開戦
号令は、静かだった。
だからこそ、重かった。
砦の門が開く音は、獣の顎が軋むようで、
石と鉄が擦れる低音が、腹の底に落ちてくる。
霧が、地を這っていた。
朝靄ではない。
魔力と血の匂いを孕んだ、戦場の気配だ。
――来る。
誰も叫ばない。
誰も祈らない。
生き残る者だけが、前を向いている。
最初に展開されたのは、魔術陣だった。
地面に刻まれた紋様が、淡く、しかし確実に光を放つ。
次の瞬間。
音が、消えた。
爆発ではない。
悲鳴もない。
人が、蒸発した。
一瞬前まで、そこに“いた”はずの兵士たちが、
影ごと、存在ごと、削り取られる。
血も残らない。
肉も、骨も。
ただ、焦げた空気と、焼けた地面だけが残る。
ディバン帝国軍が、動揺する。
当たり前だ。
想定していない。
こんな速度で、こんな規模で、魔術陣が展開されるなど。
だが。
アグナス勢は、止まらない。
少数。
圧倒的に、少数。
それでも、前へ出る。
剣が、振るわれる。
斬撃が、空気を裂く。
首が落ちる。
腕が飛ぶ。
鎧の隙間から、赤が噴き出す。
殺らなければ、殺られる。
それだけの世界だ。
レオが、最前線にいた。
――鬼神。
そう呼ぶしかない。
剣を振るたび、敵が崩れる。
重装兵の盾ごと叩き割り、
魔術師の詠唱を、始まる前に断ち切る。
躊躇はない。
迷いもない。
個人的な怨みが、ほんの少しだけ混じっている。
密輸の件で、命を刈り取られかけた記憶。
あれは、まだ、終わっていない。
「邪魔だ」
低い声。
それだけで、また一人、倒れる。
その横で。
ルイが、嗤っていた。
口角を上げ、
瞳を細め、
楽しそうに。
ディバン帝国。
家族を殺した国。
人として扱わず、物以下に堕とした国。
――容赦など、あるはずがない。
魔術陣が、次々と展開される。
速度が、異常だ。
本来なら、詠唱、調整、休息が必要なはずなのに。
それが、続く。
続いてしまう。
なぜなら。
後方。
ぎりぎりの安全圏。
メイが、いた。
砦に籠らない。
後方支援に徹しながら、
前線の“すぐ後ろ”に立っている。
机もない。
椅子もない。
地面に器具を広げ、
魔具を組み、
ポーションを作り続ける。
手は震えている。
だが、止まらない。
魔力を注ぐ。
瓶に詰める。
次。
また次。
「……次、行けます!」
声は、かすれている。
それでも、前を向く。
ルイが、その声を聞く。
胸の奥が、熱くなる。
――俺の、女神様。
いや。
メイだ。
彼女が微笑んだ。
ほんの一瞬。
戦場の喧騒の中で。
それだけで。
身体が、軽くなる。
魔力が、溢れる。
心が、研ぎ澄まされる。
強化された肉体。
底上げされた魔力。
折れない精神。
全部、彼女がくれた。
だから。
ルイは、嗤う。
「……来い」
魔術陣が、展開される。
敵が、消し飛ぶ。
斬撃が走り、
血が舞い、
叫びが途切れる。
不思議な感覚だった。
戦っているのに、
一人じゃない。
レオも、
ルイも、
メイと一緒に、戦っている。
前線で、
後方で、
それぞれの場所で。
戦場は、地獄だ。
だが。
この地獄で、
生き残る理由が、はっきりしていた。
――守る。
そのためなら、
いくらでも、殺す。
開戦。
もう、後戻りはできない。




