戻れない位置
砦の中庭は、朝の光で満ちていた。
石畳に反射する白さが、目に眩しい。
人の数も増え、鎧の擦れる音や低い声が、ゆっくりと広がっていく。
今日は、支援物資の引き渡しと状況報告。
ただそれだけのはずだった。
「メイ様」
名前を呼ばれて、振り返る。
砦の責任者と、数名の騎士たち。
深く、丁寧に頭を下げる。
「本日の支援、感謝いたします」
「あなたのおかげで、負傷者の回復が追いついている」
「民の不安も、和らぎました」
言葉は穏やかで、敬意に満ちている。
でも、どこか“決まった文言”のようでもあった。
「いえ。できることをしているだけです」
そう返す。
それ以上でも、それ以下でもない。
視線を上げたとき、気づいた。
――近い。
いつの間にか、ルイが隣に立っていた。
半歩、私の後ろ。
庇う位置でも、主張する位置でもない。
自然すぎて、意識から抜け落ちていた。
報告が続く。
数値。
物資量。
次の補給。
私は頷き、答え、確認する。
いつも通り。
その間、ルイは何も言わない。
ただ、そこにいる。
やがて、話が一区切りついた。
「改めて――」
砦の責任者が、言葉を切る。
「この場を借りて、感謝を示したい」
ざわ、と周囲が静まる。
視線が、一点に集まる。
私、だ。
「……え?」
戸惑いが先に出る。
「形式ばったことは、苦手で」
そう言いかけた瞬間。
ルイが、一歩前に出た。
呼吸が、止まる。
彼は、私の前に立つ。
視線が絡む。
静かで、まっすぐな目。
周囲の音が、遠のいた。
「――」
何か言うのかと思った。
でも、言葉はなかった。
彼は、私の手を取る。
驚く間もない。
拒む暇もない。
そのまま、ゆっくりと――
私の手の甲に、口付けを落とした。
一瞬。
本当に、一瞬。
触れるだけの、浅い接触。
それなのに。
ざわめきが、起きない。
誰も、止めない。
誰も、驚かない。
――ああ。
周囲の空気が、変わった。
理解した、という静けさ。
ルイは、顔を上げる。
私を見る。
その表情に、過剰な感情はない。
誇示も、所有もない。
ただ、最大限に丁寧な――
感謝の所作。
「……?」
何が起きたのか、分からないまま。
周囲を見る。
騎士たちは、静かに頷いている。
砦の責任者は、目を伏せたまま。
誰かが、低く言った。
「なるほど」
その一言で、全てが決まったような気がした。
ルイは、私の手を離す。
元の位置へ、半歩戻る。
いつも通り。
何事もなかったかのように。
「……えっと」
声を出すと、少し震えた。
「続けましょうか」
誰も異論を唱えない。
むしろ、流れが滑らかになる。
私は話を続ける。
数値を確認し、次の工程を示す。
不思議なくらい、スムーズだった。
その間。
レオの視線だけが、痛いほど分かった。
彼は、少し離れた位置に立っている。
腕を組み、表情を動かさない。
でも。
距離を、意識している。
――あ。
初めて、そこに気づいた。
「……終わった?」
声をかけると、レオは肩を竦めた。
「ああ。
滞りなくな」
滞りなく。
その言葉が、妙に重い。
「……さっきのは?」
小さく尋ねる。
レオは、少しだけ目を細めた。
「最大の感謝、ってやつだろ」
「……そうなの?」
「そういうことに、なった」
含みのある言い方。
ルイは、何も言わない。
ただ、いつもの距離で立っている。
私は、深く考えなかった。
礼儀。
文化。
立場。
きっと、そのどれか。
「じゃあ、次は作業に戻ろうかな」
そう言って、歩き出す。
二人が、左右から続く。
自然に。
その並びを、誰も咎めない。
――戻れない位置、なんて。
そんな言葉は、頭に浮かびもしなかった。
ただ。
砦の中で。
人々の前で。
私の“場所”が、
静かに、確定しただけ。




