眠るご主人様と、俺。
……眠っている。
この状況で。
それが、どれほど異常なことか。
穴の底。
土の匂い。
湿った空気。
頭上は遠く、
夜は完全に降りきっている。
横穴がある。
魔物が掘ったものだと、分かっている。
安全ではない。
決して。
それでも。
彼女は、眠っている。
敷物の上で。
柔らかな灯りに照らされて。
呼吸は穏やかで、乱れがない。
胸が、ゆっくりと上下している。
その光景を前にして。
俺の心臓は、今にも破裂しそうだった。
――失えば、終わる。
考えるまでもない。
俺は、
この人を失った瞬間に、終わる。
名前も。
立場も。
生きている意味も。
再び、
人以下に戻る。
だから、視線を外せない。
闇は、静かだ。
静かすぎて、余計に恐ろしい。
音がない。
動きがない。
だからこそ、
わずかな異変が、致命的になる。
俺は、彼女を背に庇うように腰を落とす。
剣は、いつでも抜ける位置に。
魔術陣は、常に思考の裏で展開している。
眠る彼女の気配だけが、
この世界を現実につなぎ止めている。
……美しい。
不謹慎だと分かっていても、
そう思ってしまう。
暗闇の中で。
彼女だけが、光を帯びているように見える。
肌。
髪。
睫毛。
近い。
近すぎて、
触れれば壊れてしまいそうで。
それでも。
触れたい、とは思わない。
ただ、
ここに在ってほしい。
それだけだ。
俺の女神様は、おかしい。
この状況で。
この閉じた場所で。
安心しきって、眠っている。
……だが。
そう思っている俺の方が、
よほど、おかしい。
世界が、二人きりになったことを。
俺は、どこかで喜んでいる。
誰も来ない。
誰も奪えない。
この穴は、
外界から切り離された場所だ。
失ったら終わる。
だから、守る。
その理屈は、
あまりにも単純で、
あまりにも明確だ。
倫理など、
とうに意味を失っている。
俺は、王子だった。
学びがあり、
言葉を選ぶことを知っている。
それでも。
この胸の奥にあるものは、
礼節では抑えられない。
彼女が目を覚ました時。
同じ朝を迎えられるなら。
それで、いい。
俺の女神様は、おかしい。
だが。
そう言い続けている俺こそが、
壊れている。
この閉ざされた夜の中で。
俺は、生きている。
それを、
初めて、確かに感じている。
眠れない。
眠るつもりもない。
夜が明けるまで。
彼女が、目を覚ますまで。
俺は、ここにいる。
失わせない。
それだけは、
決して、譲らない。




