王、外堀を埋める
逃走。
その言葉を、俺は頭の中で何度も反芻していた。
研究室の裏。
棚の影。
石壁の継ぎ目。
――逃げ道。
気づいた瞬間、内側で何かが、確実に壊れた。
冷たい。
胸の奥が、凍るように冷えたかと思えば、
次の瞬間、灼けるような熱が一気に噴き上がる。
逃げる?
どこへ?
俺の手の届かない場所へ?
視界に入らない距離へ?
再び、失う可能性のある世界へ?
――ふざけるな。
廊下を歩く。
足音は静かだ。
砦の床石が、規則正しく鳴る。
周囲は、いつも通りだ。
兵は整列し、書記官は書類を運び、
重鎮たちは即位後の議題に頭を悩ませている。
何も変わらない。
変わったのは、俺だけだ。
「……」
息を吐く。
長く、深く。
理性は、まだある。
だからこそ、分かっている。
あれは――危険だ。
逃走を“思いついた”時点で、
彼女はもう、俺の想定の外に足を踏み出している。
恐ろしい。
そして、愛おしい。
同時に、耐えがたい。
失う可能性が、現実として浮上した。
それだけで、
魔力が揺らぎ、
砦が軋み、
世界が一段、壊れかけた。
俺は、立ち止まる。
窓から差し込む光が、床に落ちる。
午後の光。
穏やかで、あまりに平和だ。
――だからこそ、決断は早く。
「婚礼準備を進めろ」
声は、落ち着いていた。
振り向いた側近が、一瞬だけ目を瞬かせる。
「……殿下?」
「正式な手続きを省略するつもりはない」
冷静に、淡々と。
「だが、日程は詰める」
「準備は同時進行で進めろ」
「儀式、衣装、誓約文、すべてだ」
側近は、一拍遅れて、深く頭を下げた。
「……承知しました」
当然だ。
誰も、疑問を挟まない。
なぜなら。
彼女は、すでに――
女神として、王の傍にいる。
即位式で。
王冠を、あの姿勢で。
微笑みながら、ぽすんと。
民は、理解した。
重鎮も、理解した。
両親でさえ、理解した。
理解していないのは、
――本人だけだ。
それが、危うい。
だから、外堀を埋める。
一つずつ。
確実に。
逃走という“可能性”を、消す。
「シルヴァ家との正式な縁組文書は?」
「すでに草案は整っております」
「両親の承認は?」
「暗黙の了解、という形で」
……十分だ。
逃げ場は、もうない。
それでも。
胸の奥が、ざわつく。
思い出すのは、
研究室での彼女の背中。
必死で。
楽しそうで。
逃げ道を作りながら、笑っていた。
――あれが、彼女だ。
救う。
助ける。
作る。
壊す。
詰みかけて、立ち上がる。
だからこそ。
世界から守らなければならない。
俺から、ではない。
世界からだ。
「……急げ」
独り言のように、呟く。
はやく。
はやく。
はやく。
婚礼儀式を。
誓約を。
公の場で。
逃げられない形で。
――俺のものだと、世界に刻む。
廊下の先で、
レオと目が合った。
一瞬。
彼は、何も言わない。
ただ、分かっている目をしている。
……黙認。
それが、どれほど重いか。
俺は視線を外し、歩みを進める。
「逃がさない」
声に出さなくても、
内側で何度も、何度も繰り返す。
狂気だと?
分かっている。
だが。
一度、失いかけた。
二度目は、ない。
俺の、女神様はおかしい。
だから。
王である俺が、
正気のふりをして、
すべてを整える。
外堀は、もう半分埋まった。
――次は、内側だ。




