女神、逃走を試みる
重い。
いや、王冠がじゃない。
状況が。
「……なんでこうなった」
研究室の奥。
薬棚と魔具に囲まれた、私の聖域――だった場所で、
私は机に突っ伏していた。
窓の外から、ざわめきが聞こえる。
シルヴァ家。
両親。
領民。
付き従ってきた人たち。
――全員、ここにいる。
アグナス王国の砦の中に。
それだけでも胃がきゅっとなるのに。
「女神さまー!」
「お姿を一目でも……」
「ありがたや……」
いや違う違う違う。
私は、錬金術師。
ちょっとポーション作るのが得意で。
治験が好きで。
詰みかけるのが日常なだけで。
女神じゃない。
「……完全に詰みルート入ってない?」
机に置いた王冠を、指でつつく。
ぽす。
軽い。
軽いけど、重い。
これを載せたまま即位式に転がって参加したのが、
そもそも間違いだったのでは?
「……反省は後」
私は、顔を上げる。
今は――
逃げる。
小さく、だが確実な反乱。
「……逃走」
声に出した瞬間、
背中を冷たいものが走った。
……待って。
逃走って、どこへ?
ここは砦。
しかも、今。
・王がルイ
・女神扱いが私
・警備が異常
・信仰心が暴走
・両親もいる
・レオがいる
詰みのオンパレード。
「……研究室から出るのもハードル高くない?」
そっと、扉を見る。
外には、常に誰かがいる。
護衛という名の、優しい監視。
しかも、ルイ直下。
「……くっ」
私は、机の下にしゃがみ込む。
思考開始。
逃走条件。
・外に出る
・目立たない
・捕まらない
・怒らせない
・世界を滅ぼさない
最後、重要。
「……無理では?」
顔を上げた瞬間、
窓の外に影が動いた。
見覚えのある姿。
……レオ。
廊下の向こうで、腕を組んで壁にもたれている。
視線は、研究室の扉。
完全に分かってる顔。
「……兄貴ぃ」
心の中で呼んだ瞬間。
レオが、ちらっとこちらを見る。
目が合う。
一瞬。
それから、
ほんの少しだけ、口角が上がった。
やれやれ、って顔。
――あ。
察した。
この人、
黙認してる。
「……よし」
私は、立ち上がる。
逃走ルート、確保。
研究室の裏手。
元々、資材搬入口だった小さな通路。
今は使われていない。
でも、私は知っている。
だって――
作った。
魔具運び用の、非常用抜け道。
自分で自分の首を絞めてきた知識が、
こんなところで役に立つとは。
「……ありがとう過去の私」
小声で礼を言い、
私は棚の裏に手を伸ばす。
魔具を一つ外す。
石壁が、静かに動いた。
「……いける」
胸が高鳴る。
逃げられる。
女神じゃなくて、
錬金術師として息をする時間が、まだ――
「メイ」
背後から、声。
低くて、落ち着いていて。
世界が、止まる。
ゆっくり、振り返る。
そこにいたのは、
王冠を外したルイ。
正装のまま。
一歩も乱れていない。
視線は、逃走ルート。
次に、私。
「……逃走を?」
やさしい声。
なのに、
逃げ道が、消える音がした。
「……えっと」
言い訳、考える。
考えるけど、
思考が追いつかない。
「……研究?」
「ええ」
即答。
「そうでしょうね」
肯定された。
否定されない。
それが、
一番怖い。
「ですが」
ルイは、一歩近づく。
距離が、詰まる。
「今は、外が騒がしすぎます」
「……っ」
「貴女が出れば、跪きが増える」
正論。
「逃走ではなく、延期にしましょう」
延期。
……その言葉で、分かる。
これは、
逃がす気がないやつだ。
私は、思わず呻いた。
「……詰んだ」
ルイは、微笑む。
完璧な王の笑み。
「いいえ」
静かに。
「守られているだけです」
……ああ。
だめだ。
逃走、失敗。
研究室からの小さな反乱は、
静かに、王の掌に収まった。
私は、天井を仰ぐ。
「……女神やめたい」
その呟きは、
ルイにだけ、聞こえた。
彼は、即答しなかった。
ただ。
私の逃走ルートだった扉を、
そっと、閉じただけだった。




