理解してしまった者
砦の中庭は、静かだった。
祝意と敬意がひと段落し、人の波が引いたあとの空気は、火の消えた炉のようにぬるく、重い。
石畳に落ちる影。
旗が揺れる音。
遠くで金属が触れ合う、乾いた響き。
少し離れた場所から、俺はそれを見ていた。
ルイが、メイの手を取った瞬間。
そして、ためらいもなく、その手の甲に口付けを落とした瞬間。
騒ぎはなかった。
驚きの声も、制止も、ざわめきすら起きなかった。
ああ、と。
そのとき、ようやく理解した。
――もう、ここでは“当たり前”なのだ。
メイは驚いた顔をした。
ほんの一瞬だけ目を丸くして、それから、困ったように笑った。
「え、ちょ、ちょっと……?」
その声音は、いつもの調子だ。
軽くて、間の抜けた、無防備な声。
何も分かっていない。
いや、正確に言えば――分かっていないままでいることを、誰にも止められていない。
ルイは、顔を上げなかった。
頭を垂れたまま、だが背筋はまっすぐで、指先だけが微かに震えている。
呼吸が、深い。
静かで、規則正しい――けれど、どこか抑えつけたような、獣の前兆を孕んだ呼吸。
あの目だ。
伏せた睫毛の奥。
一瞬だけ、横顔から覗いた瞳。
濁っていた。
いや、違う。
澄み切っているがゆえに、狂っている。
焦点は、ただひとつ。
メイだけ。
周囲の人間も、砦も、旗も、歴史も。
すべてが背景に押しやられている。
彼の世界には、もう――彼女しかいない。
俺は、息を吐いた。
音を立てないように、ゆっくりと。
ここで声をかければ。
ここで茶化せば。
ここで割って入れば。
すべてが壊れる。
壊れるのは、ルイだけじゃない。
メイも、だ。
彼女は今、守られていると思っている。
頼られていると思っている。
支えていると、信じている。
――違う。
もう、とっくに。
支点は彼女だ。
彼女が動けば、世界が動く。
彼女が傷つけば、誰かが血を流す。
それを、彼女だけが知らない。
俺は、笑わなかった。
冗談も言わなかった。
「相変わらずだな」とも、「やれやれだ」とも言わなかった。
ただ、見ていた。
ルイが、ゆっくりと顔を上げる。
その視線が、まっすぐにメイを射抜く。
敬意。
感謝。
忠誠。
――そして、それらすべてを飲み込んだ、飢え。
メイは気づかずに、彼の名を呼ぶ。
「ルイ、ねえ……」
その声を聞いた瞬間、彼の呼吸がほんの僅かに乱れた。
ああ。
決定的だ。
俺は拳を握り、すぐに開いた。
何もしないために。
今は、まだ。
動く時じゃない。
動いた瞬間、俺は“敵”になる。
彼女を守るために動けば、彼女を失う。
――最悪の選択肢だ。
夕暮れの光が、砦の壁を赤く染めていく。
その色は、血の色に似ていた。
俺は目を伏せる。
俺のメイ。
その言葉が、胸の奥で静かに沈んだ。
理解してしまった。
それだけで、今日は十分だった。
レオ




