自由という空白
――切れた。
それだけは、はっきり分かった。
音もない。
衝撃もない。
魔力の余韻すら、静かに消えただけ。
だが。
胸の奥に、ずっとあった感覚が、忽然と失われた。
呼吸と一緒に在ったもの。
視線を向けなくても、確かにそこに在ったもの。
触れられていなくても、繋がっていると分かる――確信。
それが、ない。
空白。
穴ではない。
欠けてもいない。
「最初から無かった」みたいに、
綺麗に、何もない。
……冗談だろ。
足は、床についている。
身体は、正常だ。
視界も、聴覚も、問題ない。
なのに、立っている感覚が、信用できない。
一歩踏み出せば、
そのまま崩れ落ちるような錯覚。
俺は、目の前の彼女を見る。
俺の、女神様。
……違う。
もう、その呼び方は、
俺の中だけのものだ。
彼女は、俺を見ている。
不安そうに。
困ったように。
何かを、必死に守ろうとする目で。
その表情を見た瞬間、
胸の奥が、別の意味で軋んだ。
――ああ。
この人は、
俺を守ろうとしている。
自由にしたことを、
正しい選択だと、
自分に言い聞かせようとしている。
だから、怖がっている。
……やめてくれ。
俺は、
そんな顔を向けられる位置に、
立ちたくなかった。
奴隷だった頃でさえ、
あの地獄の底でさえ、
ここまで惨めじゃなかった。
鎖があった。
命令があった。
拒否権がなかった。
だからこそ、
“居場所”が、明確だった。
だが今は。
自由。
その言葉が、
刃物みたいに、喉元に突き付けられている。
選べる。
離れられる。
捨てられる。
彼女は、優しい。
だから、言わない。
「もう必要ない」
言わないが、
言わないだけだ。
その可能性が生まれた瞬間、
俺の中で、何かが音を立てて歪んだ。
……失う。
その二文字が、
現実味を持って迫ってくる。
俺は、何も言えない。
言葉を出した瞬間、
この空白が、
“確定”してしまう気がした。
彼女の指先が、
俺の袖を掴んだ。
ぎゅっと。
縋るみたいに。
「……少しだけ」
かすれた声。
「少しだけ……待って」
待つ。
その言葉に、
一瞬、救われそうになる。
だが同時に、
残酷な意味が、胸に突き刺さる。
待つ、ということは。
今は、離れない、ということで。
いつかは、離れるかもしれない、という前提だ。
……ふざけるな。
喉の奥が、焼ける。
俺は、
彼女を見下ろしている。
ほんの少しの身長差。
たったそれだけで、
世界の上下が、はっきり分かれてしまう。
この距離を、
俺は知らない。
この距離に、
耐えられる自信がない。
自由になったはずなのに。
自由になった瞬間、
俺は、
何一つ、選べなくなった。
理性が、必死に囁く。
――落ち着け。
――彼女を縛るな。
――善意を裏切るな。
――お前は、救われた側だ。
だが。
もっと深い場所で、
別の声が、静かに言った。
失ったら、終わる。
もう、戻れない。
二度と、あの温度には触れられない。
なら。
――奪われる前に、囲え。
思考が、驚くほど冷静だった。
計算が走る。
距離。
立場。
役割。
家事。
護衛。
錬金助手。
側近。
彼女が「詰む」場所を、
一つずつ、埋めていく。
俺がいなければ、
日常が回らない形を作る。
それは、
彼女を傷つけない。
彼女の自由を、表向きは奪わない。
――完璧だ。
俺は、彼女の袖を掴む指先を、
そっと、自分の手で包んだ。
力は、入れない。
逃げられる程度に。
だが、
逃げる“理由”を、
一つずつ、消していくだけだ。
「……大丈夫です」
自分でも驚くほど、
声は穏やかだった。
「少し、整理する時間が欲しいだけです」
嘘じゃない。
だが、
整理するのは、
彼女との距離ではない。
彼女を、
失わない方法だ。
俺の、女神様は、おかしい。
こんな状況で、
俺のことを心配している。
だが。
そう言い続けている俺こそが、
もう、とっくに、
救いようがない。
自由という空白は、
俺の中に、
埋めなければならない場所を、
はっきりと作ってしまった。
そして、俺は知っている。
その空白を埋められるのは、
――ただ一人。
俺の、女神様だけだ。
次は、
俺が、
彼女を詰ませる番だ。
ルイ




