「なぜ、呼ばれた?」
ハーバル王国視点:王宮
王宮の回廊は、冬の終わりみたいに冷えていた。
磨かれた大理石が足音を返し、窓の外の庭園は、春の花が咲くにはまだ遠い色をしている。
なのに。
空気だけが、妙にざわついていた。
――理由は一つ。
「アグナス王国より、正式な招待状が届きました」
伝令の声が、玉座の間の天井に吸われるように響く。
その手の中にある封書は、やけに小さいのに、部屋の全員の喉を締めつけた。
王は黙ったまま、顎に指を当てている。
貴族たちも、目だけで互いを探り合っていた。
誰かが、乾いた声で言う。
「……アグナスは、滅びたはずです」
それは、ここでは常識だった。
旧アグナス王国は敗北し、ディバン帝国の影に踏み潰され、残党が何をしようと――歴史の中に沈んだ。
沈んだはずだった。
だが、その“はず”を、今この封書が踏みにじっている。
封蝋に刻まれた紋章。
紙の質。
文字の整い方。
香の残り方。
どれも、“国家”のものだった。
しかも、腹を決めた強国のそれだ。
王が、封を切らずに問う。
「……どこから来た」
「旧アグナス領、シュタット砦より。外交使節が整った手順で――正式に」
玉座の間の空気が、さらに冷える。
整った手順。正式。
つまり、こちらが「偽物だ」と笑って捨てれば、その瞬間に“恥”が自国に戻ってくる。
王が封を切る。
紙が擦れる音が、やけに大きい。
読み上げの役目を与えられたのは、宰相だった。
白髪の男は、ほんのわずかに唇を湿らせてから、文面をなぞる。
「即位後、初となる大式典」
「シルヴァ家 公爵家叙任の儀」
「王妃正式披露」
――王妃。
その単語が出た瞬間、エリックの背中に、冷たいものが落ちた。
王妃?
アグナスの王妃?
誰が?
いや。誰、ではない。
“誰かが”すでに据えられている。
そして、その披露を、世界へ向けて行う。
宰相が淡々と続ける。
「我が国の王族の臨席を、心より歓迎する」
歓迎。
礼儀。
完璧な言葉の衣。
――拒否権がない。
それを理解したのは、玉座の間の全員だった。
エリックの胸の内側が、じわりとざわついた。
理由のない不快感。
理由のない焦り。
喉の奥に、小さな棘が刺さったみたいな感覚。
アグナスは滅びたはずだ。
ディバン帝国の軍は、あの土地を掌握していたはずだ。
だが。
最近、噛み合わない報せが増えていた。
「……ディバンの主力が消えた、という噂は」
誰かが言いかける。
そして、口をつぐむ。
“噂”という言葉を使うしかない現状が、すでに不気味だった。
商人たちは妙に敏い。
戦争の匂いよりも早く、金の流れで未来を嗅ぐ。
ここ数日、北方の交易路が妙に静かだ。
逆に、旧アグナス方面へ向かう物資の動きが増えた――という報告もある。
「国境の町で、人が減っていると聞きます」
「移住……ですか?」
「……ありえません。アグナスは滅びたはず」
ありえない。
ありえない。
そう言い聞かせるように繰り返される言葉が、むしろ現実を不安にした。
王が、低く言う。
「不参加は?」
玉座の間が一瞬、無音になった。
誰もが同じ結論に辿り着いているのに、口に出すのが怖い。
宰相が、喉を鳴らして言った。
「……国際的自殺に等しいでしょう」
その言い方は、丁寧なのに容赦がなかった。
即位後初の大式典。
公爵家叙任。
王妃披露。
世界が注目する席で“欠席”を選ぶことは、外交から退場するに等しい。
つまり――
この招待状は、祝祭の皮を被った宣言だった。
“我々はここにいる”
“そして、もう戻らない”
エリックの手が、無意識に握られていた。
指先が白くなる。
――なぜ、呼ばれた?
歓迎?
礼儀?
笑える。
そんなものを信じるほど、王宮は甘くない。
呼ぶには意味がある。
呼ばれるには理由がある。
そして、理由の中心に立つのは、大抵――捨てた側だ。
エリックの胸が、さらにざわつく。
熱ではない。寒い。
腹の奥が、重く沈む。
その時、甲高い声が、空気を割った。
「ねえ、すごいじゃない!」
ミアだった。
淡い桃色の髪を揺らし、瞳をきらきらさせている。
場の空気が凍っているのに、彼女だけは春の陽気みたいに明るい。
「式典でしょう? 王妃披露でしょう? つまり、目立つ場でしょう?」
ミアは、なぜか勝ち誇ったように笑う。
「私が行けばいいのよね。だって、私が――」
エリックのこめかみが、ぴくりと跳ねた。
言葉にしなくても分かる。
彼女は、この招待状を“舞台”だと思っている。
自分が主役の、華やかなイベントだと。
だが。
エリックの中では、別のものが膨れ上がっていた。
舞台ではない。
これは、判決の前の静けさに似ている。
王が、淡々と告げる。
「……行く」
その一言で、玉座の間の空気が決まった。
拒否は許されない。
それは王も、貴族も、エリックも理解している。
ミアだけが、嬉しそうに息を弾ませた。
「やっぱり! 私が――」
「ミア」
エリックは低く名を呼んだ。
声が、思ったより硬い。
ミアが振り向く。
不満そうに唇を尖らせる。
エリックは笑えなかった。
いや、笑ってはいけない気がした。
なぜなら。
この招待状の向こう側にいる“王”は、礼儀の顔をして刃を隠している。
そういう文面だった。
そして、その王が――
“王妃”を披露する。
胸がざわつく。
理由はまだ言葉にならない。
だが、確実に、嫌な予感だけが輪郭を持っていく。
エリックは、宰相がまとめた決定事項を聞きながら、窓の外を見た。
庭園の噴水が、同じ形で水を落とし続けている。
平和の象徴みたいに。
何も変わらないように。
なのに。
世界は、変わっている。
招待状は祝祭の顔をして、
ハーバル王国の喉元に、静かに刃を当てていた。
そしてエリックは思う。
――俺たちは、何を見落としていた?




