蒸発した帝国
アグナス王国の一部となって、どれほどの時が経ったのか。
正確な日付を思い出せない。
いや――
思い出そうとする者が、もういない。
「蒸発した」
各国がそう囁いた言葉は、比喩ではなかった。
軍は解体され、
王宮は接収され、
法も、貨幣も、国名も、静かに書き換えられた。
焼かれたわけではない。
破壊されたわけでもない。
ただ、残らなかった。
存在していた痕跡が、
雪解け水のように、世界から消えただけだ。
我々は今、
アグナス王国の属州として生きている。
その事実に、
怒りよりも先に来た感情は――
安堵、だった。
「……女神さまが、お見えになるそうだ」
その一報が流れた時、
誰もが息を呑んだ。
敗者の我々に、
神が?
裁きを下しに来るのか?
だが――。
王宮の回廊に現れたその方は、
想像していたどんな存在とも違った。
「……お疲れさまです」
そう、気さくに声をかけられた。
目の下に、濃い隈を作った我々を見て、
眉を下げて、心配そうに。
「ちゃんと、眠れてますか?」
その瞬間。
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
香りが、広がる。
甘やかで、やわらかく、
それでいて、深く呼吸ができる匂い。
光が、淡く揺らめく。
責めるためではなく、
裁くためでもなく。
ただ――
包むための光。
「あ……」
誰かが、小さく声を漏らした。
罪を重ねたはずの我々を、
この方は、責めなかった。
過去の過ちを、
言葉にもしなかった。
「これから、大変ですよね」
それだけを、言った。
その一言で、
何人もの膝が、崩れ落ちた。
この方に。
この尊きお方に。
尽くす以外に、
我々が生き残る道はない。
そう、全員が理解した。
ディバン帝国は、
女神さまに許されたのではない。
――救われたのだ。
「……王家の血筋は」
誰かが、恐る恐る口にした。
「今も……ルイ陛下が、管理されているそうです」
“管理”。
その言葉の重さに、
誰もが沈黙する。
飼っている――
そう表現されるほどの扱いを、
我らは、当然だと理解していた。
助けに向かうべきだろうか?
一瞬、そう考えた者もいた。
だが。
思い出す。
蒸発した帝国。
逆らうという選択肢が、最初から存在しなかったことを。
そして、女神さまの隣に立つ――
王の存在を。
あの魔力圧。
世界を押さえつける、静かな破壊。
あれは、
救済と破壊が同時に存在する王だ。
「……いや」
誰かが、首を振った。
「我々は、生きている」
それが、答えだった。
罰は、もう受けた。
それ以上を望む権利は、ない。
ならば。
この国の一部として、
この女神と王に、忠誠を捧げる。
それが、
蒸発した帝国に残された、唯一の未来だった。
ディバンの生き残り




