王、逃走経路を把握済み
砦の夜は、静かだ。
昼の喧騒が嘘のように、石壁は熱を失い、空気は澄んでいる。
見張りの交代時刻。
足音の間隔。
中庭に落ちる影の角度。
――すべて、把握している。
彼女は、必ず動く。
それが、メイという人だ。
研究室。
窓。
裏階段。
物資搬入口。
治癒魔術師の詰所。
逃げ道になり得る場所は、すでに地図のように頭に刻まれている。
いや、正確には――逃げたいと思う瞬間に目が向く場所、だ。
彼女は理屈よりも直感で動く。
「ここならいけるかも」という、軽い希望を拾う。
だから。
その“かも”を、すべて先回りで潰す。
回廊を進む。
靴音は立てない。
王冠は外している。
王としてではなく、
彼女を失わない男として、今は歩く。
角を曲がると、警備兵が一瞬、緊張する。
「……異常は」
「ありません、殿下」
短い応答。
それで十分だ。
異常が起きる前に、異常を消す。
それが、最も静かな統治。
中庭の縁で立ち止まる。
月光が石畳に落ち、白い線を描く。
――ここ。
彼女が来るなら、ここだ。
夜風に、かすかに薬草の匂いが混じる。
研究室から漂う、馴染みの匂い。
……動いている。
口角が、わずかに上がる。
「やはり」
逃走計画。
未完成。
甘い。
彼女は、自分の身体がまだ不安定だということを、理解している。
だからこそ、自分で何とかしようとする。
その発想自体が、危険だ。
砦の内部を、見えない糸で縫い止める。
合図は出していない。
命令もしていない。
それでも、皆が動く。
それが、王という立場の力だと、
そして――
女神を失いたくないという共通認識だと、分かっている。
足音。
軽い。
慎重。
来た。
柱の影から、白い影が覗く。
寝間着の上に羽織った外套。
髪はまとめきれていない。
――メイ。
胸の奥が、強く鳴った。
だが、足は出ない。
声も出さない。
逃げさせる。
正確には、
「逃げたと思わせる」。
彼女は一歩進み、周囲を確認し、さらに一歩。
その背中は、小さくて、無防備で。
――ああ。
本当に、危なっかしい。
彼女が次に向かう場所は分かっている。
治癒魔術師の詰所。
そこに行けば、薬も、人も、言い訳も揃う。
だから。
その手前で、終わらせる。
影が重なった瞬間、
彼女が気づくより先に、声を落とした。
「……そんなに急いで、どこへ?」
びくり、と肩が跳ねる。
振り返った顔は、
予想通りの表情。
驚き。
焦り。
そして――
ばれた、という顔。
「……っ!」
逃げる、と思った。
だが。
逃げない。
足が止まる。
それも、計算通り。
「散歩ですか」
「ち、違うし!」
即答。
元気。
平常運転。
「研究の……ひらめきが」
「夜中に?」
「夜中が一番冴えるの!」
知っている。
それも。
私は、距離を詰めない。
触れない。
命令しない。
ただ、道を塞ぐ。
月明かりの下で、彼女と向き合う。
「戻りましょう」
静かな声。
「……逃げようとしたわけじゃ」
「分かっています」
嘘だ。
分かっていないふりをしているだけ。
彼女は、視線を逸らす。
考えている。
次の一手を。
――ない。
すでに、すべて潰してある。
彼女が小さく息を吐いた。
「……過保護」
「ええ」
即答。
「貴女に関しては」
それ以上、言わない。
言わなくても、伝わる。
彼女は、肩を落とした。
「……王様ずるい」
「そうでしょう」
私は、初めて一歩近づく。
逃げ道は、ない。
だが、檻ではない。
抱き寄せもしない。
ただ、帰路を示す。
「結婚式まで、あと三日です」
彼女が、ぎょっと目を見開く。
「……カウントしてる!?」
「当然です」
その顔が、
可愛くて、
愛しくて、
逃がせるわけがなくて。
胸の奥で、静かに決意が固まる。
――逃走経路は、把握済み。
――彼女の癖も、希望も、全部。
私は、王だ。
そして。
彼女を失わない男だ。
今夜も、逃走は失敗に終わる。




