名を出すという選択
朝の空気は、少しだけ重かった。
砦の中庭に差し込む光は柔らかいのに、地面に落ちる影がやけに濃い。
石畳の隙間に残った夜露が、靴底で微かに鳴る。
私は歩きながら、自分の手を見下ろしていた。
ポーションを作る手。
素材を量り、魔力を流し、失敗と成功を繰り返してきた手。
いつも通りのはずなのに、今日は落ち着かない。
「……本当に、名前?」
昨夜の話が、頭から離れない。
“名を出す”。
それは支援の条件であり、盾であり、鎖でもある。
応接室に入ると、すでに数人が待っていた。
砦の責任者。
帳簿係。
そして、見覚えのない数名の男たち。
鎧は着ていないが、姿勢と目線で分かる。
元騎士だ。
彼らの視線が、一斉にこちらへ向く。
いや、正確には――私の半歩後ろ。
ルイ。
名も告げられていないのに、彼らは迷わなかった。
視線の角度が、敬意を含んでいる。
深く、静かで、揺れがない。
……やっぱり、ここは彼の場所だ。
「おはようございます、メイ様」
呼ばれて、反射的に背筋が伸びる。
この呼び方にも、もう慣れたはずなのに、どこか居心地が悪い。
席につく。
私は自然と、端を選んでいた。
中心ではなく、横。
でも、その配置すら“気を遣われて”決められているのが分かる。
帳簿が開かれる。
紙の擦れる音。
インクの匂い。
「支援物資の内訳です」
読み上げられる数字。
回復ポーション。
解毒。
栄養補助。
感染症対策。
どれも、私が作れる。
どれも、今すぐ必要とされている。
「供給元として――」
一瞬の間。
「シルヴァ家令嬢、メイ・シルヴァ様のお名前を正式に記載したい」
その瞬間、空気が変わった。
ほんの少し。
でも、確実に。
視線が、私へ集まる。
値踏みではない。
期待でもない。
――確認だ。
この人は、名を背負えるのか。
その覚悟があるのか。
喉が乾く。
唾を飲み込む音が、自分でも聞こえた。
「……噂になりますよね」
言葉を選びながら、そう言う。
「なります」
即答だった。
ためらいがない。
「良い噂も、悪い噂も」
良い噂。
支援者。
救った令嬢。
悪い噂。
政治。
再興。
旗印。
「……」
返事を迷っていると、隣で椅子が小さく鳴った。
ルイだ。
彼はまだ、何も言わない。
ただ、そこにいる。
その沈黙が、逆に重い。
レオが、壁際で腕を組んだまま言った。
「メイ。
今さら匿名は無理だ」
視線が合う。
彼は、いつもの軽さを抑えている。
「もう顔も、腕も、知られてる。
名前だけ伏せるのは、一番危ない」
……分かってる。
頭では。
でも。
「名を出したら、戻れない気がして」
正直な気持ちが、ぽろりと落ちた。
部屋の誰も、否定しなかった。
それが、答えだった。
「戻れません」
砦の責任者が、静かに言う。
「ですが、前に進めます」
前。
その言葉が、妙に遠い。
私は、ルイを見る。
彼は、私を見返さない。
代わりに、床に落ちる光を見つめている。
「……ルイ」
名前を呼ぶと、彼の肩がわずかに動いた。
視線が上がる。
その目は、澄んでいる。
迷いの前の色。
「私、勝手に名前使われるの、嫌なんだけど」
場違いなくらい、素直な言い方だった。
数人が、息を呑む。
「でも」
続ける。
「使わないことで、誰かが死ぬなら……それも嫌」
胸の奥が、きしむ。
これが“選ぶ”ってことか。
「条件がある」
自然と、そう口にしていた。
皆が、身を乗り出す。
「支援はする。
でも、私の名前を使うのは“物資の出所”としてだけ」
帳簿を見る。
「政治的な声明とか、宣伝とか、象徴扱いはしない。
あくまで、現場に届くための名」
沈黙。
短い沈黙。
やがて、頷きが返ってくる。
「了解しました」
……通った。
その瞬間、胸の奥が少し軽くなって、同時に重くなった。
「準備は、今日から始められます」
そう言われて、私は息を吐いた。
「じゃあ……作らなきゃ」
いつもの言葉。
でも、今日は意味が違う。
その日の午後。
砦の外で、荷が動き始めた。
木箱。
布袋。
刻印。
“シルヴァ”。
見慣れたはずの文字が、今日はやけに主張して見える。
「見て」
小声でレオに言う。
「私の名前、歩いてる」
レオが苦笑した。
「噂ってのは、足が早い」
実際、早かった。
荷が出たその日のうちに、周囲の村から人が集まり始める。
「本当に、あのシルヴァ家か?」
「追放されたって聞いたが……」
「生きてたのか」
囁き。
確認。
期待。
私は、距離を取って見ていた。
手は動かしている。
ポーションを詰め、指示を出す。
でも、心が少しだけ、置いていかれている。
「……巻き込まれてる」
小さく呟く。
「最初からだ」
レオの声が返る。
視線を向けると、彼は遠くを見ていた。
人の流れ。
荷の動き。
そして、ルイ。
ルイは、自然に指示を出している。
誰も逆らわない。
むしろ、安心して従っている。
……ああ。
私の名前が、火種なら。
彼は、火そのものだ。
気付いた瞬間、背中に冷たいものが走る。
「噂、もう動いてるよね」
「動いてる」
レオが即答する。
「止まらない」
私は、空を見る。
高い。
逃げ場があるようで、ない。
「……詰んだかも」
呟くと、背後から声がした。
「詰んでいません」
ルイだ。
いつの間にか、すぐ近くにいた。
視線が合う。
「まだ、選べます」
その言葉が、優しいのに、重い。
――もう、完全に外じゃない。
噂は、私を包み始めている。
名を出した瞬間から。
距離は、確実に崩れた。




