名を呼ばれる側
最初は、気のせいだと思った。
砦の回廊を歩いていると、遠くから声が聞こえる。
低く、落ち着いた男の声。
少し掠れた女の声。
どれも、知らないはずの人たち。
「……殿下が」
「……戻られたと聞いて」
殿下、という単語が耳に入るたび、なぜか足が止まりそうになる。
でも、私には関係ない。
そう自分に言い聞かせて、歩き続けた。
「メイ様」
呼ばれて、振り返る。
そこにいたのは、見張りの騎士だった。
昨日、ポーションの受け渡しをした相手。
「はい?」
「本日の予定ですが」
「少し調整が入りました」
調整、という言葉が最近やけに多い。
「午後の会談は、こちらで準備いたします。
メイ様は、作業を優先していただければ」
「……いいの?」
「はい。
“あなたが最も価値を発揮できる場所で”」
その言い方に、少しだけ引っかかる。
価値。
発揮。
でも、悪意はない。
むしろ、配慮だ。
「わかりました」
そう答えて、作業室へ向かう。
扉を開けると、薬草の香りが迎えてくれる。
落ち着く。
ここは、私の場所だ。
「お疲れ様です」
ルイが、いつもの位置にいた。
「お疲れ」
短く返す。
机に向かい、瓶を並べる。
手を動かす。
思考が、整っていく。
「……ねえ、ルイ」
不意に声をかける。
「最近さ」
彼の視線が、こちらに向く。
「名前で呼ばれること、増えた気がしない?」
一瞬だけ、ルイの呼吸が止まった。
本当に、一瞬。
「そうでしょうか」
「うん。
メイ様、って」
自分で言って、少しだけ居心地が悪くなる。
「前は、そんなに言われなかったのに」
「立場が変わりましたから」
即答だった。
「立場?」
「支援者として。
錬金術師として」
「……ああ」
納得してしまう。
そういうことか。
「呼び方なんて、どうでもいいけどね」
そう言って笑う。
「慣れないだけ」
ルイは、何も言わない。
ただ、静かに頷く。
「でもさ」
瓶を一つ、手に取る。
「名前って、不思議だよね」
光に透かすと、液体が淡く揺れる。
「呼ばれ方が変わるだけで、
ちょっと距離が変わった気がする」
それは、悪い意味じゃない。
むしろ、丁寧で、安心する。
「大事にされてる、って感じ」
そう口にしてから、ふと気づく。
――あれ。
「……私、守られてる側だったはずだよね」
独り言に近い。
ルイが、少しだけ間を置いて答える。
「今も、そうです」
「だよね」
即座に返す。
「私、前に出るタイプじゃないし」
作業台に向き直る。
考えすぎるのは、よくない。
「……メイ様」
ルイが、私を呼ぶ。
その呼び方に、もう違和感はない。
「なに?」
「無理は、なさらないでください」
「してないよ」
本心だった。
「ちゃんと、自分で選んでる」
そう言い切る。
だって、頼まれているだけ。
必要とされているだけ。
それを断る理由は、ない。
「……そうですね」
ルイの声は、穏やかだった。
私は気づかない。
名前で呼ばれる側になったということは、
もう――
呼ばれる場所が、決まったということだと。
呼び方が定着していくように。
役割も、位置も。
ゆっくり、静かに。
「じゃ、次いくよ」
瓶を並べ直す。
ルイは、変わらない距離で立っている。
今日も、いつも通り。
何も知らないまま。




