王の焦り
消えた。
そう認識した瞬間、世界が一段、低く沈んだ。
砦の回廊は石造りで、昼なお薄暗い。
高い天井から垂れる燭台の炎が、わずかに揺れている。
風はない。
人の気配も、音も、ない。
――ない、はずなのに。
俺の耳には、血が流れる音だけが響いていた。
「……いない?」
声に出した瞬間、喉がひくりと引き攣る。
足が止まる。
完全に、ぴたりと。
空気が、冷える。
さっきまで人の往来があったはずの回廊が、急に広く感じられた。
壁の距離が、遠い。
天井が、高すぎる。
治癒魔術師が目を離した隙。
俺が国務で席を外した、その間。
それだけだ。
……それだけ、なのに。
腹の奥が、じわりと熱を持つ。
怒りなのか、恐怖なのか、もはや区別がつかない。
逃げた?
――いや。
そんなはずはない。
分かっている。
分かっている、はずだ。
だが、思考が勝手に最悪を拾い上げる。
扉。
開いた痕。
誰かに連れ出された可能性。
視界が、わずかに歪む。
魔力が、揺れた。
石壁の奥で、微かに、軋む音がした。
燭台の炎が、一斉に揺らぐ。
空気が、ざわりと波打つ。
――まずい。
俺は、意識的に息を止める。
肺が軋むほど、深く。
そして、ゆっくり吐いた。
……このままでは。
砦が、飛ぶ。
いや、砦だけでは済まない。
「……落ち着け」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
ただ、そう言わなければ、次に何が起きるか分からなかった。
床に落ちる影を見る。
自分のものだ。
王冠は被っていない。
だが、皆は俺を見る。
王として。
――王が、取り乱してどうする。
理解は、している。
だが、心臓が言うことを聞かない。
彼女が、いない。
その事実だけで、世界が不安定になる。
冷たい石壁に、指先を当てる。
温度を感じない。
それが、余計に現実感を削いだ。
腹の奥から、黒いものが湧き上がる。
名を付けるなら――焦燥。
あるいは、衝動。
壊したい。
探し出したい。
連れ戻したい。
今すぐ。
「……メイ」
名前を呼んだ瞬間、魔力が再び脈打つ。
壁の奥で、空気が鳴った。
まずい。
本当に、まずい。
俺は、目を閉じる。
一拍。
二拍。
数を数え、呼吸を整える。
彼女は、生きている。
ここにいる。
逃げる理由はない。
――それでも。
失いかけた記憶が、骨の内側を引っ掻く。
血に濡れた地面。
動かなくなった身体。
手から、温度が失われた瞬間。
あれを、二度と繰り返すわけにはいかない。
目を開ける。
回廊の先に、人影が見えた。
慌てた足音。
報告役の騎士だ。
「殿下――」
その声が、途中で途切れた。
俺の視界の端。
さらに向こう。
小走りの足音。
軽い、急ぎ足。
……二つ。
息を弾ませながら、こちらへ向かってくる影。
先に見えたのは――
メイだった。
頬が少し紅潮している。
息は切れているが、苦しそうではない。
むしろ、どこか楽しそうだ。
その隣。
肩が近い。
歩調が揃っている。
レオ。
二人で、小走り。
何かを話している。
笑い声が、短く弾けた。
――世界が、止まった。
いや。
止まったのは、俺だけだ。
回廊の空気が、音を取り戻す。
燭台の炎が、元の揺れに戻る。
俺の魔力が、引いた。
一気に。
深く。
報告役の騎士が、言葉を失っている。
理解できないのだろう。
今、何が起きたのか。
メイが、こちらを見た。
目が合う。
「あ」
軽い声。
本当に、軽い。
何事もなかったように。
その一拍で。
もし、あと半歩。
もし、あと一呼吸。
命令は、出ていた。
捜索は、始まっていた。
砦は、動いていた。
誰かが、血を流していた。
その未来が、喉元で消えた。
メイが、駆け寄ってくる。
無防備に。
何も知らないまま。
「兄貴がさ――」
レオが、横で肩を竦める。
やれやれ、と。
それでも、視線は俺から離さない。
分かっている。
――見たな。
俺の、ほんの一瞬の、崩れを。
二人の距離。
近い。
近すぎる。
胸の奥が、疼いた。
だが、それを掴まない。
掴めば、壊れる。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
一度。
二度。
声を整える。
「……戻ったのですね」
王の声。
平静。
メイは首を傾げる。
「うん?」
何も分かっていない。
それでいい。
今は、まだ。
レオと、視線が交わる。
ほんの一瞬。
――理解。
だから、何も言わない。
俺は、ただ立っていた。
動かない。
触れない。
だが、心の奥で。
二度と。
二度と、
この距離を、失わせない。
静かに。
確実に。
王の焦りは、胸の底へ沈められた。
まだ、燃えている。
ルイ・アグナス




