紙おむつアレルギーの夫は、初恋の相手の前では誰よりも育児上手だった
息子が高熱を出した夜、私は夫に、紙おむつを替えるあいだだけ手を貸してほしいと頼んだ。
一歳になったばかりの陽真は、触れるのが怖いほど身体が熱かった。下痢でおむつかぶれも悪化し、肌は赤くただれている。私が足を押さえてほしいと頼むと、夫の高瀬直哉は数歩離れたところで顔をしかめた。
「真帆、俺、紙おむつ触ると手が荒れるって前から言ってるだろ。皮膚科でも、なるべく触らないほうがいいって言われてるんだ。悪いけど、自分でやって」
言い争っている最中、陽真の身体が急にこわばった。
小さな手足が細かく震え、呼びかけても反応しない。唇の色まで変わっていくのを見て、私は紙おむつどころではなくなった。
すぐに119番へ電話した。
その夜、直哉はInstagramに一枚の写真を投稿していた。
防毒マスク姿の自撮りだった。
「家の空気、もう無理」
当時の私は、ただ育児から逃げたいだけなのだと思っていた。
翌日、病院のおむつ交換スペースで彼を見るまでは。
紙おむつに触ると手が荒れると言い続けていた男が、別の赤ちゃんのおむつを替えていた。
「ほら、きれいにしような。すぐ終わるから」
慣れた手つきで肌を拭き、軟膏を塗り、新しい紙おむつをつけていく。
隣に立っていたのは、直哉の元恋人、水野沙耶だった。
直哉は手袋すらしていない。
手の甲にも指にも、赤みはなかった。
赤ちゃんを抱き上げる表情は穏やかで、陽真には一度も向けたことのない優しさに満ちていた。
そこで、ようやく分かった。
紙おむつアレルギーなんて、最初からなかった。
直哉が嫌だったのは、紙おむつじゃない。
私と陽真がいる生活そのものだった。
1
「直哉、ちょっと来て。陽真、熱がすごいの」
私はリビングの床に座り、陽真を抱えていた。
体温計には四十度近い数字が出ている。下痢も続いていて、替えたばかりのおむつがまた汚れていた。
「足だけ押さえてくれない? おむつ替えたいから」
直哉はテレビの前でゲームをしていた。
何度目かに名前を呼んで、ようやくヘッドセットの片側を外す。
「今?」
「熱も高いし、ずっと機嫌も悪いの。早く替えて寝かせたいから」
直哉は立ち上がったものの、私たちのそばまで来ると鼻を押さえた。
「……臭いな」
「だから替えるんでしょ。お願い、足だけでいいから」
「前にも言ったよな。俺、紙おむつ触ると手が荒れるんだよ」
「触らなくていい。陽真を押さえてくれれば――」
「分かってるのに、なんで俺にやらせるんだよ」
苛立った声に、私も言葉を失った。
そのときだった。
腕の中の陽真が、びくっと大きく震えた。
「陽真?」
続いて、手足が細かくけいれんし始めた。
名前を呼んでも目が合わない。
さっきまで泣いていた声も途切れ、唇が青紫色に見えた。
「直哉、陽真が……!」
もう返事を待つ余裕はなかった。
私はすぐにスマホを取り、119番へ電話した。
奥の和室から、義母の美智子さんが出てきた。
陽真が生まれてから、美智子さんは何かと理由をつけて家へ来るようになった。「手伝いに来た」と口では言うものの、実際に育児をしてくれた記憶はほとんどない。
「どうしたの?」
「けいれんしてます。今、救急車呼びました」
「熱くらいで?」
「けいれんしてるんです!」
思わず声が大きくなる。
美智子さんの眉が上がった。
「子どもを産んでから、本当に気が強くなったわね」
私は答えず、陽真の呼吸だけを見ていた。
それでも美智子さんは続けた。
「直哉も、あのとき私の言うことを聞いていればよかったのよ」
少し間を置いて、ため息をつく。
「沙耶ちゃんみたいな、昔からよく知ってる子と結婚していればね」
沙耶。
その名前に、胸の奥がわずかにざわついた。
水野沙耶は、直哉が高校時代に付き合っていた女性だ。彼女が海外へ留学することになって別れ、その数年後に私は直哉と知り合った。
もうとっくに終わった関係だと思っていた。
直哉は母親の言葉を否定しなかった。
救急車はほどなく到着した。
救急隊員が陽真をストレッチャーに乗せ、私はそのまま一緒に乗り込む。
ドアが閉まる直前、自宅の窓を見上げた。
直哉が立っていた。
下りてくることもなく、ただ窓越しに救急車が離れていくのを見ていた。
桐沢中央医療センターに着くと、陽真はすぐに小児救急外来へ運ばれた。
医師の説明では、ウイルス感染による高熱と熱性けいれんだった。下痢が続いていたことでおむつかぶれも悪化し、皮膚には炎症まで起きている。念のため入院し、経過を見ることになった。
手続きを終えた頃には、陽真は病室で点滴を受けていた。
ベッド脇の椅子に腰を下ろし、ようやく一息ついたところでスマホを確認した。
Instagramに、直哉の新しい投稿があった。
防毒マスク姿の自撮り。
「家の空気、もう無理」
コメント欄には、友人たちの軽い書き込みが並んでいた。
「何があった?」
「育児ってそんなヤバいの?」
直哉はそのうち一つに返信していた。
「小さいやつの破壊力、なめてた」
画面を見たまま、しばらく指が動かなかった。
陽真はまだ熱が下がらず、手の甲には点滴の針が刺さっている。
ほんの数時間前、私はこの子を失うかもしれないと思った。
直哉にとっては、それすら笑い話になるらしい。
結局、電話はかけなかった。
スマホを伏せ、陽真のベッドのそばに座り直した。
2
翌朝になると、陽真の熱は少し下がっていた。
眠っている隙に飲み物を買おうと病室を出た。
自動販売機から戻る途中、小児病棟の近くにあるおむつ交換スペースの前で、見覚えのある背中が目に入った。
直哉だった。
交換台には、生後数か月ほどの赤ちゃんが寝ている。
直哉は片手で腰を支え、もう片方の手でおしりふきを取っていた。動きに迷いがない。
「ほら、きれいにしような。すぐ終わるから」
声まで優しかった。
陽真にこんなふうに話しかける直哉を、私は見たことがない。
そばにいた女性が笑った。
「直哉、本当に上手になったね。私より慣れてるかも」
水野沙耶だった。
直哉は彼女から軟膏を受け取る。
「最近ちゃんと寝てないだろ。こういうのは俺がやるから」
赤ちゃんの肌に丁寧に薬を塗り、新しい紙おむつをつける。
立ち上がると、沙耶の頬にかかった髪まで何気なく耳にかけてやった。
あまりにも自然な仕草だった。
私の目は、直哉の手に吸い寄せられた。
赤みひとつない。
手袋もしていない。
痒そうに指をこする様子さえなかった。
二人へ声をかけに行く気にはなれなかった。
スマホを取り出し、赤ちゃんの顔が映らないよう角度に気をつけながら、直哉の手元と横顔、そして声を動画に残した。
沙耶はすぐそばに立っている。
何も知らない人が見れば、小さな子どもを一緒に世話する夫婦に見えただろう。
同じ建物の病室では、昨夜高熱でけいれんを起こした陽真が眠っているのに。
録画を止め、私はそのまま病室へ戻った。
直哉には何も言わなかった。
陽真が退院して家に戻ると、美智子さんはリビングでテレビを見ていた。
「やっと帰ってきたの? 何日も入院して、ずいぶんお金かかったでしょう」
返事をしないでいると、さらに眉をひそめる。
「直哉だって仕事で大変なのよ。真帆さんは少し心配しすぎなんじゃない?」
「医師には、搬送が遅れていたら危なかったと言われました」
「昔はそんなに大げさに病院なんて行かなかったわ」
そこへ直哉が書斎から出てきた。
美智子さんはすぐに息子へ顔を向ける。
「ほら。また私が何か言うと、すぐ言い返すの」
直哉はうんざりした顔で私を見た。
「もういいだろ。陽真だって退院したんだし」
私は陽真を抱き直した。
「これからこの子のことは、私がちゃんと記録しておくから」
「何だよ、それ」
「別に」
直哉の口元が歪んだ。
「俺なしでやっていけるとでも思ってる?」
黙らせるつもりだったのだろう。
私はただ、直哉を見返した。
「それは私が考える」
一瞬、彼の顔から笑いが消えた。
その日から、私は陽真の通院記録、生活費、育児にかかった支出を残すようになった。
同時に、陽真を連れてここを出るには何が必要なのかを考え始めた。
3
最初に調べたのは、お金だった。
結婚してからも、私と直哉はそれぞれ個人口座を持っていた。そのうえで毎月決まった額を生活費用の口座に入れ、住宅ローンや保険、食費、育児費用の多くをそこから支払っている。
家計管理のため、二人で同じ家計簿アプリを使っていた。銀行口座もクレジットカードも連携していた。
それまで私は、日々の支出くらいしか見ていなかった。
履歴を遡って初めて、見覚えのない送金が何度もあることに気づいた。
五万円、十万円、多いときには二十万円。
時期はばらばらなのに、振込先だけは同じだった。
水野沙耶。
送金は、沙耶が帰国した頃から始まっていた。
嫌な予感は、それだけでは終わらなかった。
自宅のパソコンに、不動産会社から送られてきた資料が残っていた。
桐沢市中心部に建つ新築マンションで、価格は六千五百万円。
購入者欄には、水野沙耶の名前があった。
頭金のうち千二百万円は、直哉が管理する口座から支払われている。その中には、私たちが住宅ローンの繰り上げ返済や陽真の教育費のために貯めてきたお金も含まれていた。
パソコンの前で、指先が冷たくなった。
直哉はずっと「会社の状況があまり良くない」と言っていた。
妊娠中、寝具を少し良いものに替えたいと相談したときは「無駄だ」と言われた。
陽真を出産したあと、宿泊型の産後ケアを数日だけ利用したいと言ったときも、同じだった。
なのに沙耶は、桐沢市内でも高額な産後ケア施設を利用していた。
そのことが分かったのは、半年前のカード利用履歴のおかげだった。
私名義のクレジットカードに、六十八万円の決済があった。
当時、すぐに直哉へ確認した。
「取引先への立て替えで急に必要になったんだ。数日中には戻すから」
そう説明され、実際に引き落とし分もあとから補填された。
だから、それ以上は疑わなかった。
改めて履歴を確認すると、利用先はその産後ケア施設だった。
日付は、沙耶が出産した直後。
陽真を産んだ日のことが頭に浮かんだ。
私は出産後に大量出血を起こし、処置のため再び手術室へ運ばれた。
外で待っていた美智子さんが最初に口にしたのは、私の容体を心配する言葉ではなかった。
「もう出産は終わったんでしょう? どうしてまだこんなに処置が必要なの?」
直哉は、そのすぐ隣にいた。
何も言わなかった。
結局、夜中に駆けつけて付き添ってくれたのは、私の両親だった。
その男が今は、私たちが一緒に貯めたお金で、元恋人の産後ケア費用を払っている。
胃の奥から一気に何かが込み上げた。
私は洗面所へ駆け込み、しばらく吐いた。
風呂から上がってきた直哉が、洗面台に手をつく私を見て眉を寄せる。
「どうした?」
返事をしないでいると、何かに気づいたように顔つきが変わった。
「……まさか、また妊娠してないよな?」
「安心して」
喉が焼けるように痛かった。
「もう、あなたの子どもを産む気はないから」
直哉は分かりやすく息をついた。
「妊娠じゃないなら早く寝ろよ。最近、家にいると疲れるんだよ」
それだけ言って寝室へ戻っていった。
ほどなく、規則正しい寝息が聞こえ始める。
一人でリビングに残り、送金履歴、不動産資料、カードの利用明細を保存した。すべて、自分だけがアクセスできるクラウドにもアップロードする。
空が明るくなり始めた頃、新しいフォルダを一つ作った。
名前は、
離婚。
4
陽真が退院して数日後、美智子さんはまた家に来た。
私が以前ほど言い返さなくなったことで、ようやく立場を理解したとでも思ったのかもしれない。前より遠慮がなくなっていた。
その日の昼、食事を済ませたら陽真を病院へ連れていく予定だった。
朝交換した紙おむつは防臭袋に入れていたが、まだゴミに出せていなかった。
美智子さんは勝手に子ども部屋へ入り、その袋を手にして出てきた。
「真帆さん、これ何?」
「朝替えたおむつです。あとで捨てます」
「部屋、臭うわよ」
「防臭袋には入れてあります」
美智子さんは鼻で笑った。
「毎日子どもの面倒だけ見てるのに、こういうこともちゃんとできないの?」
そう言うなり、袋を食卓へ投げた。
袋の口が茶碗の縁に当たり、きちんと閉じきれていなかった紙おむつが滑り出す。
私がよそったばかりのご飯の上に落ちた。
「この前だってシーツ汚してたでしょう? 一日中子どもと家にいて、何してるの?」
私は茶碗を見たまま言った。
「取ってください」
「何、その言い方」
「それ、取ってください」
美智子さんは薄く笑った。
「自分の息子のおむつでしょう? 自分で片づければいいじゃない」
ずっと胸の奥に溜まっていたものが、そこで切れた。
私は茶碗を持ち上げると、流しまで運び、中身ごとゴミ袋へ落とした。
「勝手に陽真の部屋に入らないでください」
振り返って言う。
「それから、子どものものを食卓に投げるのもやめてください」
美智子さんの顔色が変わった。
「誰に向かってそんな口きいてるの?」
「お義母さんです」
「真帆さん!」
腕をつかまれた。
強く振り払う。
美智子さんがよろめき、大げさな声を上げた。
その瞬間、書斎から直哉が飛び出してきた。
「何やってんだよ!」
母親が私に腕を押さえられていたところだけを見たのだろう。
「真帆、お前、何してるんだ!」
「違う。先に――」
言い終わる前に、肩を強く押された。
バランスを崩し、額をローテーブルの角に打ちつける。
鋭い痛みのあと、頬を温かいものが伝った。
「直哉……」
美智子さんはすぐに息子の腕へすがりついた。
「見てよ。私に手を出したのよ、この人」
直哉は母親をかばうように立った。
「母さんに謝れ」
私はテーブルに手をつき、ゆっくり立ち上がった。
「聞こえてるだろ。謝れよ」
目元に流れてきた血を手の甲で拭う。
「どいて」
「どこ行くんだよ」
「病院」
直哉の顔を見た。
「この傷、診てもらうから」
一瞬だけ、直哉の表情が固まった。
私はそれ以上何も言わず、スマホと上着を持って家を出た。
病院では頭部外傷と診断され、傷の処置を受けた。診断書も出してもらった。
自分でも傷を撮影し、何時頃、どこで、どういう流れで直哉に突き飛ばされたのかをメモに残す。
その足で近くの警察署へ行った。
その場では被害届までは出さず、相談記録を残してもらった。
それだけでも、家の中だけで消えていた出来事が、外に記録として残った。
5
それから、直哉はほとんど家に帰らなくなった。
「しばらく友達のところに泊まる。お互い冷静になったほうがいい」
そう言っていた。
その「友達」が誰なのか、もう考える必要もなかった。
その頃、陽真の体調がまた悪化した。
一度は熱も下がっていたのに、咳が増え、呼吸がどんどん速くなった。受診すると肺炎を起こしていることが分かり、状態は短時間で悪くなった。
その夜、陽真はPICUへ移された。
説明書類に署名する手が震えた。
まだ一歳だった。
血中酸素の値も安定していない。
医師は最善を尽くすと言ってくれたが、さらに悪化する可能性もあると告げられた。
私はPICUの外の椅子に座り、何度も直哉へ電話した。
七回目で、ようやくつながった。
向こうではテレビがついている。
赤ちゃんの泣き声もした。
「今度は何?」
声にはあからさまな苛立ちが混じっていた。
「直哉、病院に来て。陽真、PICUに入った。先生に、かなり危ない状態だって言われてる」
数秒、返事がなかった。
奥から沙耶の声が聞こえる。
「こんな時間に誰?」
直哉は彼女には答えなかった。
「今俺が行って、何ができるんだよ。医者が診てるんだろ?」
「あなたの息子だよ」
「真帆、もう勘弁してくれ。陽真に何かあるたび俺を呼び戻すけど、俺、医者じゃないんだよ」
「死ぬかもしれないの」
電話の向こうが静かになった。
私は待った。
今度こそ、「分かった」と言ってくれると思った。
「いつも見てるの、お前だろ。今はお前がついててやれよ。俺にどうしろっていうんだよ」
そこで通話は切れた。
しばらくスマホを握ったまま動けなかった。
通りかかった看護師さんが、紙コップに入った温かいお茶を差し出してくれた。
「お母さんも少し飲んでください。倒れたら大変ですから」
両手で受け取った。
涙が一滴、紙コップの縁に落ちた。
その夜を境に、直哉が来ることを期待するのはやめた。
陽真が助かったら。
この子を連れて、必ず出ていく。
6
陽真は七日間、PICUにいた。
そのあいだ、直哉から電話は一本もなかった。
幸い治療が効き、状態は少しずつ安定した。やがて一般病棟へ戻れることになった。
眠っている陽真の頬を見つめながら、もう迷う理由は残っていないと思った。
退院前に、離婚問題を扱う弁護士へ相談を申し込んだ。
三浦奈緒子先生。
桐沢市内で離婚やDV案件を多く扱っている弁護士だった。
直哉が沙耶の赤ちゃんのおむつを替えていた動画。家計から沙耶へ流れていた送金履歴。マンションの資料。カード明細。私の診断書。
三浦先生は一つずつ確認した。
「よく残してありますね」
「これで足りますか?」
「不貞の証拠として使えるものはあります。送金の記録も大事です」
三浦先生は診断書を手に取った。
「こちらも保管しておいてください。親権で争いになった場合、これまで誰が育児をしてきたのか、入院時にどう対応したのかは重要です。暴力についての記録も同じです」
「沙耶さんには、何か請求できますか?」
「既婚者だと知ったうえで関係を続けていたと確認できれば、慰謝料を請求できる可能性があります。マンションと送金については、もう少し資料を見ましょう」
三浦先生はカード明細にも目を落とした。
「この六十八万円は、ご主人が使ったとあとから知ったんですね?」
「はい。仕事の立て替えだと聞いていました」
「では、このカードの件はひとまず経緯が分かる資料として残しておきましょう」
私はうなずいた。
「離婚したいです」
「分かりました。その前提で進めましょう」
「陽真の親権も、私が持ちたいです」
「では、今まで実際にしてきた育児の記録を残してください。通院、入院、保育、送迎、日々の支出。残せるものは全部です」
三浦先生は資料を閉じた。
「今は相手を問い詰めるより、証拠の元データをきちんと保管してください」
それからしばらくして、高瀬家の親戚で、以前から私を気にかけてくれていた香織さんから連絡が来た。
美智子さんたちは、沙耶の赤ちゃんが生後百日を迎えるのに合わせて、桐沢グランドホテルでお食い初めを兼ねた食事会を開くらしい。
香織さんも親族側の幹事として、会場との連絡や映像の取りまとめを手伝っていた。
送られてきた電子招待状には、直哉、沙耶、赤ちゃんの三人で撮った写真が使われていた。
下には、
父 高瀬直哉
母 水野沙耶
と書かれている。
もう、親戚の前で隠すつもりすらないらしい。
招待状は三浦先生にも送った。
「これも元データを保存しておいてください」
返事はそれだけだった。
しばらく考えた末、私は食事会へ行くことにした。
直哉から都合のいい話だけを聞いている人たちには、私の側で起きていたことも知ってほしかった。
7
当日、私は深いボルドーのワンピースを着た。
陽真はもうかなり元気になっていたので、一緒に連れていくことにした。
ここまでのことがあった以上、高瀬家の誰かに預ける気にはなれなかった。
ホテルのロビーに着くと、香織さんが待っていた。
「真帆さん」
「すみません。巻き込んでしまって」
「私は何も見なかったことにするのも嫌だったから」
香織さんは事前に私を同行者として受付へ伝えてくれていた。
そのまま一緒に会場へ向かう。
宴会場の前には、赤ちゃんの写真が何枚も飾られていた。
生まれた直後の写真。
ベビーカーに乗っている写真。
直哉に抱かれている写真。
直哉と沙耶と三人で、神社へお参りに行ったときの写真もあった。
どれを見ても、直哉は自然に笑っている。
この一年、陽真に向けていた顔よりずっと。
会場へ入ると、直哉はすぐに私へ気づいた。
笑顔が消える。
早足でこちらへ来た。
「真帆。何でここにいるんだよ」
「来たら駄目なの?」
「今日はお前が騒ぐ場所じゃない」
「まだ何もしてないけど」
直哉は声を落とした。
「陽真連れて帰れ」
「陽真もあなたの子どもでしょう?」
直哉の顔つきが険しくなる。
そこへ美智子さんもやってきた。
上等そうな訪問着を着ている。
「真帆さん、一体何しに来たの? 今日はこの子の大事な日なのよ」
「陽真がPICUにいた日も、それくらい大事だと思ってほしかったです」
「あなた……」
美智子さんが言葉を詰まらせたところへ、沙耶が近づいてきた。
「真帆さん……つらいのは分かります」
「分かるんですか?」
沙耶は一瞬、視線を伏せた。
「でも、私たちも傷つけたくてこうなったわけじゃないんです」
少し間を置き、言葉を探す。
「気持ちって、自分ではどうにもできないこともあるじゃないですか」
直哉がすぐ横に立った。
「沙耶、もういい」
思わず笑いそうになった。
ここまで来ても、口から出るのは「気持ちはどうにもできなかった」なのか。
8
食事会の途中で、赤ちゃんが生まれてからの写真や動画を流す時間があった。
映像を取りまとめていたのは香織さんだった。
私は事前に、一分にも満たない動画を彼女へ渡していた。
赤ちゃんの顔と病院名が分かる部分にはぼかしを入れた。
もう一枚だけ、送金履歴の画像も用意した。口座番号などは隠し、直哉の家計口座から水野沙耶へ複数回振り込まれていたことだけが分かる形にした。
最後の家族動画が終わったあと、スクリーンに別の映像が映った。
桐沢中央医療センターのおむつ交換スペース。
直哉が赤ちゃんのおむつを替えている。
慣れた手つきで肌を拭き、軟膏を塗っていた。
会場のスピーカーから、あの日の声が流れる。
「ほら、きれいにしような。すぐ終わるから」
ざわめきが少しずつ消えていった。
直哉の顔から血の気が引く。
私は陽真を抱いたまま前へ出た。
「直哉」
返事はない。
「紙おむつアレルギーって、相手を選ぶんだね」
何人かが顔を見合わせる。
直哉は歯を食いしばった。
「真帆、止めろ」
「陽真が高熱を出した日、私、おむつ替えるから足だけ押さえてって頼んだよね。あなた、紙おむつに触ると手が荒れるから嫌だって言った」
「今それ言う意味ある?」
「あるよ」
画面が切り替わり、送金履歴の一部が映し出された。そこには日付と金額、そして振込先として「水野沙耶」の名前が並んでいた。
美智子さんの顔から笑みが消えた。
沙耶も固まった。
「離婚の準備、もう始めてるから」
直哉が勢いよくこちらを見た。
「弁護士つけたのか?」
「うん」
「お前、本気かよ」
「この結婚を終わらせるだけ」
沙耶が思わず口を挟んだ。
「でも、そのお金、私が出してって頼んだわけじゃありません」
周囲の視線が一斉に彼女へ向く。
言ってから、自分でも気づいたようだった。
「沙耶」
直哉が低い声で名前を呼ぶ。
「だって……」
沙耶は赤ちゃんを抱き直した。
声から、それまでの丁寧さが消えた。
「マンションだって産後ケアだって、直哉が自分で決めたんでしょ。私、どの口座から出したお金かなんて知らなかった」
「今それ言う必要あるか?」
「全部私のせいみたいにされたくないもの」
会場のあちこちから、小さな話し声が聞こえ始めた。
美智子さんが私の前まで来た。
「家のことを、こんなところまで持ち出さなくてもいいでしょう?」
「家のこと?」
「話し合えば済むじゃない。どうしてわざわざ……」
「陽真が入院したとき、あなたたちは誰も、あの子を家族扱いしてくれませんでしたよね」
美智子さんは口を閉じた。
私は陽真を抱き直し、出口へ向かった。
背後から直哉が追ってくる。
「待てよ」
振り返った。
「お前、今日俺を潰しに来たのか?」
「違う」
「じゃあ何で、こんなものまで見せるんだよ」
「あなた、沙耶さんとこの子を自分の家族として紹介してるでしょう?」
少し間を置いた。
「だったら、みんなが知ってるのが半分だけじゃ、おかしいよ」
9
翌日、三浦先生から直哉へ正式な受任通知が送られた。
婚姻中に形成された財産をこれ以上勝手に処分しないこと。
資産状況を明らかにすること。
離婚に向けた手続きは、そこから本格的に始まった。
同じ頃、警察からも私の怪我について改めて話を聞きたいと連絡があった。
調べが進むにつれ、別の問題まで出てきた。
直哉は沙耶へ渡した金を補うため、私の個人情報を使い、私になりすまして複数のローンを申し込んでいた。
一社だけではなかった。
何度も繰り返しており、借入額は合計で一千万円近くにまで膨らんでいた。
警察の調べは、私が想像していたより大きなものになっていった。
その後の沙耶の対応については、三浦先生から聞いた。
彼女は自分の弁護士を立て、直哉との金銭関係について説明を始めたという。
マンションも産後ケアも、基本的には直哉が手配した。
ローンの申込みや私の個人情報の使用には関わっていない。
それを示すため、直哉とのメッセージ履歴まで提出する意向らしかった。
直哉はきっと、そこまでされるとは考えていなかっただろう。
美智子さんからも電話が来るようになった。
最初は怒鳴られた。
やがて、言い方が変わった。
「真帆さん。あなたと直哉には陽真くんがいるんだから。警察沙汰にまでしたら、将来あの子だって困るでしょう?」
私は一つだけ聞いた。
「陽真がPICUにいた日、誰か一度でも会いに来ましたか?」
電話の向こうが静かになる。
そのまま通話を切った。
離婚調停が始まったあと、直哉から一度会いたいと申し出があった。
三浦先生も同席した。
久しぶりに見た直哉は、かなり痩せていた。
「真帆。沙耶とはもう終わった」
私は何も言わなかった。
「マンションの件も、向こうの弁護士と整理してる。渡した金も、できる限り戻す」
「そう」
「陽真のことは……悪かったと思ってる」
直哉は目を伏せ、机の下で指を組んでいた。
「当時、俺……家に帰るのがしんどかったんだ。お前はずっと陽真のことばっかりで、帰っても泣き声とか、おむつとか、病院の話ばっかりで」
「だから、別の子の世話をしてたの?」
直哉は視線をそらした。
「間違ってたのは分かってる」
「陽真がけいれんした日、足を押さえることすら嫌がったよね」
「……うん」
「PICUに入った日も電話した」
「真帆」
「私に任せるって言った」
直哉の目が赤くなった。
「ごめん」
私は机の上に置かれた調停の資料を見た。
「だから、離婚する」
「もう一度だけやり直せないか?」
「無理」
「陽真のためでも?」
直哉を見た。
「陽真のためだから、無理なの」
10
離婚調停に家庭裁判所での手続き、財産調査、刑事事件の捜査まで重なり、すべてが片づくまで一年以上かかった。
親権については調停で折り合いがつかず、家庭裁判所で判断されることになった。
陽真が生まれてから、実際に誰が日常的な育児をしてきたのか。
入院やPICUで誰が付き添っていたのか。
直哉が長期間育児に関わらなかったこと。
私を突き飛ばして怪我をさせたこと。
そうした事情を総合した結果、陽真の親権は私が単独で持つことになった。
直哉には、毎月の養育費を支払う義務が残った。
婚姻中に二人で形成した財産についても清算が行われた。
直哉が沙耶へ渡していた金銭も、財産分与を決める際に調べられた。
私は直哉と沙耶、それぞれに慰謝料を請求した。
その後、沙耶はマンションを売却したと三浦先生から聞いた。
直哉とは完全に別れ、子どもを連れて桐沢市を離れたらしい。
食事会の招待状にあった「父 高瀬直哉」という文字は、見栄でも演出でもなかった。手続きの中で、直哉がすでにその子を認知していたことも分かった。
沙耶がどこへ行ったのか、それ以上は聞かなかった。
刑事事件のほうも長く続いた。
直哉が私になりすまして複数のローンを申し込んでいたことや、私に怪我を負わせた件などがまとめて調べられた。
会社に知られたあと、直哉が管理職を辞めたことも三浦先生から聞いた。
最終的に、複数の事件について刑事裁判が行われ、直哉には実刑判決が言い渡された。
美智子さんのその後については、香織さんから時々聞いた。
以前ほど親戚の集まりへ顔を出さなくなり、距離を置く親戚も増えたらしい。
美智子さん本人からは、何度か「陽真に会いたい」と連絡が来た。
完全に断るつもりはなかった。
ただし、会うなら事前に約束すること。
私が認めた条件の中で会うこと。
もう二度と、陽真を高瀬家の誰かに預けっぱなしにはしない。
直哉が服役して数か月後、面会を希望しているという連絡が届いた。
施設側の許可が出たあとも、かなり迷った。
それでも、一度だけ会うことにした。
許すためではない。
終わらせるためだった。
面会室のガラス越しに見る直哉は、以前よりずっとやつれていた。
椅子に座ってから、しばらく何も言わなかった。
「真帆。毎日、お前と陽真のこと考えてる」
私は黙って見ていた。
「今さら何言っても遅いのは分かってる。俺、夫としても父親としても最低だった」
声が少しずつ小さくなる。
「いつか……一回だけでも、陽真に会わせてもらえないかな」
私は答えなかった。
「出たら、ちゃんと償う。今度こそ変わるから」
そこで口を開いた。
「直哉。陽真がPICUにいたときのこと、覚えてる?」
顔がわずかにこわばった。
「覚えてる」
「病院に来てって電話したよね」
「……うん」
「あなた、私に任せるって言った」
直哉はうつむいた。
少し間を置いてから言った。
「今も同じだよ」
「真帆……」
「自分がしたことは、自分で引き受けて」
面会時間はまだ残っていた。
私は立ち上がった。
それ以降、面会には応じなかった。
しばらくして、刑務所から直哉の手紙が届いた。
何枚も書かれていたけれど、返事は一行だけにした。
「ごめん。私、クズ男アレルギーになったみたい。あなたのことを考えるだけで、全身が痒くなりそう」
手紙を出した日、胸の奥にずっと張りつめていたものが、ようやくほどけた気がした。
それから数か月後。
よく晴れた午後、私は新しい部屋で陽真と過ごしていた。
陽真はもう、ソファにつかまりながら少しずつ歩けるようになっている。
笑うと、目が三日月みたいに細くなる。
しばらくして、嫌でも覚えのある匂いが漂ってきた。
腕の中の陽真を見下ろす。
「陽真。またやったでしょ?」
陽真は楽しそうに笑った。
私はそのまま抱き上げ、おむつ交換台へ向かう。
「はいはい。きれいにしようね」
小さな手が、私の髪をつかんだ。
額にそっと口づける。
陽真を大事にしてくれない人に、もうすがる必要はない。
私たちの暮らしは、ここから始まる。




