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元奴隷から愛される異世界生活。  作者: ChaCha


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アグナスという名

夜の砦は、静かだった。


昼間、あれほど人の気配に満ちていた回廊も、

今は松明の火が低く揺れるだけで、

足音ひとつしない。


石壁に触れると、ひんやりとした感触が掌に残る。

この冷たさは、嫌いじゃない。

現実を、思考を、研ぎ澄ませてくれる。


王ではなかった。

王太子でもなかった。


だから、生き残った。


兄は前に出過ぎた。

父は象徴だった。

母は、王妃という名の標的だった。


俺は三番目。

常に少し後ろ。

視線の外。

――影だ。


影は、斬られにくい。


結果として、

俺しか残らなかった。


それを理解した瞬間、胸の奥に落ちた感情は、

悲嘆でも、怒りでもなかった。


納得だった。


砦の中庭に咲く、名も知らぬ花。

夜露を含んで、淡く白い。


俺はその花弁に、指先をそわせる。


柔らかい。

簡単に、千切れてしまいそうなほど。


――ああ。


この国も、

この王家も、

同じだったのかもしれない。


簡単に壊れるものを、

守りきれるほど、誰も強くなかった。


だから――

女神様が、必要だった。


奴隷市場の地面。

鉄と血と汗の臭い。

人の目ではなく、商品を見る視線。


あの場所で、

俺は人ではなかった。


そこへ、

何の躊躇もなく踏み込んできた女。


値段を聞き、

「じゃあ、この子で」と言った。


その声音が、世界を変えた。


治療も、食事も、

頭を撫でる指も。


すべてが、自然だった。


「大丈夫よ」

「良い子ね」

「ちゃんと食べなさい」


――人に向ける言葉だった。


人として扱われると、

人は、ここまで壊れる。


ふ、と口角が上がる。



身分が戻れば。

名が戻れば。


俺は、彼女を抱いても許される。


論理だ。

感情ではない。


王家を救った女。

再興の象徴。

俺を“人”に戻した存在。


誰が否定する?

誰が止める?


――いない。


嗤う。


喉の奥で、音にならない笑いが転がる。


俺の女神様は、

まだ気づいていない。


逃げ道があると思っている。

選べると思っている。


だが、もう。

彼女が踏み入れた場所は、

選択肢が削られていく場所だ。


ここは、俺の場所。


砦の空気は、俺を拒まない。

壁も、兵も、歴史も、

すべてが「戻ってきた」と告げている。


なら、

彼女を離す理由はどこにある?


ない。


離れることなんて、

これっぽっちも、前提にない。


俺は花弁を指でなぞり、

ゆっくりと引き寄せる。


力を入れれば、簡単に折れる。

だが、折らない。


折る必要がない。


囲えばいい。


優しく。

丁寧に。

誰にも文句を言わせない形で。


女神様が笑っている間に。

安心して眠っている間に。


視界の端で、

水面に映った自分の瞳を見る。


――濁っている。


かつての王子の色ではない。

だが、悪くない。


これは、

失わないための色だ。


アグナスという名は、

俺を縛る鎖じゃない。


これは、

彼女を逃がさないための、鍵だ。


守る。

そう、守るだけだ。


そのためなら、

何もかも、正しい。


俺の、女神様は――

もう、ここから出られない。


出る必要も、

出たい理由も、

これから、すべて消していく。


夜の砦は、静かだ。


その静けさの中で、

俺は、確かに――嗤っていた。




ルイ・アグナス

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