第十二話 前兆
法廷で極悪非道の凶行に走ったクリストファー・オブライエンは、まんまと逃亡に成功した。法廷で警備官四名と裁判長を射殺し、逃亡の際にも警官六体を死傷させている。この事件で、かのオスの個体名があまねく広がったのは言うまでもない。
余り面白い成り行きではない。
一応指名手配はされているものの、問題の個体を英雄視し、逃走に手を貸すヒト属も出てくるだろう。これまでのミス・ジェニファー・アンダーソンがそうだったように。
そして現在の追い詰められた状況は、通俗的『勇者観』を、ほぼ完全に満たしてしまう。その結果、それのカーウィンに向ける殺意は、さらに深まっているに違いない。
勇者の前提条件として、勇者の背景は張三李四であってはならない不文律がある。鶏鳴狗盗の一部であれば、勇者になろうと露とも思いもしないし、何らかの勇者たる資格を得れば、その時点で最早大勢の中の一体ではなくなる。
クリストファー・オブライエンは十歳になる前に両親を失い、以来イムグリオイスト家出資の養護施設で育てられている。大方の子供が両親の元で育てられる事を考えれば、勇者候補の要因の何分の一かは満たしている。
加えて、内因性の感情病がある。数ある勇者候補の中でも、多少なり突出した素養であると認めなくてはなるまい。
勇者となるための第二の条件は、夏炉冬扇の日常とは異なる冒険に出る事だ。生死の境に踏み込むような冒険でなくても良い。年端も行かない子供が、街を横断する買い物に出かけるだけでも、充分冒険となり得る。
この点、それはそれの『異端』狩りの冒険に出ている。本当に敵が存在するか否かはともかく、敵と定めたヒト属に戦いを挑み、全てを殺害してきている。囲いの中の安全に安寧とし、平々凡々の中に埋没して満足するヒト属では、まず行わない冒険と言える。
第三が、最悪の場所での最悪の敵との対面である。尋常かつ常套の手段では倒せない強敵と遭遇し、絶望の淵に追い込まれる。事によっては、絶望のまま敵の中に取り込まれかける。
そんな勇者の危機を救うのが、艱難辛苦を共にしてきた仲間、もしくは頼りとしてきた師だ。彼らは勇者を守るため、勇者に反撃の機会を与えるため、自らを犠牲にし、時には生命すら投げ出し、勇者に再戦の機会を与える。
カーウィンが最も憂慮するのは、事態がこの第三段階に達してしまった事だ。
あのオスの視点からすると、最大の敵であるカーウィンが、息のかかった砦の一つである法廷におびき出し、勝てるはずのない戦いに引き込んだ、という所だろう。
有罪を免れない危機を救ったのは、不条理にすら思えるが、ミス・アンダーソンだ。彼女がカーウィンの軍門に下り、オスに進むべき道を示しただけでなく、留まる危険性を暗示してしまった。
結果、カーウィンの手下であると信じる警備官と裁判長を殺害し、破滅への罠を食い破る力と機会と動機を与えてしまった。
そして、勇者候補の試練への最終段階が、敗北を喫せられた敵と、居城での再戦である。
この時に、勇者候補の勝敗は問題でない。
一度は破れた敵と対決し、立ち向かう無策無能さが重要なのだ。敵が最大の力を発揮できる場所で、完膚無く敗北を喫せられた敵と再び対決しようとは、安全圏で過ごすしかできない牛糞馬涎には、想像すらできない芸当だ。
だからこそ俗物は、日常座臥を打ち破れってくれるやもしれぬ空中楼閣に憧れ、勇者候補を勇者へと昇華させる。例え今回の勇者が敗れたとしても、第二、第三の勇者の登場を待ち侘びれば良いだけの話だ。そうすれば、自分で手を煩わせる必要なく、いつの日か事態は良くなる、と信じていられる。
万が一、無謀な勇者が敵を打ち破り、生き延びた場合、勇者の旅を劇的に飾るのが、勇者に与えられる報償だ。それは絶世の美女であったり、国であったりと様々だ。一度は失われた仲間が戻って来る事も、希ではない。
だからと、ミス・アンダーソンが自分の元に戻ると、それは期待してはいないだろう。勇者とは、『探索』を終えた後の報酬は期待しないものだ。真の敵と再度相まみえ、勝利する以外は。
それが勇者というものだ。非論理と矛盾と独断専行が、それらにとっての『善』であり、理に叶った論理ですら、気に入らなければ『悪』を称して恥じ入らない。『論理的』な自然の流れで現象が発生していると証明しても、発言したヒト属を殺害して美学を見出す存在なのだ。あたかも、その自然現象を唱えたヒト属が、諸悪の根源であるかの如くに。
そのような存在に、目を付けられたのが己の不運と、投げやりに考えたくなかった。目前に迫るオスの問題が片付いたら、同じ様な問題が発生しないよう、何らかの対処を考慮すべきだろう。
それにしても……。
カーウィンは常々の疑問に首を傾げた。
『誰彼を殺したいから、殺すのだ』
なぜヒト属の多くは、本心を正直に語れないのか? 正直正路が罪悪、巧言令色が美徳の、ヒト属の社会故であろうか。ヒト属の多くが崇拝する『勇者』が、そのような存在だからか?
考えれば考える程、『良識』あると自称するヒト属の『良識』が、矛盾と非論理から成り立ち、論理を懸命に否定しようとしているとしか、カーウィンには思えないのだ。ヒト属の総括的な行動様式が、自然法則の厳格な論理に隷属しているというのに……。
『人間は因果律の奴隷ではない。変えられようのない過去に因があっても、未来の果を断ち切れる能力を持っている』
実存主義心理学者の、ヒト属を特別扱いするための身勝手な主張が脳裏をよぎる。
主張は自由だ。
しかし『現実』を観察してから、発言してもらいたい。少なくとも『学者』とやらを気取るなら。
カーウィンの切実な期待だ。
カーウィンの物思いは、ドアをノックする音で破られた。
一声の後、ドアが開けられる。
ダールトン警部だった。
「お忙しいところ、申し訳ありません、卿」
初めて会った時と同じ、どこかだらしない服装をオスはしていた。
「ご要望の通り、連れて参りました。ですが……」
言い淀むオスを、カーウィンは手の一振りで黙らせた。
「判っています。大事な証人とは言え、被告の一人なのでしょう? 彼女と話したいだけです。心配しないで下さい」
問題の個体の標的にされているが故、彼女も同様にカーウィンの生命を狙うのではないか、心配しているのだ。
カーウィンは微笑み、一息置いて一言付け加えた。
「それに、警察の……方々……も、警備して下さっています」
「それでも、です。二十件以上の殺人事件の容疑のある危険人物に、変わりはないのですから……」
彼女が関与したと見られる行方不明事件を、法廷が始まるまで警察が調査せずにいた訳ではない。イムグリオイスト家と関連のある行方不明者の中でも、消え方に疑いのある件を、内密に調査していたのは、既にカーウィンの耳に届いている。その疑わしき数が、二十件以上になる。
詳細を知れないのが、カーウィンには気がかりなった。交際してきた女性達が、その中にいるかもしれない。誤解でミス・アンダーソンに面倒はかけたくないし、交際してきた女性達に不名誉な関心も引きつけたくない。彼女達の名誉のためにも、交際していた当時の美しい記憶を、『異端審問』のような無粋なヒト属に、汚されたくない。
オスは言葉を続ける。
「彼女の危険性は、卿も十分認識されているでしょう? 危険を感じたら、遠慮せず大声で助けを呼んで下さい」
「ですが?」
目の前のオスが言い淀んだ言葉尻を、カーウィンは捉えた。
「……ですが、クリストファー・オブライエンが、卿を殺害しに現れるとは、到底思えないのです……。物が見える者なら、法廷を逃走した時点で、国境を目指すはずですから」
あのオスが逃亡して以来、イムグリオイスト家の周辺は二十体以上のヒト属が稲麻竹葦に警備に当たっている。
かのオスのような俗称『凶悪』、もしくは同属嫌悪の本能に忠実な個体は、意図的な操作で群れから排除されなくてはならない。そうする事で、何世代かの後には、付和雷同な個体だけが選別され、残るようになる。
カーウィンの期待する理想社会の姿だ。
「確かに……理性……を持つなら……そうでしょうね」
カーウィンは苦笑した。『理性』という単語がいかに空理空論かを思うと、口にする自体はばかられる。身悶えしたい滑稽さだ。
「でも……彼……自分自身を英雄か勇者と、信じて疑っていません……口では決して認めなくても」
「それと、彼がここに来るのと、どう関係するんです?」
「彼……にとって、障害とは、目的を達成するのになくてはならない物だからです。そうでもなければ、どうして僕を初めから狙わなかったんです? なぜ僕に警戒心を持つようにと、周りの無関係な……人達……を殺したんてず? ……彼……がより大きな満足感を得るには、より困難な障害がなくてはならない。そういう事ではないのですか?」
「……かもしれません……」
オスは肩を竦めた。
「それでもまだ、彼が卿の生命を狙い続けている説明にはなりません」
「……そうでしょうか……?」
カーウィンは窓の外の光景を一瞥した。
下の庭には、オスの話を信じるなら、二十体以上のヒト属がひしめいているはずだ。しかし、夜の帳といつもの濃霧に、窓下の庭すら見えない。
「……ところで警部。あなた、正気ですか?」
「…………は? 当然です。それが……?」
カーウィンは微笑むだけで、答える手間を省いた。
世の全てのヒト属が同様の思考過程を身に付け、あのオスが顕著に示している異端思考を拒絶するようになれば、『英雄』や『勇者』のような現行秩序の破壊者は現れなくなる。
個体数飽和の段階まで増殖を続けさせるには、惰性で増え続けさせるのが一番効果的であり、まかり間違えても、ヒト属が存続するのに絶対必要である大がかりな個体数削減の思想を、芽生えさせてはならない。
その意味では、脇のオスはカーウィンが意図した通りの教育を受け、『理性的』で『常識的』なヒト属に育ってくれている。計画中の教育関係に更に力を注げば、惰性で動くだけの、個体数を増やす以外の思考力を持たない個体が、これまでにない割合でヒト属の大多数を占める事になろう。
そして、見境無しに増え続けるヒト属は、培養皿の上で増殖し過ぎ、やがては全滅する細菌やカビのように、自分達の養分になる地上の全てを食い尽くし、いずれ絶滅する。
その日の訪れが、実に待ち遠しい。
残念なのは、ヒト属の後に地上を支配する生物の姿を、自分の目で確認できない事だ。世の『異端審問』を支持するヒト属が信じるような、ヒト属の滅んだ後には世界が存在しなくなるなどの、世迷い言を証明できない事も、些細ではあるが心残りではある。
「では、これで」
カーウィンの態度に居心地の悪さを覚えてか、オスは無理矢理会話を切り上げると、背中を向けた。
「ああ、警部」
ノブに手をかけたオスの背に、カーウィンは失念していた最後の一言を投げかけた。
「やむを得ない場合は別ですけど、射殺でなくて、逮捕にして下さい」
「心得ています」
警察の認識を疑われたと誤解でもしたのか、それは少々手荒くドアを閉じた。
カーウィンが一体取り残されていたのは、ほんの一、二分だけだった。
ドアがノックされ、待ち人が現れる。
カーウィンは至福の笑みを浮かべた。