既にそういうもの
砦の朝は、早い。
夜明け前の空気は冷たく、石壁に残る湿り気が靴底に吸いつく。
交代の鐘が鳴り、兵が動き、厨房から湯気が立ち上る。
いつもと変わらない日常。
――ただ、視線の向きだけが、少し違った。
中庭を横切る二人の影。
並んで歩く、その距離。
殿下と、ひとりの女性。
誰かが足を止める。
誰かが息を潜める。
声は上がらない。ざわめきもない。
それが、答えだった。
「……あの方が」
誰かが囁く。
名前は出さない。必要がない。
「殿下のお傍におられる」
その言葉に、否定は混じらない。
疑問も、好奇も、もうない。
視線は、敬意を帯びている。
そして、次第に――忠誠へと変わっていく。
殿下は、穏やかな表情で歩いている。
背筋は伸び、歩幅は一定。
周囲を見渡す目には、焦りも逡巡もない。
その隣を歩く女性は、少しだけ落ち着きがない。
視線があちこちに動き、時折、殿下を見上げては何か言いかけ、飲み込む。
だが、歩調は合っている。
自然に。
まるで、ずっとそうしてきたかのように。
――ああ、と誰かが思う。
もう、決まっているのだ。
殿下が王になる。
それは、遠い未来の話ではない。
砦にいる者たちは、皆、それを理解している。
ならば。
その隣に立つ者は、誰か。
答えは、目の前にある。
兵が、片膝をつく。
遅れて、周囲もそれに倣う。
金属が擦れる音。
布が揺れる音。
整然と揃う、動作。
殿下は足を止めない。
ただ、軽く顎を引き、歩みを続ける。
女性は、一瞬、戸惑ったように足を止めかけた。
だが、殿下が何も言わないのを見て、慌てて並び直す。
その仕草すら、もう――見慣れた光景だった。
「王妃様……になるお方だ」
誰かが、そう言った。
小さな声。
だが、確信に満ちた響き。
否定は、どこからも返らない。
敬意は、殿下へ。
忠誠は、王国へ。
そして、その延長線上に――彼女がいる。
それは、選ばれたからではない。
争った末でもない。
最初から、そこにいた。
その事実を、砦は静かに受け入れ始めていた。
廊下の奥。
石造りの回廊に、二人の影が溶けていく。
殿下は、ふと立ち止まり、隣を見る。
女性に、何か小さく声をかける。
彼女は驚いたように目を瞬かせ、
それから、困ったように笑った。
その表情に、殿下の口元が僅かに緩む。
――ああ。
見てはいけないものを、見てしまった気がした。
だが同時に、これ以上自然な光景もない。
砦は、もう理解している。
殿下が歩む先。
その隣にある影。
敬意と忠誠が、向かう先は――
すでに、ひとつに定まりつつあった。




