名を呼ぶ者たち
扉が閉まった瞬間、
部屋の空気が、ゆっくりと沈んだ。
石造りの壁。
簡素だが無駄のない調度。
砦の中心に据えられた執務室。
中央の机の向こうに立つ男は、
年の頃は五十を少し越えたあたりだろうか。
白髪混じりの短髪、鍛えられた体躯。
軍人の姿勢が、骨にまで染みついている。
男は、私――ではなく。
迷いなく、ルイを見ていた。
視線が合った、その瞬間。
男の呼吸が、止まった。
ほんの一拍。
次の瞬間、彼は一歩、前に出る。
「……」
言葉を探すように唇が動き、
その声は、震えていた。
「……お、生き……」
喉が詰まったように言葉が切れ、
男は、深く息を吸い直す。
そして。
「――ルイ・アグナス殿下」
部屋の中の空気が、凍りついた。
私の脳内で、何かが弾ける。
(……え?)
殿下?
でん、か?
隣を見ると、
レオの表情が完全に固まっていた。
――察した顔だ。
その一言を合図にしたかのように、
部屋の外から足音が連なって響く。
扉が開かれ、
数名の人間が静かに入室してくる。
騎士の装い。
だが、どこか古い意匠。
貴族風の服装。
だが、華美ではなく、実務向き。
彼らは、
一斉に、ルイを見た。
そして。
――膝をつこうとした。
「待て」
低く、しかしはっきりとした声が落ちる。
ルイだった。
「やめてくれ」
静かな制止。
だが、そこには揺るぎがなかった。
膝を折りかけていた男たちが、
驚いたように動きを止める。
「……私は、まだ」
そう言いかけて、
ルイは一度、言葉を切った。
視線を伏せ、
次に顔を上げたとき。
その瞳は、
私が見慣れた“従者のもの”ではなかった。
「――今は、立って話してほしい」
空気が、変わった。
絶望で濁っていた砦の時間が、
音もなく、塗り替えられていく。
誰かが、堪えきれずに息を漏らす。
別の誰かは、
目元を押さえ、俯いた。
肩が、小さく震えている。
「……殿下」
掠れた声で呼んだのは、
壮年の騎士だった。
「我らは……我らは、ずっと……」
言葉が、続かない。
彼は、歯を食いしばり、
それでも声を振り絞る。
「……生きていてくださった……」
その一言で、
堰が切れた。
砦に詰めていた空気が、
一気に解ける。
静かに、
しかし確かに。
涙を流す者がいた。
嗚咽を噛み殺す者がいた。
拳を胸に当て、深く頭を下げる者もいる。
ここは、
彼らの場所だった。
そして――
ルイは、
その中心に、最初から立つべき存在だった。
私は、完全に置いていかれていた。
(……え?
え?
なに、これ……)
視線を彷徨わせる私に、
その騎士が、ようやく気づいたように顔を向ける。
一瞬、驚いたような表情。
次の瞬間、
彼は背筋を正し、深く頭を下げた。
「……シルヴァ家のご令嬢、メイ様」
その呼び方に、
私は思わず、びくっと肩を揺らした。
メイ、様?
隣で、ルイがわずかに息を吸う。
そして、
私を呼んだ。
「……メイ様」
声は、いつもより低く。
丁寧で、距離があった。
「……少し、お時間をいただけますか」
胸の奥が、きゅっと縮む。
――いつもの「ご主人様」じゃない。
初めて聞く呼び方。
その違和感が、はっきりとした形を持って、刺さる。
(……あ、これ……)
プライド。
立場。
そして、彼自身の線引き。
ルイは、ここで“元に戻っている”。
レオが、静かに息を吐いた。
理解した顔だ。
私だけが、
遅れて、ようやく。
(……ここ、
ルイの……国……?)
砦の責任者――
名を、オルティス卿というらしい――が、
一歩、前に出る。
「殿下。
そして、メイ様。
どうか、こちらへ」
案内された先は、
驚くほど整えられた客室だった。
柔らかな絨毯。
清潔な寝具。
窓から差し込む光。
――気づいたら、
私は、綺麗な部屋に立っていた。
状況が、飲み込めない。
荷物が運び込まれ、
人の気配が遠のく。
扉が閉まる。
その静けさの中で。
「……メイ様」
背後から、
ルイの声がした。
びくっと、身体が跳ねる。
振り返った先で、
彼は、静かに立っていた。
その瞳は、
確かに言っていた。
――ここは、俺の場所だ。
そして同時に、
この先へ進めば、
もう、戻れないのだと。
私は、まだ。
その意味を、完全には理解していなかった。




