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第8話「不合理な食卓」

 凛の声は相変わらず無機質だった。だが——記録、という言葉を選んだことが、遼には少しだけ引っかかった。分析ではなく、記録。事実として保存する、ということだ。

 考えすぎだ、と遼は頭を振った。



§ § §



 夜。


 夕食を作った。豚の生姜焼き、わかめの味噌汁、ほうれん草のごま和え。

 凛にも皿を出した。もう「エネルギー補給です」の前置きすらなかった。凛は黙って席に着き、箸を手に取った。


 遼は食レポを始めた。


「……うん。生姜が効いてる。漬け時間がちょうどいい。もうちょい厚切りでもよかったけど、火の通りを考えたらこれが正解だな」


 味噌汁をすする。


「わかめの戻し具合は完璧。豆腐じゃなくて油揚げにしたの、正解だったな。コクが出てる」


 ほうれん草のごま和え。


「ごまの擂り方が甘い。もうちょい丁寧にやるべきだった。……まあ、食えないほどじゃない。及第点」


 凛は黙って食べていた。


「おい、何とかいえよ。美味いとかまずいとか」


 遼の言葉に凛が口を開く。


「……油揚げの選択は、データ上も最適解です。豆腐よりも脂質による旨味成分が味噌との相乗効果を——」


「お前、それ感想じゃないよな?」


 凛の箸が止まった。


「……違います。感想です。客観的な」


「客観的な感想……ねぇ。成分分析のような気もするけどな?」


「……ニュアンスです」


 凜の答えに、遼は小さく笑った。


 食器を洗い終えて、廊下を通る。

 ——また、あの部屋の前で足が止まった。


 毎日同じだ。ドアノブに手をかけ、迷って、やめる。その繰り返し。

 だが今日もまた、やめなかった。


 ドアを開けた。


 部屋は綺麗で、空っぽだった。

 週に一度の掃除が行き届いて、埃ひとつない。家具もない。何もない。窓から差し込む街灯の光が、フローリングに四角い影を落としているだけ。


 なのに、この部屋はいつも——暖かいような気がした。


(……誰かが、ここにいた)


 確信に近い何かが胸を掴む。だが記憶がそれを裏付けてくれない。壊れたファイル(データ)を何度開こうとしても、中身は表示されない。


「この部屋の用途は?」


 背後に凛がいた。また足音がなかった。


「……わからない。ずっと空き部屋だ」


「空き部屋に週一回の頻度で清掃を行うのは、合理的とは言えません。あなたの行動パターンから推測すると——」


「わからないって言っただろ」


 遼の声が、少し硬くなった。


「でもなぜか——掃除だけはしてる。捨てられないんだ。この部屋を、空っぽのままにしておけない」


 凛は黙った。

 ただ、その銀色の瞳が——ほんの一瞬だけ——何かを照合するような動きを見せた気がした。データベースを検索するような。あるいは、答えを知っているのに出力をブロックされているような。


 気のせいだろう。

 遼はドアを閉めた。


「お前の寝る場所、作ってやる。布団くらいあるだろ」


「睡眠は不要だと申し上げました」


「壁際に立ったまま朝を迎えるのは、俺の精神衛生上よくない。頼むから横になってくれ」


「……了解しました。横になることで監視効率が低下する責任は、あなたが——」


「取る取る。何でも取るから寝ろ」


 押し入れから布団を引っ張り出す。この家には来客用の布団セットが一組ある。なぜ一人暮らしなのに来客用の布団があるのかは——考えないことにした。


 リビングの隅に布団を敷く。凛は数秒それを見下ろした後、レザージャケットを着たまま、姿勢を正して横たわった。


「……せめてジャケットくらい脱げよ」


「この服装は任務最適化済みです」


「寝る時に最適化された服装じゃないだろ」


「……」


「……」


 沈黙。

 凛はジャケットのファスナーに手をかけ——結局、脱がなかった。

 遼は諦めた。


 自室に戻り、電気を消した。


 暗闇の中で天井を見つめる。

 昨日まで一人だった部屋に、今夜は別の呼吸がある。規則正しく、正確なリズムで。


 ——睡眠は不要だと言った少女が、規則正しい呼吸をしている。

 それが仕様なのかバグなのか、遼はまだわからない。


 目を閉じる。

 明日もバグは出る。明日もこの少女は、きっと壁際に立っている。


 ——まあ、悪くない。


 一人よりは。

 朝霧遼は三年ぶりに、誰かの気配を感じながら眠りに落ちた。



§ § §



 ——報告ログ:Day 2


 対象の行動記録を報告します。


 起床後、対象は前夜のデバッグの代償として朝食の記憶を消失していることが確認されました。消失規模は軽微。日常機能への影響はありません。


 日中、対象は受託案件のプログラミング業務に従事。コードの品質は高水準です。なお、if文のネスト構造に非効率な箇所が散見されましたが、指摘したところ改善されました。


 夕方、自宅周辺にてレベル二のテクスチャ崩壊を検知.対象がデバッグを実施し、私がリストアで事後処理を行いました。連携効率は初回としては許容範囲内です。


 特筆事項。対象の調理技術が異常に高い水準にあります。本日の夕食(豚の生姜焼き、味噌汁、ほうれん草のごま和え)は、データベース上のプロフェッショナル基準に匹敵します。戦闘能力を持つアンカーがこの技術を有している理由は不明です。なお、食事の味は——


 報告に不要なデータが混入しています。削除します。


 異常なし。報告は以上です。


 ——不要データの混入は報告品質の低下を示す。注意せよ。 〈管理局〉

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