第十一話 証言
前回四度の公判と同様、さして広くもない聴講席は満席だった。
聴衆のほとんどは、イムグリオイスト家から何らかの恩恵を受けている施設の関係者である。施設出身のクリストファー・オブライエン、そして逮捕前日まで施設従業員だったミス・アンダーソンが、共謀してイムグリオイスト卿殺害を企てた容疑に、関心を抱かざるを得ないのが本心らしい。事と次第によっては、イムグリオイスト卿が関連事業から全面的に撤退しかねないだけに、切実なものがあるのだろう。
関連施設の関係者の思惑と異なり、カーウィンの方に撤退の意志は微塵もない。事業強化の必要性を再認識させられた事件だったと、貴重な体験の一つして認識している。個体数の飽和値までの増加を計るなら、より従順になるよう、教育方法の改善が必要だと、貴重な勉強をさせてもらえた。
折しも、証言席にミス・ジェニファー・アンダーソンが着き、宣誓を済ませたところだった。
戦略的には、一人と二体を証言台に立たせるなど、自殺行為に等しい。
もっとも、情状酌量を求めるならともかく、自らの正義に基づく無罪を主張をしている辺りから、既に裁判を投げているとしか思えない態度だ。それだけならまだしも、過去の公判の際にも、内因性分裂病に苦しむオスは、誰彼構わず何度となく罵声を浴びせ、暴力沙汰すら起こしかけている。放っておいても、勝手に自滅してくれそうな按配だ。
そんな被告を弁護しようとする物好きがいるはずもない。しかし法律では、被告にも弁護人を付けるよう明記されている。合法的に問題のオスを裁くため、カーウィンがイムグリオイスト卿の名を用い、弁護人を募らなくてはならなかった程だ。
それが死刑を免れるには、専門医の鑑定を受け、精神異常を法廷で証言してもらえば良い。決して難しくはないはず。法廷精神分析士は、情報提供を目的とする中立の立場でありながら、裁判官以上の権力を乱用できる立場だ。
しかし、そのような行動には絶対出ないだろう、がカーウィンの予測だ。
勇者か英雄を気取っていながら、本当はただの精神異常者だった、ではかのオスの限られた思考能力では、受け入れがたい屈辱でしかない。認めるよりは、自ら死を選ぶだろう。
少なくとも、すぐに死なれてしまうのは困る。一個体を殺すのは容易いが、的外れな伝説を死滅させるのは一苦労だ。二千年程以前の唯我独尊的な妄想患者の大嘘が、未だまかり通っているのが良い例だ。
その大嘘に振り回され、皮肉にも数多くの個体が殺されている。そして今後も殺され続けるだろう。同属への殺意という本能からの生理欲求を容認するのを毛嫌いする個体に、何らかの理性的な正当性という錯覚を与えるのに、実に都合の良いものだから。
「ミス・アンダーソン。今回あなたに課せられた容疑を教えて下さい」
弁護人の質問する声に、カーウィンは注意を現在に引き戻した。
「イムグリオイスト卿誘拐・軟禁・殺人の恣意・暴行・及び第一級殺人未遂」
前もって打ち合わせと練習をしていたに違いない流暢な口調で、彼女は答えた。
「それら容疑に対し、あなたの主張は?」
「根も葉もない言いがかりです……」
彼女は上目遣いにカーウィンを見遣り、言葉を続けた。
「……とは言い切れません……」
聴衆席がざわめいた。
彼女の発言は、終始無罪放免を唱える被告側に、少なくとも何らかの非がある事実を認めるものだ。
予定外の反応に、弁護人はうまく感情を支配下に収めていた。一呼吸か二呼吸の合間の後、質問を続ける。
「では、どこが違うのか、説明して下さい」
弁護人程には実戦を積んでいるはずのない彼女だが、ゆっくりと返答を始めた。
「……卿の誘拐に関しては、既に卿の発言にもありますように、私は関与しておりません。軟禁についても、私は卿に帰るよう促しました。それを卿は聞き届けず、また、二人の妨害があり、叶いませんでした。暴行や殺人未遂などの容疑に関してですが、私は一切手出ししていません」
カーウィンの彼女寄りの私見では、嘘は一切ついていない。彼女のこれまでの主張を、一部訂正したに過ぎない。
残り二体のオスにしてみれば、罪を軽くしてもらうために仲間を売った、との評価しか得られまい。案の定、非社会性人格異常のオスは早くも表情を強張らせ、真っ赤に染まった頬の筋肉がひきつり始めているのが、遠目からでも伺えるまでになっている。
「裁判長。休廷を希望します」
ミス・アンダーソンの予定外の離反に、弁護人は打ち合わせの時間を求めた。彼女と二体の弁護が仕事で、かつ、いかに一流の弁護人でも全面勝訴の難しい状況とは言え、残り二体に全責任を押し付けるような彼女の発言は、弁護人の処理能力を疑われる羽目にもなりかねない。
「原告側は?」
「異議を申し立てます」
相手の不協和音を見逃す検事はいない。
「開廷よりまだ十分も経過しておりません。それで休廷では、裁判はいつまでたっても終わらなくなります。せめて本証人の審問だけでも許可願います」
原告側の主張は認められた。
裁判官の許可を受け、検事は彼女の手前まで歩み寄った。
「ミス・アンダーソン。貴女は全部とは言わないまでも、これまでの主張をいきなり変えましたね。どうしてですか?」
「変えたつもりはありません。責任の所在を明白にしただけです」
答えながら、彼女は視線を二体の『異端審問』の『元仲間』に向けた。
「私は確かに、卿が暴行を受けるのを止めませんでした。それで言えば、共犯とされても仕方ありません。ですが私は、実際には暴力は奮いませんでしたし、銃や他の凶器も向けませんでした」
カーウィンの先の説得が功を奏したのか、保身のための彼女自身の判断なのか、真偽はいずれとせよ、原告側の有利に傾倒しかかっているところへ、被告に都合の良いように取り計らってやる謂れはない。
「貴女は暴行をしていない、と言いましたね。では、誰が卿に暴力を奮ったのですか?」
ミス・アンダーソンは被告席を一瞥してから、聴衆席に顔を向けた。
「クリストファー・オブライエン」
聴衆にざわめきが生じるより早く、被告席のテーブルが大きな音を上げた。ざわめきは生まれる前に消え去り、テーブルを殴りつけ、腰を半ば浮かせたオスに聴衆の視線が一斉に向けられた。
「……てめえ……」
低い唸りと共に身を乗り出すオスに、彼女は心持ち顔を青ざめさせ、表情を強張らせた。
弁護人にいなされたオスが座り直すのを見届けてから、質問は続けられた。
「そのクリストファー・オブライエンなる人物、現在この法廷にいますか?」
「はい」
彼女は肯定すると、被告席に座るオスの一体を指差した。
途端、オスは椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がった。弁護人に三言四言囁かれ、翻意されなければ、彼女に殴りかかっていったかもしれない。
「ミス・ジェニファー・アンダーソンの指し示したのは、ミスタ・クリストファー・オブライエン被告であると、ここに明言します」
検事は誓言すると、さらに質問を続けた。
「貴女は先程、イムグリオイスト卿に銃器を向けなかったと言いましたね。つまりこれは、誰か別の者が、卿に銃を向け、殺害を示唆したと受け止めて良い。と、そういう事でしょうか?」
この質問にも、彼女は肯定の意を示した。オスがまたもテーブルを殴りつけるが、彼女の声を遮る前に、弁護人に止められてしまう。
「そこの、被告席に座る二人です」
「てめえ! なかまをうるきか!」
オスは勢い良く立ち上がると、彼女に拳を向けた。
静粛を求める裁判官のハンマーを遠くで聞きながら、カーウィンは感動を噛み締めていた。
威嚇と暴力と恐怖で同属を束縛するのが、それの感覚では『仲間』らしい。
もっとも、自称『知性体』のヒト属の言う『仲間意識』など、想像の産物にしかすぎない代物だ。『仲間意識』の正否を語るほど、時間を浪費する論争はない。
警備員が喚き立てるオスを取り押さえ、ようやく静かになった法廷に、続行された質問が流れた。
「では、最後の質問です。どうして貴女は、他二名の容疑者の不利になるような発言をする事にしたのですか?」
「てめえ、つまらねぇことひとことでもしゃべってみろ。ころすぞ!」
あまりにも酷い罵声に、聴衆席の夫人の半数が顔を背けた。その言動だけで、残りの寿命を刑務所で過ごしてしかるべきだと言いたげな雰囲気が、チラチラと覗き伺う視線に漂っている。
「ミスタ・オブライエン!」
露骨な脅迫に、裁判官はハンマーを鳴らした。
「これまでの言動を改めないのであれば、不本意ながら、こちらも対処を考えなくてはならない。お判りか?」
判るはずがない。それにあるのは、誰かの思想・思考を盗用し、それをあたかも自分自身のもののように振りかざす、傲岸さのみだ。
「なんだと、てめぇ!」
案の定、オスはおとなしくするどころか、敵意ある目を裁判官にすら向けた。
「てめえ、いったいてめぇをなにさまだとおもってんだ! そんなことするけんり、あるとでもおもってんのかよ!」
裁判官は、横に控える警備員に顎をしゃくった。警備員がオスに歩み寄るのを見届けながら、暴言に対する答えを返す。
「ここは私の法廷だ。この法廷を公平に運営するための全権が、私には与えられている」
オスは鼻でせせら笑った。
「ふん。かたるにおちるたぁ、このことじゃねぇか。オレのこのザマみて、こぉへぇたぁきいてあきれるぜ。しょうねだけじゃなくて、めンたままでくされきってんじゃねぇのか、てめぇは?」
「ミスタ・オブライエン!」
さすがの裁判官も声を荒げるが、恐れ入る個体ではない。取り押さえる警備のヒト属すら振り払おうと、身悶えを繰り返す。
「けっ。ちっとこえだしゃあ、おそれいるとでもおもってんのか、てめぇは? そんなつまんねぇことよりもなぁ、そこのイムグリオイストからオレをおとしいれろって、いくらもらったかはくじょおしやがれ。ばあいによっちゃなぁ、いかしといてやるかもしんねぇぞ」
裁判官は警告を言い続ける意欲を完全に無くした。警備官に目配せし、次の行動に移るよう合図を送る。
裁判官の合図を見逃しても、警備官がベルトに下げていた猿轡を手にする現場は、それの目にも止まった。
「てめぇ、きたねぇぞ! はつげんとしそうのじゆうをぼぉがいしやがるか!」
喚き立てるオスに、裁判官は冷たい視線を送るだけだ。
まともに扱う気持ちを失ったのは、カーウィンにしても同様だった。裁判の始まる前までは、真の計画の漏洩を懸念していたのだが、根拠も何もない所で喚き立て、殺害に及んでいると判るにつれ、ヒト属絶滅の計画の漏洩を心配しなくなっている。そうなれば、それの残る役割は、ミス・アンダーソンを射止めるための踏み台だけだ。
喚く個体に遠慮するはずもなく、警備官は猿轡を噛ませようと腰を屈めた。
「てめぇら! これのどこがこぉへぇだとぉ! オレのはつげんのじゆうはどうなった!いってみやがれ! くされやくにんどもが!」
罵声と共に、オスはのしかかる警備官を振り落とすと、猿轡を手にする一体の鼻面を殴りつけた。
「てめぇらぁっ! もうゆるさねぇ! ぶっころしてやる!」
それの宣言に、気の弱い夫人方は金切り声を上げ、傍聴席から出口付近へと慌てて待避した。法廷を出ていかないのは、宣言を実行に移せないだろうとの見込みと、それが逃亡を企てた咎で射殺される現場を目撃しようという、野次馬根性のためであろう。
自分の『良識』にそぐわない個体がいなくなる、死ぬのを期待するのは、昨今個体数の増えすぎたヒト属の間では、半ば『常識』となり果てている。
「静粛に! 静粛に!」
裁判官はハンマーを打ち鳴らし続けるが、自身の揺るぎない『正義』に殉じるオスの耳に届くはずがない。罵声と怒号が飛び交い、安全圏に逃れた聴衆達がめいめい勝手な感想を口走り、秩序の戻る気配は一向伺えない。
そんな喧騒を、一発の銃声が静まり返らせた。
かの個体の右手に拳銃が握られ、それの足元、止め紐の終わりに警備員が一体転がる。
オスは上唇を舌で湿らせると、見る者の背筋を凍えさせる凄惨な笑みを浮かべた。
「ザコがぁ……! ザコのくせにじゃますんじゃねぇ!」
それを除き、法廷の全ての時間が止まったようだった。カーウィンにしても、オスの行動は予想を越え、拱手傍観しかできない。
時間が静止したように思えたのは、ほんの数秒の事だったろう。
どこかで上がった女性の悲鳴で、時間は動き出した。
そのオスともみ合っていた警備官が、それぞれの銃に手を延ばす。
しかしそれらが銃を抜くより早く、立て続けにそれの奪った銃が音を立て、次々と倒れていく。
一体を除いて。一番反応が遅れたのか、まだホルスターから半分抜き終わった状態で銃口を向けられ、完全に硬直してしまう。
その一体が銃から手を放すのを見届け、クリストファー・オブライエンというオスは余裕の笑みを湛えつつ、警備官から銃口を逸らす。
逸らした先には、開けた口が塞がらない風の裁判官がいた。
銃音が一度鳴り、かつて裁判官だったヒト属は、椅子にもたれるようにして崩れ落ちる。
そして再び、オスは見逃してやったはずの個体に、銃口を向けていた。警備官は銃を抜き終えたものの、構えるには到っていない。
銃が音を上げ、最後の警備官も倒れる。
「バカが! てめぇらみてぇなあくとうどもがかいしんするとでも、このオレがおもうものか! すなおにせなかみせたりしねぇ!」
警備官全員と裁判官が倒れるまで、十秒と経っていまい。疾風迅雷、射撃の狙いも正確だ。
言い換えるなら、その早撃ちに匹敵する数の個体数削減も行ってきた、という事だろう。兵士登用歴のない事実からも、それの身勝手な『正義感』で、どれだけ無実のヒト属が虐殺されてきたか、想像もできない。
最後の警備官に唾を吐きかけると、オスは証人席からさほど離れずに立ち尽くすミス・アンダーソンに目を向けた。
「こぉのバイタがぁ! うらぎりやがって!」
次の狙いが彼女だと知るや、カーウィンの硬直状態は瞬時に解けた。
「待て!」
声を上げた直後に、カーウィンは己の暴虎馮河を後悔した。いかに彼女の身を守るためでも、自分が殺されてしまっては、どうやって彼女を切り刻んでやれば良いのだ。
問題のオスの方は、どの個体を射殺しようと頓着しないようだった。止めに入ったカーウィンを見遣り、カーウィンにすら聞こえる歯軋りを鳴らす。
「てめぇ! オレのおんなになにふきこみやがった! こいつぁオレにはむかおうだなんて、ぜってぇかんがえるアマじゃねぇ! こたえりゃあ、いのちごいするじかんくれぇ、くれてやる!」
ミス・アンダーソンの視線を感じ、カーウィンは笑みを浮かべる余裕さえ見せた。彼女が証言台で語った内容は、彼女の心がその個体から離れかけている証なのかもしれない。これまでの侮蔑の言葉を考慮すれば、それも当然だろう。
もしそうなら、それとの違いを強調しなくては。
しかし相違を見つけるのは、カーウィンには至難の技だった。軍隊式・効率性重視・被害者との距離を置く銃火器使用の大量殺戮と、独創性・個性重視、被害者との肉体的接触を持つ刃物使用の連続個体削減との違いは、説明したところで素人に理解してもらえるとは思えない。
「てめぇ! なんとかいったらどうなんだ! ころすぞ!」
「確かあの時も、同じ事を散々言ってなかったかな?」
聴衆の半数以上は、すでに法廷から逃げ出している。だが、同属の殺される現場に興味を持つらしい残りが、会話に耳を傾けるだろうと、期待しての質問だ。
「しるか、そんなこと!」
カーウィンの期待に反して、オスは素直には認めなかった。自分の言葉に露程の責任感すら持たない故だったのは、次の言葉が証明した。
「あんときすなおにころしときゃあよかったぜ! いたぶってあそんだりしないでな!」
オスは自白した。すでに五体を法廷で殺傷しているため、無実を気取る意味は、とうに無くなっているのかもしれない。いや、自分以外のヒト属全てが、カーウィンの味方だと思い込んでいるだけなのかもしれない。
「つまり、脅しや威嚇ではなかった、という事かな?」
「そういってるだろうが! バカか、てめぇは?」
警備員や裁判官のように、即座に射殺する訳でもなく、オスは喚き続けた。
「オレぁいつだってホンキだ! ころすっていったヤツぁかならずいきのねとめるし、とめてる!」
警察の尋問では口にしなかった余罪を、それは自ら白状した。これでこのオスが生かされる可能性は、さらに減ったと見て良い。法廷で犯した犯罪でもなお、極刑を免れたとしても、だ。
勝ち誇るだけで、おそらく何一つ認識していないだろうオスに、事態を報せてやるべき頃合いだと、カーウィンは判断した。
「今何を言ったのか、理解しているのかな? ……君……にかけられた容疑を、自白しただけじゃない。他にも罪を犯していると、自分で認めたんだぞ」
オスは鼻で笑い飛ばした。
「それがどうした? てめぇがしんじまえば、だれがしょーげんするってんだ?」
出口近くで一挙一動を見守るヒト属の存在が、まるで目に入っていない言い様だ。入っていても、目撃者を皆殺しにするつもりか。
「君の言い分を聞いたのは、何も僕だけじゃない。君が殺人を犯す現場を目撃したのも、もう僕だけではない」
カーウィンは視線を出入り口に立つ聴衆に向けた。望みは薄いが、目撃者の数の多さに、それが断念してくれれば儲けものだ。
しかし、期待は結局期待で終わりそうだった。
カーウィンの指摘に、オスは一瞬視線を横に走らせただけで、侮蔑の笑みで聴衆を無視した。
「それがどうした。てめぇのてしたばかりじゃねぇか。てしただけほーてーにいれといて、こーせーなさいばんたぁわらわせてくれるぜ! こんなせぇばん、ぶっこわされてとーぜんじゃねーか。ついでにてめぇをぶちころして、てしたどももあとおわせてやる。かんしゃしやがれ!」
興奮のために病状が一気に悪化したのか、オスの発音は時間の経過と共に理解しにくくなっている。筋道の通った思考すら、困難になっているのではなかろうか。
対峙する同属に、殺意を翻させる事の困難さを、カーウィンは改めて認識させられた。このヒト属に同調する他のヒト属が発生しないよう、管理の必要性を再度確認する。
「では殺される前に、確認させてもらおう。君を支持するのは、誰なのかな?」
「セーギだ!」
オスは躊躇いもなく言ってのけた。
「オレがセーギだ! オレにはむかうヤツらぁみぃんなあくとーだ! しんでとーぜんだ! だからてめぇはしぬんがとーぜんなんだ!」
カーウィンは満足した。
それの大言壮語は、カーウィンの危惧していた『一般的』な『正義』を代弁するものだ。他の個体が叫ぶ『正義』には全力で否定しながら、自分が気炎万丈で叫ぶ『正義』は金剛不壊に譲らない。
『正義』が『勝者の利益』なのは紀元前から知られているし、カーウィンに言わせれば『搾取する側の益となる行為、及び結末』だ。そんな有名無実な代物を後生大事に抱え、大上段に振りかざして平然としていられる酒嚢飯袋は、『知性的』なヒト属に相応しいと言えば、確かに相応しかろう。
「まんぞくしたか? じゃあしね!」
宣言すると、かのオスは一呼吸の間の後、引き金を引いた。
だが、銃声は上がらない。替わりに、鉄と鉄のぶつかり合う乾いた音がしただけだ。
弾切れとそれが理解するのに、かなりの時間がかかった。百戦錬磨の自分が、最も初期の過ちを犯したのだと、自尊心ならぬ虚栄心が受け入れたがらないのだろう。
オスが状況を認識し、次の行動に移るには、少々遅すぎた。
裁判所には、他に銃器を持つヒト属がいないとでも思っていたのだろうか。カーウィンとの会話の中に、自己欺瞞な正義感に陶酔する要因があるからなのか。
とにかく、カーウィンを殺害する機会を、その個体は逸した。
足音も荒く、騒動を聞きつけた警備官が、警官も連れて流れ込んできた。
「動くな! 抵抗すると射殺する!」
オスは無数の銃口にさらされているのを認め、憎悪に満ちた視線をカーウィンに向けた。
「てぇぇぇめぇぇぇぇっ!」
低く唸る声は、向けられる銃口よりも険悪に感じられた。
降参以外の道がその個体にあるとは思えないが、自身の『正義』に従い、死を選ぶとも考えられる。それをされると、それを英雄視するヒト属が現れるかもしれず、できるなら控えてもらいたい。
「銃を捨て、降参しろと言ってる!」
命じる警官をオスは横目で睨み付けた。
「ねごといいやがって! あくとーのてしたが……!」
低く抑えた唸りを耳にできたのは、声にしたオス以外、カーウィンとミス・アンダーソンのみであろう。
不意にそれは脱兎との如く走り出した。誰かを人質にするためではなく、窓目がけてである。
警官の怒号と聴衆の悲鳴が混じり合い、乾いた銃声の何発分かが重なる。
銃弾の一発が命中したのか、それの半身が大きく揺れた。しかし倒れるまではいかず、吠え声と共に窓を突き破り、外へ逃げ出してしまう。
「追え! 追うんだ!」
リーダー格らしい警官の支持に、警官と警備官の集団は、三手に分かれた。一つはそれの後を追い、一つは出入り口から駆け出していく。最後の一組は、聴衆の安全の確認と、撃たれた被害者の状況確認のため、法廷に残る。
死傷者の確認に忙殺される警官を見物する傍ら、カーウィンはミス・アンダーソンを覗き見た。
被告の一人である彼女は、無事を確認された聴衆達とは別の出口から、外へ連れ出されるところだった。
カーウィンの視線に気づいてか、一瞬彼女が振り返り、カーウィンの鼓動を一オクターブ跳ね上がらせた。
何事か囁くように彼女の唇が動いたのを、カーウィンは見逃さない。命拾いした事実に、これまでの刺々しさが失せてしまったのだろうか。謝罪したようにも見受けられる。
彼女の態度が軟化しただけでも、カーウィンにとり大きな収穫に違いなかった。
反間苦肉の計略は、無駄にはならなかったようだ。