娘の傍へ
砦が見えた瞬間、
イヴは思わず馬車の窓に手をついた。
「……なに、あれ」
声は乾いていた。
石壁。
旗。
門。
それだけなら、ただの要塞だ。
だが――空気が、違う。
静かすぎる。
戦時の砦にあるはずの怒号も、警鐘も、慌ただしい足音もない。
代わりに漂っているのは、整えられた静謐。
まるで――祈りの場。
「戦場……よね?」
誰かが、確かめるように呟く。
アダムは答えない。
馬車の外を見据えたまま、眉間に深い皺を刻んでいた。
門が開く。
重い鉄の音。
きぃ……と低く鳴り、ゆっくりと左右に割れる。
その先に、人がいた。
兵。
騎士。
元奴隷だった者。
治癒魔術師。
民。
老人も、子どもも。
数は分からない。
だが、全員が、こちらを向いている。
息を吸う音が、馬車の中で重なった。
最初に膝をついたのは、
年配の騎士だった。
鎧が石畳に触れる、硬い音。
次の瞬間。
――一斉に、膝が落ちた。
どん、どん、どん。
重なる音。
石に沈む体重。
右手を、胸に。
心臓の上へ。
深く、頭を垂れる。
イヴは、言葉を失った。
「……え?」
完全な――祈りだ。
震える声が、空気を裂く。
「――メイ・シルヴァ様の、ご両親に、最大の敬意を」
別の声。
「女神様の民に、祝福を」
さらに。
「アグナス王国を救った血に、忠誠を」
空気が揺れる。
信仰が、形を持つ。
イヴの喉が、ひくりと鳴った。
「……ちょ、ちょっと待って」
声が裏返る。
「女神? 民? え?」
アダムが、低く息を吐く。
「……戦争は?」
沈黙。
やがて、誰かが静かに、確信を持って答えた。
「――終わりました」
「は?」
「一日で」
世界が止まる。
「……は?」
シルヴァ家の者たちも、同じ顔をしていた。
誰も、理解できない。
だが、跪く背中が、すべてを語っていた。
恐れ。
敬意。
感謝。
そして――信仰。
アダムは、馬車を降りる。
地に足をつけた瞬間、
さらに深く、頭が下がる。
「……娘は」
短い言葉。
返事は、即座だった。
「砦の中に。
ご無事でございます」
安堵が、胸を打つ。
だが、続く言葉が、空気を変える。
「戦争の女神様として」
「殿下を救い」
「我らすべてを、生かしてくださいました」
イヴは、乾いた笑いを漏らした。
「……なにそれ」
額を押さえる。
「……あの子、何したの?」
誰も答えられない。
答えられる者が、いなかった。
ただ、皆が知っている。
――メイ・シルヴァが選んだ。
――ルイ殿下を。
――そして、この国を。
その結果が、今だ。
イヴは、顔を上げる。
平伏する人々。
“女神の家族”として向けられる視線。
息を吸い、
いつもの調子で言った。
「……とりあえず」
周囲が、息を止める。
「娘に会わせてくれる?」
その瞬間、
砦の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
――扉の向こうで、再会が待っている。




