巻き込まれるという実感
朝の砦は、冷たい。
石壁に残る夜気が、靴裏からじわりと伝わってくる。
太陽は昇っているのに、温もりはまだ届かない。
この場所は――起きている。
人も、空気も、緊張したまま目を覚ましている。
「こちらへ」
案内役の声は低く、抑えられていた。
丁寧で、よそよそしい。
昨日までの“旅人扱い”とは、明らかに違う。
私はレオとルイの後ろを歩く。
足音が三人分、石畳に重なる。
いつもなら私が先頭か、横だった。
今日は、自然と半歩後ろに下がっている。
……なんで?
自分でも理由が分からないまま、視線だけが前に行く。
ルイの背中。
いつもより、少し遠い。
最初に案内されたのは、砦の外れ。
倉庫群のさらに奥。
風が通らず、空気が重たい。
扉が開いた瞬間、匂いが来た。
汗。
鉄。
薬草の腐りかけた甘苦さ。
それから――人の匂い。
「……」
声が出なかった。
意識より先に、胃が縮む。
中には人がいた。
正確には、“人だったもの”に近い。
痩せすぎた腕。
骨ばった肩。
目だけが、異様に大きく見える。
鎖。
足首。
手首。
「これは……」
言葉が途中で切れる。
説明を聞かなくても分かる。
奴隷。
しかも、管理されていない。
「ディバン帝国の徴税と併せて、労役に回されています」
淡々とした報告。
事実を事実として述べる声。
「納税できない家は、家族単位で“差し出す”形です」
……差し出す。
言葉が、頭の中で転がる。
理解したくなくて、拒否したくて、でも逃げ場がない。
一人の少年が、こちらを見た。
怯えた目。
期待していない目。
――昔、見た。
脳裏に、別の光景が重なる。
泉。
腰布一枚。
血を吐いて、震えていた身体。
ルイ。
無意識に、彼の方を見る。
ルイは、視線を落としていた。
表情はない。
だが、呼吸が浅い。
肩が、ほんのわずかに強張っている。
……知ってる。
これは、彼の世界だ。
次は税の現場だった。
帳簿。
数字。
赤い印。
「昨年比で三割増です」
三割。
簡単に言うけど、それは“生き残れるかどうか”の線。
「払えない者は?」
問いかけたのは、私だった。
自分の声が、少し上ずっている。
案内役が一瞬だけ、間を置いた。
「――先ほどの場所へ」
胃が、きしんだ。
「……そんなの……」
言葉が続かない。
理不尽だ、なんて軽すぎる。
酷い、なんて役に立たない。
数字の向こうに、確実に人がいる。
泣いて、削れて、消えていく人が。
「だから」
低い声が、場を切った。
ルイだ。
皆が、そちらを見る。
一斉に。
視線の集まり方が、異様だった。
「……だから、放置できない」
短い言葉。
即答ではない。
でも、逃げでもない。
その空気に、案内役たちが息を呑む。
レオが、私の横で小さく息を吐いた。
――避けられない。
この人は、もう分かってる。
視察が終わった後。
応接の部屋。
また“綺麗すぎる部屋”だ。
茶が出される。
甘い香り。
さっき見た現実と、あまりにちぐはぐ。
「メイ様」
呼ばれて、肩が跳ねた。
まだ、この呼び方に慣れない。
「……はい」
「ポーションの件ですが」
来た。
分かっていた。
来るとは思っていたけど、やっぱり来た。
「治療、栄養補助、感染症対策。
どれも、この状況では喉から手が出るほど欲しい」
言い方は丁寧。
でも、切実。
「もちろん、対価は用意します」
対価。
お金?
物資?
人手?
「……名を」
その言葉で、背筋が冷えた。
「“シルヴァ家の令嬢が支援している”
それだけで、民の動きが変わります」
――あ。
理解した瞬間、頭が真っ白になる。
私は、旅人じゃない。
無名の錬金術師でもない。
“優秀なシルヴァ家の令嬢”。
その肩書きは、もう捨てたつもりだった。
追放されたから。
生き延びるのに必死だったから。
でも。
ここでは――生きている。
「名を出せば、支援は正当化される。
帝国側も、簡単には手を出せない」
それは、つまり。
守られる代わりに、
引き返せなくなるということ。
「……話が、大きすぎます」
思わず、そう言った。
正直な感想だった。
案内役は、困ったように微笑んだ。
「そうでしょう。
ですが――現実です」
現実。
今日、何度も聞いた言葉。
部屋を出た後、廊下で足が止まる。
呼吸が、うまくできない。
「……私」
声が震える。
「旅して、ポーション作って、生きてただけなのに……」
いつの間にか、こんな場所に立っている。
国。
民。
再興。
「巻き込まれてる……」
呟いた言葉は、誰に向けたものでもない。
レオが、静かに言った。
「違うな」
顔を上げる。
「巻き込まれたんじゃない。
もう“中”だ」
胸が、ぎゅっと締まる。
「……逃げられない?」
問いかけると、レオは少し困った顔をした。
「逃げ道はある。
でも――」
視線が、ルイに向く。
ルイは、少し離れた場所で、外を見ていた。
背筋はまっすぐ。
でも、どこか緊張している。
「……選ばれたくないなら、今だ」
そう言われて、私は思う。
――選ばれたくない。
でも。
さっき見た目。
鎖。
数字。
息を潜める人たち。
そこに、ポーションが届くなら。
私の名前ひとつで、救えるなら。
……それを、無視できる?
答えは、出てしまっている。
「……詰んだ」
小さく呟くと、レオが苦笑した。
「だろうな」
ルイが、こちらを振り返る。
目が合う。
その瞳は、静かで、決意の前の色をしていた。
距離が、また一つ、崩れた音がした。




