第一話 逢瀬
豪奢な部屋だった。
毛足の長い絨毯が、床一杯に敷き詰められている。数少ない家具であるテーブルと椅子も、繊細な彫刻が施されたマホガニー製である。天井から下がるシャンデリアは、揺らめく赤橙色の光を四方八方に反射し、部屋全体を奇怪な陰影で隅々まで照らしている。
一番人目を引くのは、大人三人が並んで横になっても余裕がありそうな、大きなベッドであろう。見た目の高価さなら、他の家具にひけを取るまい。
ベッドの四方を囲む白いカーテンは締め切られ、奥から女の掠れた声が流れてくる。それが悲鳴なのか喘ぎなのか、知るのは当事者だけだ。
カーウィン・イムグリオイスト卿は、汗で額に貼り付いた彼女の前髪を、左手で払い除けた。
指が触れただけなのに、小さな声が彼女の口から漏れ出る。
二人の頭上、天井近くの高価な電灯からは、シャンデリアの光とは異なる安定した白い光が放たれ、互いを隠すことなく照らしていた。
カーウィンの年齢は、二十代半ばから三十代といったところか。髭の生える気配のない張りのある肌は、確かに二十代前半の青年で通用しそうだ。
金髪碧眼、眉目秀麗の言葉が、実に似合う美男だ。
癖のある見事な金髪に、海のように澄んだ青い二重の瞳。鼻梁から口元にかけての線は彫りが深く、意志の強さを伺わせる。それに対し顎の線は滑らかで、ともすれば頑固とすら見える表情を和らげている。肌理の細かな色白の肌からは、陽光の元での肉体労働と無縁であると知れる。
十人中八、九人の年頃の娘ならば、ほんの数秒で陥落してしまいそうな、掛け値無しの美形だ。実際その通りで、加えてカーウィンの血筋と地位、収入を知れば、落ちない娘はいないと言って、過言ではない。
そんなカーウィンの容姿端麗さなど、今の恋人達には無粋な形容だ。
カーウィンは彼女の額から頬、そして顎先へと、指を走らせた。
指の動きに敏感に反応し、彼女は再び声を漏らし、小刻みに身体を震わせる。
「綺麗だ……」
さりげない彼女の反応に、カーウィンは眩しげに瞳を細め、小さく囁いた。
カーウィンの声自体、緊張と興奮に上擦っている。それでも、聞いた者の脳髄を痺れさせ、思考力を奪い去ってしまいそうな甘い声音は、恋人との逢瀬に実に相応しい。
「……あっ……」
彼女が声を上げた。
カーウィンの左手が、首筋を伝わり、さらに下へと向かったのだ。意識してではないだろう、長い栗毛色の髪が、小さくベッドの上で揺れる。両頬を流れ落ちる涙の跡が、枕に吸い込まれ消えていく。
さも愛しそうにカーウィンは微笑み、右手で涙の跡を拭うと、彼女の額に軽く口付けした。
彼女は身震いすると、恋人の触れる場所以外の感覚を締め出そうとするかのように、硬く閉じたまぶたに力を入れた。カーウィンの唇がまぶたの上から左頬、そして耳元へと静かに移動するに合わせ、長いまつげが切なげに、小刻みに揺れる。
身内に溜まった緊張を解きほぐすように、カーウィンは大きく息を吐いた。
感に入った声を上げ、彼女の喉元が仰け反る。
カーウィンは彼女から顔を離し、光に照らし出される彼女の全身を、今一度見つめた。
「綺麗だ……」
他に形容する言葉が思いつかない。
『人の真の美しさは、外見で決まるのではない。中身である』
誰かの言葉が、脳裏をよぎる。
正しくその通りだと、実感せずにいられない。
腹部から胸部にかけて切開し、身体の中身の隅々まで、一切合切を開示してくれる彼女を見れば、異議を唱える気持ちは無くなる。
カーウィンがかつて交際したどの異性と較べても、眼前の彼女の美しさは遜色ない。女性の選り好みの激しいカーウィンの基準からしても、間違いなくトップクラスである。
彼女の肺は、喫煙者に特有の肺胞が溶け、スポンジと化した柔らかな物ではない。張りがあり、硬い。近年の女性の喫煙に、心を痛めているカーウィンとしては、実に喜ばしい限りだ。ニコチンの誘発する酵素で細胞が溶け、タールが糸引く肺など、腸内に溜まった排泄物よりも汚らしく、グロテスク極まりなく、直視に耐えられない。
肺の下に見え隠れする心臓は、激しい運動を強いられてこなかった平均的な大きさである。すでに確認してあるが、心音は規則正しく、妙な雑音は混じっていない。欠陥はない、という事だ。
五臓六腑の残り、肝臓、脾臓、腎臓に異常は見られず、胃、胆、大腸、小腸、膀胱、三焦といった消化器官も、健康そのものである。
そうでなければ、カーウィンの目に叶うはずもない。
胸筋と共に取り除かれた肋骨は、彼女の横に丁寧に並べられていた。肋骨の下には、彼女の白い肌が、一緒に剥がされた肉と一緒に、シーツの上に広がっている。
剥き出しにされた彼女の臓器に、カーウィンは新たな興奮を覚えた。鎖骨下の切開面をなぞっていた左手を下げ、肺をさする。
肺表面を覆う、血液以外のぬめりに、指が滑る。このぬめりが、肺を外気に触れさせぬよう守り、自壊から防いでいるのだ。そうでもなければ、皮膚一枚分の厚さもない気泡の塊は、気圧の変化で連鎖的に潰れていってしまう。
もっとも、肺が無事だからと言って、呼吸が保証されている訳ではない。
呼吸を保つと言う事は、肺内の空気循環を保つ事である。その循環を保つには、胸筋を伸縮させ、体内圧を上下させなくてはならない。胸の膨張により、胸内体積が増え、体内圧が下がり、肺に空気が入る。胸が縮めば、体内圧が上がり、空気は体外に押し出される。これが呼吸の基本原理である。
ところがすでに、彼女の胸は切り開かれている。肋骨すら取り除かれ、自然な呼吸はもう出来ない状態だ。加えて、カーウィンの好奇心で肺を縦に二つに切り割られては、呼吸がどうこう言える状態でなくなっている。強制的に気管に空気を送り込む方法もあるが、そこまでカーウィンは頓着していない。
彼女の唇が小さく震え、最後の息を吐き出す、掠れた笛の音のような声が漏れた。
「……こ……殺し……て……」
彼女の哀願に、カーウィンは右手の人差し指を、彼女の唇に軽く当てた。
「そんなこと、言うものじゃありません」
興奮に掠れてはいても、カーウィンの口調には愛しさと、限りない優しさが感じられる。
「自己保存本能というのは、どの生命にも共通して与えられた権利なんです。それを放棄しては、生命を放棄するのと同じでしょう?」
彼女の余命が幾ばくもないと、自覚していないかのような口調だ。そしておそらく、自覚してはいまい。
左手は肺と肺の隙間をまさぐり、未だ規則正しく活動している心臓を探り当てた。
「知っていますか? 世間のあらかたは、心臓こそが一番重要な器官だと思っていますけれど、それが誤解だという事?」
彼女のわななく唇が否定だと判断し、カーウィンは説明を続けた。
「一説に、心臓というのは、腎臓に血液を送るだけのポンプでしかない、というのがあります。腎臓こそが一番重要な器官だと、言う訳です。どうしてでしょう? それはですね、体内を一周し、不純物の混じった血液を腎臓は濾過するからです。これがなかったら、体内の毒素、特にアンモニアですか、を廃棄できなくなるからですね。まあ、濾過するのはそれだけじゃありませんけど」
塩分と水分を取り除くのも、腎臓の役割である。アンモニアから尿酸、更に尿素へと無毒化していくのも腎臓の機能だったような記憶があるが、今一つ定かでない。勉強不足を痛感させられる。
小刻みに震える彼女の赤い唇に魅せられ、カーウィンは吸い込まれるように、彼女と唇を合わせていた。彼女の靄のかかった瞳が晴れ、喉元が微かに上下する。
唇を離し、彼女の左手を取ると、指先に軽いキスをする。
まだ指先に感覚が残っているのか、彼女は小さな声を上げた。指が痙攣し、震える。
彼女の反応に、カーウィンは感動と満足の笑みを浮かべた。害意も罪悪感もない、子供のような無邪気な微笑みだ。
「まあ、誤解を受ける理由は、納得のいくものですけれど」
彼女の左手を自身の頬に押し当て、柔らかな感触に感慨無量に目を閉じる。尾てい骨から頭の先まで、痺れるような興奮が走り抜け、武者震いに襲われながら、説明を再開する。
「心臓を除く多くの内臓に、左右二つあるのが誤解の原因です。片方が駄目でも予備があるからと、そう思われても仕方ないのかもしれません。でもその理屈で言うなら、余計な内臓はとうに退化していても良いはずじゃないですか。実際、そうなっている内臓器が幾つかあるのですから。それでも一対で機能しているのですから、予備があるから、みたいな説はその実事実無根なのですよ」
カーウィンは顔を曇らせ、力無く頭を左右に振った。生理学は専門でなく、また彼女に解り易く説明するつもりなら、一晩の逢瀬で果たせる内容でもない。
彼女の発した小さな声に、カーウィンは元の表情を取り戻した。
「おっと、失礼。僕としたことが、女性に暗い顔を見せてしまうとは」
カーウィンは会釈し、手にしたままの彼女の指に、もう一度口付けした。
「でも見方によっては、心臓は一つで二つ分の働きをしている訳です。そう……例えば……鼓動、と言えば、理解しやすいでしょうか?」
心臓に血液を流し込み、別の血管に送り出す行為は、一度の伸縮運動で出来るものではない。まず上半分が萎縮し、一定の間隔を置き、下半分が収縮する。下半分の緊張が解け、リラックス状態に戻る事で、心臓一回分の活動が終了する。
健康な心臓は、一回の運動で二度音を立てる。膨らんで一回、縮んで一回、との誤解を良く受けるが、心臓は所詮筋肉の塊である。筋肉が伸縮の度に音を立てるのであれば、筋肉を持つ全ての動物は、全身から音を立てなくてはならなくなる。実際そうでないのは、かけら程の観察力を持てば、大抵のヒト属が同意する内容である。
もう少し観察力のあるヒト属なら、心臓が音を立てる原因を、左右心房心室の合計四つある空間を隔てる、弁の開閉にあると予想するだろう。
そしてさらにもう少し、その方面の研究に携わるか、知識を得たヒト属なら、鼓動の原因は弁とは無関係である、と知っている。
最初の鼓動は、心臓に流れ込む血液が、血管を震わせるために起きる振動である。二度目の鼓動は、心臓から送り出された血液の半分近くが、心臓に逆流する時の振動だと、予想されている。
大抵の自称『識者』は、心臓は百パーセントの完全性で血液循環を行っていると、異口同音に唱えるが、実際の循環率は良くて五十パーセント程度のものだ。血液が心臓に逆流するなど、それこそ世の理に反抗する非常識と決めつけ、想像した事すらあるまい。
同様に、一回の鼓動で全身の半分近い血液を循環できると思い込んでいるなら、それも大きな間違いだ。一鼓動で移送できる血液量など、二百ミリリットルにも満たない。
全身の血液が一箇所に集中する重要な器官だと、無知蒙昧ぶりを披露するつもりなら、大動脈・大静脈が通う他の器官では、血液が集中しないのかと聞き返してみたい。
「……勿論、心臓の活動一つ取っても、全てが明かされている訳ではありません。例えば、極度の運動を専門にする中には、三つ目の鼓動を持つヒト属もいます。これがどこから来るものなのか、僕の知人の専門家でも、仮説しかできてないそうです。それとか、心臓がどうして正確な時間差で活動できるのか、それも判っていません」
後者の問題の解答の一部なりは、カーウィン程度の知識量でも知っている。心臓のほぼ中央の筋肉は、ほとんど伸縮を行わない壁となっている。この壁が、収縮の合図を下半分に届ける妨害をしているのだ。そのため、合図となる振動は、上半分では時間差なしに受信されるのだが、下半分に届けるには壁を迂回しなくてはならない。この両者の時間差が、上半分と下半分の不協和になっているのだ。
明確にされていないのは、上下の収縮の合図となる源の正体である。心臓のどこかに発信源があるのは確かだ。しかしそれがどのようなもので、どのようなメカニズムで定期的な信号を発せるのか、カーウィンの聞き齧りの知識では、彼女を満足させる説明はできない。
「でも、先程の知人の話ですと、基本的な電気化学と流体力学の理論で、説明はできるそうです。その証明となる部分が、まだ見つかっていないだけだとか。少し話が反れてしまいますけど、聞きたいですか?」
彼女は返事をしなかった。
カーウィンはいぶかしみ、眉根を寄せた。会話に興味を示さないとは、彼女らしい態度ではない。
顔を近づけ、彼女の瞳を覗き込む。
瞳孔が開ききっていた。元の緑色の部分は輪郭しか残っておらず、底の見えない黒い闇が、瞳の大部分を占めている。
息をしていないのは、別に不思議でもない。胸を切開した時点で、自力による呼吸機能は失われている。
首筋に手を当て、脈が止まっていると確認し、ようやく納得する。考えてみれば、左手に感じていた心臓の鼓動が、しばらく前から途絶えている。
心臓停止を医学的な『死』とするなら、彼女は疑いなく死亡していた。脳が生きているとしても、残りほんの数分のことだろう。
カーウィンはそっと、彼女の心臓から左手を離した。後悔にも似た想いに胸が締め付けられ、胸に空いた風穴に、虚無感が吹き込んでくる。
「……何です……もう終わりですか……?」
かろうじて絞り出した声は、つい今し方までの生気に溢れた声ではなくなっていた。冷たく、風が空洞を吹き抜けるような虚ろさだ。
崩れてしまいそうな疲労感を覚えつつ、喪失に伴う精神の第一段階『無感動の段階』にあるのだと、冷めた部分で納得する。
彼女と話したい題材は、まだまだ沢山あったのだ。彼女は会話に時間を費やすより、簡単な死を選んだのだ。そのようにすら思えてしまう程、呆気ない幕切れだ。
カーウィンの脳裏を、生前の彼女の姿が駆け抜けていった。彼女との出会い、彼女の笑顔、彼女の唇の柔らかさ、彼女の肌の温もり……。全ての美しい思い出は、今や物言わぬ肉片と化してしまった。
何となしに、彼女に裏切られたような別の虚しさが、カーウィンの胸に去来した。
後に残されるヒト属の精神的苦痛を考慮せず、容易く生命を投げ捨ててしまった彼女の行動は、余りにも彼女らしくない。ありもしない『死後の安息』の幻影にしがみつき、肉体を少々苛まれたからと、生きる気力をさっさと投げ出してしまったように見受けられる。
彼女が何を信じようと、それを問い正す訳にはいかない。自分の思想こそが唯一無二と信じ、それに従わない相手を力ずくで翻意させるのは、カーウィンの主義でもない。
しかし彼女とは、本当に、もう少し長い交際を続けたかった。
そんな後悔だけが、心臓をえぐり取られるような痛みとなって残る。まだしばらく交際してから、切り刻んでも良かったのではないか、との後悔と、想いの全てを語り合う機会を持とうともせず、死を選んだ彼女への不満に、胸中の虚無感が膨らんでいく。
愛する女性との別れは、いつになっても辛く苦しい。
第二段階、『思慕と探索の段階』が、終わりに近づいてきた。思慕に悩み、悲嘆に暮れる、本来であれば最も長い期間続く状態だ。
どれだけ後悔しようと、怒りに駆られようと、悲嘆に暮れようと、死者は戻ってはこない。死者は死者、それ以上でも、それ以下でもない。
第三段階、『混乱と絶望の段階』に特有の反応だ。
「……貴女の事……深く心に留めておきますから……」
彼女の遺体を前に、カーウィンは決して絶やさなかった笑みを浮かべたまま、彼女と最後の口付けを交わした。
○ ○ ○ ○ ○
実際は十分も経っていないだろう、カーウィンにしては充分な追悼を行うと、顔を拭い、深い溜め息を一度だけ漏らした。
「ま、済んでしまった事は仕方ありません」
すがすがしさすら感じさせる口調には、つい今し方までの愛別離苦の苦悩や、殺人を犯した罪悪感は見受けられない。
そして、『悲哀の過程』もしくは『喪の作業』で知られる最終段階、『再建の段階』に到ったに相応しい言葉を投げかける。
「あなたとの思い出は、僕の大事な宝物です」
ありがちな『安らかにお休み下さい』の言葉を、カーウィンは口にしなかった。生体活動を停止した肉片に言っても意味はないし、『魂』などの世迷言も信じていない。死んでしまえば、全てはそこで停止する。肉は土に還り、知識や記憶は永遠に失われる。運が良ければ、肉の一部の分子が別の生物の中に取り込まれる事もあろうが、所詮はそれだけの事、取り立てるべき謂れすらない。
こんな単純な理屈を、なぜヒト属が素直に受け入れようとせず、『死後の世界』のような荒唐無稽な作り話にしがみつきたがるのか、カーウィンには理解できない。
おそらく、ヒト属には『知性』と呼べるだけの知性が、備わっていないからなのだろう。
更なる観察、研究、調査を必要とする領域である。
カーウィンは彼女の残骸にもう一度目を向けてから、枕元のロープを引いた。どこかで呼び鈴が鳴っているはずだが、外の音は一切聞こえてこない。
程なくしてドアが開いた。
「御用でしょうか?」
恭しく頭を下げたのは、長年イムグリオイスト家に務めてきた執事だった。カーウィンの行為のみならず、イムグリオイスト家に関わるスキャンダルの数々を、殺されても漏らさないと信頼できるヒト属の一体だ。
「彼女を屋敷に案内したい。手配してくれ」
「かしこまりました」
鷹揚なカーウィンの指示に、執事はベッドを一瞥し、顔色一つ変えずに再度頭を下げた。
「それで卿は? 別の車を仕立てましょうか?」
貴族の地位が失墜したこの時勢にあっても、名家のスキャンダルを狙う輩は未だ後を絶たない。女性関係に自由でいられる独身であっても、交際相手がいるとなれば、報道関係が黙ってはいない。相手の生死に関わらず、主人のスキャンダルにつながらないよう気を遣うのも、一流の執事の役割だ。
カーウィンは窓の外を見遣り、頭を左右に振った。
「いや、今夜はいらない。たまには散歩しながら帰ろう」
今夜の彼女との甘い逢瀬の記憶は、無粋な雑音を背景に反芻したくない。静かな中、一人で心の声に耳を傾け、思い返すべき美しい記憶だ。
「かしこまりました」
執事は会釈すると、ハンガーにかけてあったコートを外した。