名を呼ぶという行為
朝は、静かに始まった。
森の朝は、街よりも音が多い。
鳥の声。
葉の擦れる音。
泉の水音。
目を覚ました瞬間、俺はまず確認した。
……生きている。
次に、視線を動かす。
いた。
女神様――いや。
俺の、ご主人様。
火の前で、鍋を見ている。
背中が、まっすぐだ。
何度見ても、綺麗だと思う。
俺は、反射的に地面に膝をついた。
身体が、勝手にそう動く。
考える前に、そうしなければならないと知っている。
「……おはよう」
声がした。
穏やかな声。
「おはよう、ルイ」
……名前。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
名前を、呼ばれた。
俺は、答えようとして。
言葉が、喉に引っかかった。
「…………」
何て呼べばいい。
分からない。
今まで、俺が口にしてきた呼び方は、ひとつしかない。
それは、安全で。
間違えようがなくて。
逆らわない証明になる言葉。
「……ご主人様」
口にした瞬間、
胸の奥が、ひやりと冷えた。
この人は、一瞬だけ瞬きをした。
そして、いつも通りに笑った。
「はいはい。
でも、朝ごはん出来るまで、もう少し待ってね」
否定しない。
怒らない。
直させようともしない。
……普通だ。
それが、余計に分からなかった。
俺は、捨てられないために生きてきた。
価値がなくなったら、終わり。
役に立たなくなったら、捨てられる。
だから、頑張る。
必死に。
全力で。
水を汲む。
薪を集める。
鍋を見張る。
指示される前に、動く。
全部、
全部、
捨てられないため。
「ルイ、ありがとう。
助かるわ」
また、名前。
そのたびに、
胸の奥が、温かくなる。
不思議だった。
名前を呼ばれるだけで、
ここにいていい、と言われている気がする。
……いや。
言われている。
俺は、ここにいる。
役に立っている。
捨てられていない。
それだけで、
呼吸が、少し楽になる。
一方で。
この人は、変わらない。
仕えられることに、慣れている。
誰かが先回りして動くこと。
世話を焼かれること。
それが、当たり前の日常。
俺が尽くすことも。
俺が従うことも。
この人にとっては、特別じゃない。
「ルイ、そっち置いておいて。
あとで使うから」
「……はい」
返事をするたび、
胸の奥で、何かが確かに積み上がっていく。
この人のために、
俺は頑張る。
この人がいなくなったら、
俺は、もう生きられない。
だから。
だからこそ。
名前を呼ばれるたびに、
俺は、強くなる。
そして、
その強さは――
この人にしか、向かない。
俺はまだ、気づいていない。
これは忠誠でも、感謝でもない。
ただ、
生存を賭けた、執着の始まりだということに。
今日も、
女神様は、俺の名前を呼ぶ。
それだけで、
俺は、生きていける。




