女神、姿を現す
最初に変わったのは、音だった。
ざわめいていたはずの大広間が、
誰かが息を吸う音すら憚られるほど、
一瞬で静まり返った。
重厚な扉が、ゆっくりと開く。
きい、と低く擦れる音が響いた、その直後。
――光が、落ちた。
眩しい、というほど強いわけではない。
だが確かに、そこだけが、この世界の光源になった。
人々は、言葉を失う。
息を、忘れる。
「……いる」
誰かが、思わず呟いた。
それは感嘆でも、疑問でもなく、
確認に近い声音だった。
本当に。
存在している。
神話でも、噂でも、誇張でもない。
そこに――女神が、降り立っている。
歩みは静か。
足音は、ほとんどしない。
それなのに、
一歩進むたび、空気が押し広げられる。
金色の髪が、光を含んで揺れる。
一本一本が、まるで意志を持つかのように、柔らかく輝く。
睫毛が伏せられるたび、
その影すら、淡くきらめいた。
碧の瞳が前を向く。
その瞬間、視線を受け止めた者は、
自分が見られているのか、
それとも選別されているのか、分からなくなる。
肌から、香りが広がる。
甘やかで、
やわらかく、
吸い寄せられるような心地。
香水ではない。
花でも、薬草でもない。
「……呼吸が、楽になる」
そう漏らした者もいた。
別の者は、
胸の奥が温かくなるのを感じ、
理由もなく、膝を折りそうになる。
美しさ、という言葉では、足りなかった。
整った容姿。
均整の取れた肢体。
それらは確かに、目を奪う。
だがそれ以上に、
存在感が、すべてを圧倒していた。
そこに“在る”だけで、
周囲の価値基準が塗り替えられていく。
――比べる、という発想自体が、消える。
誰かが、無意識に一歩、前に出た。
近づきたい。
触れたい。
確かめたい。
その衝動が、理性より先に、身体を動かした。
次の瞬間。
がしゃ、と金属が鳴る。
騎士たちが、即座に動いた。
半歩前に出て、構え、進路を遮る。
空気が、ぴんと張り詰める。
「下がれ」
低い声。
同時に、別の圧が走った。
レオが、視線だけで睨みを利かせる。
声は出さない。
だが、その眼差しは明確だった。
――それ以上、近づくな。
騎士も、貴族も、使節も、
本能的に理解する。
この存在に、無遠慮に触れてはならない。
内心は、騒然としていた。
(女神だ)
(本物だ)
(聞いていた話より、はるかに)
(……これは、別格だ)
一方で。
少し離れた場所にいた少女は、
その光の中心に立つ存在を見上げ、
無意識に唇を歪めた。
(……なに、あれ)
胸の奥に、ちくりとした違和感。
だがすぐに、打ち消す。
(きっと、演出よ)
(そうに決まってる)
自分は、主役だ。
そうでなければ、おかしい。
――だが。
誰の視線も、
誰の期待も、
すでにそこには向いていなかった。
女神が、ゆっくりと歩を進める。
用意された席は、最前列。
最も高く、
最もよく見える場所。
そこに座るための席。
人々は、無意識に道を開ける。
頭を下げる者。
胸に手を当てる者。
祈りの姿勢を取る者。
誰かがそうしろと命じたわけではない。
ただ、
そうせずにはいられなかった。
この瞬間。
この大広間の空気は、完全に反転した。
式典の主役は、王ではない。
国でもない。
――女神が、そこにいる。
それだけで、十分だった。




