私が呼ばれた
広間の空気が、ぴんと張りつめたまま、わずかに揺れた。
式典は、滞りなく進んでいた。
音楽は荘厳で、言葉は整い、視線はすべて、中央へと集められている。
進行役の声が、よく通る。
「――続いて、王妃……」
その言葉のあと。
ほんの、ほんの一拍。
呼吸ひとつ分の、短い沈黙が落ちた。
その瞬間。
ミアは、胸の奥が跳ねるのを感じた。
(……あ)
来た。
これだ。
「……あっ!」
思わず、声が出た。
次の瞬間、身体が勝手に動いていた。
スクッと立ち上がる。
ためらいはない。
迷いもない。
だって、そうでしょう?
(私の出番じゃない)
そう思うのは、あまりにも自然だった。
ミアは軽やかに一歩踏み出し、
そのまま――何の疑問も持たずに、アグナス王の隣へと進んだ。
そして、にこやかに。
招かれた人々へ向かって、手を振る。
にっこり。
いつもの、愛想のいい笑顔で。
……なのに。
何かが、おかしい。
空気が、動かない。
拍手もない。
ざわめきも、囁きもない。
まるで、時間が止まったみたいに、
誰もが、今起きたことを理解しようとして――理解できずにいる。
(……あれ?)
ミアは、首をかしげかけて、視界の端で“それ”を見た。
女神席。
そこに座る、金色の存在。
淡く、しかし確かに煌めく光に包まれた女が、
まるで彫像みたいに、ぴたりと固まっている。
(……え)
胸の奥に、ちくりとした違和感が走る。
その瞬間だった。
視界のさらに端。
一瞬の動き。
――王室護衛総監が、
ミアが立ち上がった“その瞬間”に、
すでに女神席の前へと身体を滑らせていた。
剣に手はかけていない。
だが、姿勢は完全に“護る側”。
一歩。
ほんの半歩。
それだけで、明確に示される距離。
(……え?)
背筋に、冷たいものが走る。
そのとき。
後方の席から、突き刺さるような視線を感じた。
振り返る。
エリックだった。
信じられないものを見る目。
困惑でも、驚愕でもない。
――理解不能。
そう書いてあるみたいな、顔。
(なに、その顔)
ミアは、内心で舌打ちした。
(ごめんね、エリック)
心の中で、軽く肩をすくめる。
(私は“次”の番だから)
(今回の主役、私なの)
(あなたは、もうクリア済み)
胸の内でそう整理すると、
ミアは、再び前を向いた。
――アグナス王。
間近で見るその姿に、
思考が、一瞬で吹き飛ぶ。
(……え)
息が止まった。
黒髪。
整った輪郭。
静かに佇むだけで、周囲の空気を支配する存在感。
何より。
目。
見下ろしてくるその視線に、
ぞくりと、胸が震えた。
(……なに、これ)
(めちゃくちゃ……好み)
心臓が、どくん、と鳴る。
(ビジュ……完璧すぎない?)
(作り手、本気すぎでしょ……)
思わず、ぼうっと見とれてしまう。
周囲のざわめきが、ようやく戻りかける中、
ミアだけが、その場に立ち尽くしていた。
その一瞬の隙を、護衛たちは見逃さなかった。
「――!」
気配が、一斉に動く。
遅れて、ミアは気づく。
(……え?)
護衛が展開している。
自分の、すぐ背後に。
まるで、
“そこに立つこと自体が想定外だった”かのように。
(……あれ?)
そのとき。
アグナス王――ルイが、ミアを見た。
真正面から。
視線が、絡む。
一瞬。
ほんの一瞬。
ルイの口元が、わずかに――笑った。
それは、社交の微笑みとは違う。
敵意でも、驚きでもない。
ただ、静かで、温度のない笑み。
ミアの胸が、きゅん、と跳ねた。
(……なに、この人)
(やば)
(めちゃくちゃ、タイプ……)
その瞬間。
広間の空気が、再び、凍った。
誰も、動けない。
誰も、声を出せない。
“何が起きたのか”を、
全員が、まだ理解できずにいる。
そして。
女神席の女だけが、
凍りついたまま――
一歩も動けずにいた。
その沈黙が、
これから起きる“本当の混乱”の、始まりだった。
ヒロイン・ミア




