨な笑みを浮かべると、マッチを獲物の上に落とした。
途端、獲物は盛大に燃え上がる。カーウィンの推理した通り、女性の振りかけた液体は、可燃性の強い油だったらしい。
一般的な吸血鬼であれば、話はこれで終わりだ。
問題なのは、獲物が実は、連中が予想したような吸血鬼ではない事だ。そもそも、『吸血鬼』なるものは存在しない。『魔導師』や『獣人』のような、『異端審問』で迫害されるべき存在も、未だ確認されていない。
言い換えれば、何の変哲もないホモ・サピエンスの一部を任意に選出し、言いがかりにも等しい罪状を付きつけ、法的権利も持たない身でありながら、検事・裁判官・判審員・処刑人を気取った『犯罪』だ。
連中が行ったのは、『異端狩り』を称した殺人でしかない。真偽はいずれにせよ、有効とされる確認すら行わず、処刑したに違いない。大方、『心臓に杭を打ち込んだら死んだから、『異端』である』が有罪とした言い分であろう。
指摘するまでもなく、確認を取る手間をかけようと思慮する能力が欠落しているのは、『異端審問』の時代から一向に変わっていない。連中にとり、これは『人類の敵』を撲滅する『聖戦』であり、戦争には常に被害者がつきまとうと、答えを探さない行為をすでに正当化している。
『異端審問』が違法とされ、とうに一世紀を超えている。それにも関わらず、聖戦気分で殺戮を続けるヒト属は、未だ後を絶たない。
理由は簡単だ。
現在のヒト属は共通して、内心では誰彼構わず殺戮して回りたいのだ。総個体数が多すぎるため起きる共食い現象が、とうに始まっている証明の一端である。本能から来る欲求だと認めては、知性体の誇りを傷つけてしまうがために、『正義』だの『主の教え』だのを振りかざし、本能的な殺戮衝動を飾っているに過ぎない。
同属の行動を物陰から見遣り、カーウィンは音を出さずに微笑んだ。いかに自分の推論が正しいか、目の前に証明があると知るのは、いつでも満ち足りた気分にしてくれる。
獲物の身体から立ち上る黒煙が広がり、肉の焼ける香ばしい香りが、辺りを漂い始める。
死骸をどうするつもりなのか、カーウィンは不思議に思った。油で燃やせるのは、せいぜい表皮程度である。かろうじて第二度第三度の火傷に至らせるとしても、死体を燃やすには火力と時間が必要だ。骨になるまで燃やすつもりなら、当然長い時間がかかるし、骨まで燃やすつもりなら、それこそ専用の焼却炉を建造しなくてはならない。
まさか燃やしきれなかったからと、食用にするつもりではなかろう。『異端審問』では、倫理にもとる悪魔の行為と、厳しく取り締まっていたはずだ。現代の『異端審問』が、異なる倫理と正義を振り回しているとは、とても考えられない。
だが、食人の風習を持つ文明の話は、興味の傍ら何度か聞いている。ほんの数年前の話では、新大陸に渡った移民の一部が、途中冬山で遭難しかけ、連れていた家畜や犬すらも食べ尽くし、しまいには動けなくなった同属すら食料にして生き延びたそうだ。それらの倫理観は、当初こちらと同じだったはずだ。
カーウィンとて、『良識人』の言う『倫理観』が邪魔をし、食人は経験していない。子供向けの童話ですら、人肉からシチューの出汁を取る調理法を記載しているのだから、正しい書物を見つけるのは難しくないが。
彼女との逢い引きに、最後の食事が満足に喉を通らなかったと思い出し、カーウィンは空腹を感じた。レアでも食べられるのか疑問を抱きつつ、『異端審問』の動向を探る。
炎は早くも、勢いを急速に失っていくところだった。獲物の上げた悲鳴にも反応しなかった周辺のヒト属が、今更肉の焼ける匂いに釣られ、邪魔をしに現れる手間をかけるはずもない。衰えていく赤橙色の光を鈍く反射する濃霧が、音すらも吸収してしまったかのように、実に静かなものだ。
女性の低い呟きが、かろうじて聞こえてくる。詳細を聞き取れる程の音量ではないが、内容は予測できないでもない。大方、悪魔に魅入られたオスの魂が、『聖なる』炎に浄化され、天界に召されるよう祈りを捧げているのだろう。
同属だと知らずに殺害した満足感に浸る、女性と二体の軽挙妄動さを内心嘲笑しつつ、顔を覚えようと、壁から顔を覗かせる。『異端審問』と関わり合いたくなければ、注意を向けられる前に、見えない場所へ隠れてしまうに限る。そのためには、まず相手の顔を見分けておくのが必須である。
火を付けたオスの顔が、真っ先に目に入った。消えかかる炎に照らされ、映し出された顔の造形は、揺らめく光とカーウィンの先入観も合い重なり、濡れたガーゴイルの像を思わせた。自己満足に浸りきった笑みに唇を歪め、炎を反射した瞳は、赤く輝いている。熱のためか汗に濡れた肌は、赤橙色の皮膚をした人三化七の爬虫類の皮膚を連想させる。
死骸を挟んでオスの反対側に、女性が立っていた。
彼女の横顔を改めて見直した瞬間、カーウィンの鼓動は跳ね上がった。胸が締め付けられ、息がつけなくなる。
「……ジェシカ・アンダーソン……」
自分の耳にも届くかどうかの小声で漏らしたのは、かつて交際していた女性の名だ。
歳は二十代になるかならないかだろうか。踵の高いブーツを履いているため、頭の赤さは最初のオスと同じ高さにある。それでなくても、女性として少々背丈は高い方かもしれない。ドレスの上から黒いケープを羽織っているので、背丈以外の正確な体格は測りにくく、ケープの上からでも解るのは、彼女が至って健康な肉体を有している事だけだ。
顔立ちは、美人と言う訳ではないが、彼女なりの魅力は感じさせる。綾羅錦繍で飾られた上流階級の婦人方と違い、束ねた髪を頭の上で結わえ上げたりせず、腰まで垂らした軽く波打つ髪は、炎を反射して赤く輝く。しかるべき化粧を施し、出るべき場所に出れば、オス共の注意を惹きつけるのに充分であろう。
空空寂々とした無機質な表情で、下火になりゆく炎を見つめる固く引き締めた口元に、わずかながら良心の呵責を滲ませている。孤影悄然の儚さを感じさせるのは、揺れる炎のためなのか。
同一人物であるはずがないと知っていも、彼女の容貌はかつての恋人に良く似ていた。
それ故に、逢い引きの相手に失礼だと解っていても、カーウィンは目の前の女性に、一目惚れにも似た深い感動を抱かずにはいられなかった。
息が詰まり、頭に血が登る。彼女を知り、彼女の心を勝ち得たい要求が、ふつふつと心に沸き上がる。先程の逢瀬の興奮と充足感を色褪せさせてしまう新たな恋の予感に、全身が火照り出す。
彼女が『異端審問』である事も、連中から遠ざかろうとする気持ちも、最早脳裏には残っていなかった。彼女を知りたい欲求の前には、自らの生命の危険と、取り巻き二体の障害など、存在しないに等しい。
最後のオスは、死骸を囲んで最初のオスと女性との間に立っている。位置的に背中をカーウィンに向けている状態なので、顔は判らない。
しかしさして重要ではない。顔は判らなくとも、どのような存在なのか、服装から推し量れる。平民出身の間に流行している服装だ。
炎はもうじき鎮火する。
それを見越してか、背中を見せるオスが、コートの下から大きな袋を取り出した。
どこかに埋葬するか、残りを燃やすつもりなのだろう。獲物の罪状が吸血鬼であるからには、後者の可能性が断然高い。
燃え残った獲物を袋に詰め、濃霧の中を動き出した『異端審問』の後を、カーウィンは追跡した。