選ばれる側の沈黙
砦の夜は、冷えている。
石壁が昼の熱を吐き切り、湿った冷気だけが廊下に残る。
松明の火は小さく、橙の光が床の凹凸を舐めて揺れた。
遠くで鎧の擦れる音。
短い号令。
それらが、薄い布越しに聞こえてくる。
この砦は、まだ眠っていない。
眠れるはずがない。
今日の報告は、火種ではなく、すでに燃えている火そのものだった。
地図に残った赤い印が、瞼の裏に焼きついて離れない。
線ではない。
血管のように、国の中を這っている。
締め付けるための線だ。
奴隷。
重税。
監視。
言葉を聞いただけで、胃の奥が反射的に縮んだ。
俺は、その仕組みを知っている。
知りすぎている。
知らないふりも、できる。
だが。
――知らないふりをした瞬間、民が死ぬ。
その現実が、机の上に置かれた。
丁寧に。
礼儀正しく。
逃げ道を残さない形で。
「殿下」
そう呼ばれた時。
胸の奥が、奇妙に静かになった。
音が消えたのではない。
余計な音を、俺が切り捨てた。
王ではない。
王太子でもない。
だからこそ、俺は“選ばれる側”だった。
選ぶ側ではない。
だが、選ばれる側は、逃げられない。
部屋に戻る途中。
中庭の一角に、露に濡れた花が咲いているのが見えた。
白い花弁。
日中の光を知らないような、薄い色。
風が吹いて、花弁がわずかに震える。
耐えているようにも、祈っているようにも見えた。
俺は足を止め、指先を伸ばし、花弁に触れた。
冷たい。
柔らかい。
力を入れれば簡単に折れる。
折らない。
折る必要がない。
ただ、触れて確かめる。
――生きている。
まだ、ここにある。
その瞬間、背後で靴音が止まった。
気配で分かる。
レオだ。
声をかけてこない。
近づきすぎもしない。
ただ、黙って立つ。
彼の沈黙は、戦場のものだ。
状況が最悪な時にだけ出る種類の静けさ。
俺が花から手を離すと、レオが低く息を吐いた。
「……即答しないのは正しい」
言葉だけ聞けば褒め言葉。
だが、実際は違う。
これは、首を締めるための縄の長さを測っている声だ。
俺は振り返らずに言う。
「正しいかどうかは、まだ分からない」
レオは短く笑った。
「分かってる。
でも“今すぐ旗を上げろ”って言われて上げるやつは、死ぬ」
風がまた吹く。
松明の火が揺れて、影が一瞬長く伸びた。
影の先に、俺の足がある。
その影は、地面に縫い付けられているみたいだった。
「避けられない」
レオが続ける。
「ここまで来たら、もう選択じゃない。
タイミングの問題だ」
俺は、返さなかった。
返したら、肯定になる。
否定はできない。
どちらにも寄れない。
だから、沈黙する。
選ばれる側の沈黙。
部屋に戻ると、空気が違った。
家具は整い、布は新しい。
だが、温度がない。
住むためではなく、迎えるための部屋。
――メイの部屋だ。
扉の前に立つと、微かに香りが漏れてくる。
甘い。
花でも酒でもない。
あの人の肌そのものの匂い。
喉が鳴る。
呼吸が一拍だけ乱れる。
この程度で。
俺は、息を整える。
音を立てないように、指を折りたたむ。
扉をノックする。
コンコン。
中から足音。
絨毯を踏む軽い音。
その後に、布が擦れる気配。
扉が開く。
光がこぼれて、俺の顔を照らした。
暖色。
柔らかい。
砦の冷気と合わないほど、彼女の部屋は“生きている”。
メイがこちらを見上げた。
目が少し赤い。
泣いた痕ではない。
考えすぎて疲れた目だ。
息を吸って、俺は言う。
いつもの癖で「ご主人様」が喉に上がりかけて、飲み込む。
ここでは違う。
呼び方ひとつが、武器になる。
「……メイ様」
彼女の肩が、ぴくりと跳ねた。
その反応が、胸の奥を妙に満たす。
怖がらせたいわけじゃない。
ただ、こちらを見てほしい。
今この瞬間だけでいい。
メイが唇を開く前に、俺は静かに続けた。
「少し、話をさせてください」
彼女は頷き、扉を開けて招き入れる。
暖かい空気が頬を撫で、香りが一段濃くなる。
俺の意識が、危うく“そちら”へ傾く。
――違う。
今夜は、別の話だ。
机の上には、湯気の残る茶。
少し冷めかけた甘い香り。
彼女が飲む前に、落ち着くために置いたのだろう。
メイは椅子に座り、指先を組む。
その動きが無意識に上品で、腹の底が熱くなる。
この人は、もともとこういう場所にいる人間だ。
だからこそ――奪われた。
俺は、対面ではなく、少し斜めに座った。
彼女の視界を塞がない角度。
逃げ道を残す角度。
逃げ道があると思わせる角度。
「……今日の話を聞いて、驚いたでしょう」
メイが目を瞬く。
「驚いたっていうか……
スケールが……」
声が小さい。
言葉が迷子だ。
彼女はまだ“旅”の延長線上に立っている。
国の話を、体が拒否している。
俺は頷いた。
「あなたが悪いわけではありません」
言った瞬間、喉が少し痛む。
言葉は優しいのに、俺の内側では別の音がする。
――悪いわけではない。
だから、守らなければならない。
守るためには、手放せない。
そこまでが、一息で繋がってしまう。
「……俺の身の上を、改めて」
メイの瞳が俺を捉える。
逃げない。
怯えない。
ただ、必死に理解しようとしている。
この真っ直ぐさが、残酷だ。
「俺はアグナス王家の第三王子です。
敗戦後、名を捨てて生き延びた」
彼女の喉が小さく動く。
息を呑んだ。
「ここへ来て、砦の者たちが……俺を認識した。
彼らは、王家に忠誠を誓った者たちです。
散ったように見えて、まだ……残っていた」
メイの指先が、きゅっと握られる。
爪が掌に食い込みそうなくらい。
「……じゃあ、ルイは」
「はい」
俺は、ここで余計なことを言わない。
言えば、彼女は俺を“かわいそうな過去”として扱う。
その扱いは甘い。
甘すぎて、依存が深くなる。
今は、必要ない。
「俺が何者かを、あなたは知らなかった。
それでいい。
あなたは、あなたのまま、俺を救った」
メイの眉が寄る。
「救った……っていうか……
ポーション飲ませただけで……」
言い訳をするような声。
自分の行為が重くなるのを嫌がっている。
俺は首を横に振る。
「あなたは、俺を“人”として扱った。
それが、救いです」
メイの表情が、少し崩れる。
眩しそうに目を細める。
泣きそうな顔だ。
泣くな。
泣かれると、俺はもっと壊れる。
彼女がぎこちなく笑う。
「……王子様に、餌付け……」
そこから、言葉が転げ落ちるように続く。
「王子様に、臨床観察……」
「王子様に、お小遣い……」
「王子様に、頭なでなで……」
そして、とうとう、頭を抱えた。
「詰んだ!!」
声が部屋に響く。
砦の静けさの中で、彼女の声は生き物みたいに跳ねた。
俺は、瞬き一つぶん遅れて、息を吐いた。
笑いそうになる。
笑ってはいけない。
笑うと、彼女はもっと怯える。
メイがうずくまりながら、苦しそうに言う。
「私……王子様に……
何を……」
その問いの答えは簡単だ。
“全部”だ。
命も、名も、未来も、俺の世界の色も。
だが、言わない。
今夜は、決断前夜。
彼女を驚かせて壊す夜じゃない。
俺は、低い声で言う。
「あなたは、何も間違っていません」
メイが顔を上げる。
瞳が濡れている。
泣くな。
泣かれると、俺はもっと――。
「……間違ってないなら、なんでこんなに怖いの」
彼女の声は、震えていた。
俺は、返事をしなかった。
正直に言えば、彼女は逃げる。
嘘をつけば、俺が壊れる。
沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、俺は自分の呼吸を数える。
一つ、二つ、三つ。
彼女の呼吸も聞こえる。
浅い。
早い。
俺は、椅子の背に指をかけ、ゆっくり立ち上がった。
床板が、かすかに鳴る。
その音で、彼女の肩がまた跳ねる。
「……メイ様」
呼び方が喉に引っかかる。
本当は、もっと近い言葉が欲しい。
だが、ここでは違う。
ここでは、この言葉が彼女を守る。
「明日、俺は答えを出します」
メイの瞳が揺れる。
怖がっている。
それは、国の話だけじゃない。
俺の中で何かが変わったのを、無意識に嗅ぎ取っている。
俺は続ける。
「ですが、今夜は――休んでください。
あなたが倒れたら、意味がない」
言い終えた瞬間、
胸の奥で別の声が囁く。
――あなたが消えたら、終わる。
それを顔には出さない。
出せない。
出せば、今夜が終わる。
メイが小さく頷く。
「……うん」
その返事が、あまりにも弱くて。
俺の中で、何かが締まる。
扉へ向かう。
開ける前に、ほんの一瞬だけ振り返る。
メイは、椅子に座ったまま、
自分の指先を見つめていた。
祈るように。
縋るように。
――選ばれる側は、逃げられない。
だが。
選ばれる側が選ぶものは、ひとつだけだ。
守る。
失わない。
二度と、あの地面に戻らない。
扉を閉める。
廊下の冷気が頬を刺し、
遠くの足音が現実を連れてくる。
俺は歩く。
ゆっくりと。
音を殺しながら。
この砦の石は、俺の足音を覚えている。
人々の沈黙は、俺を待っている。
――そして明日、俺は選ばれる。
選ばれる側の沈黙は、
今夜で終わる。




