アグナス王国、公爵家誕生準備
その日、砦の空気は、はっきりと変わった。
戦の緊張が抜けきらぬまま、しかし確実に――
次の段階へ移行した空気だった。
鐘が鳴る。
高くもなく、低くもない。
人を集めるための、実務的な音。
「公爵位叙任に関する準備を開始する」
その一言が、通達として回った瞬間。
砦に詰めていた全員が、静かに息を呑んだ。
公爵。
王家の次に位置する、国の柱。
それを新たに立てるということは――
国として、完全に立ち上がる覚悟を示す行為だった。
しかも、その名が。
「――シルヴァ家」
誰もが、知っている名だった。
だが、その“意味”が、今この瞬間に塗り替えられた。
⸻
準備は、異様なほどに速かった。
まず、書記官たちが動く。
古い台帳が引きずり出され、封印されていた記録が開かれる。
「血筋、問題なし」
「資産、問題なし」
「領民、すでに合流済み」
「忠誠、疑いなし」
一項目ずつ、淡々と確認されていく。
議論はない。
反対意見もない。
それが何より、異常だった。
通常、公爵位叙任には――
妬みが出る。
派閥が騒ぐ。
水面下で、必ず足を引く者が現れる。
だが今回は、違った。
「……異論、ありますか」
重鎮の一人が、形式的に問いかける。
返事は、ない。
なぜなら。
誰もが、理解していたからだ。
――この家は、すでに“与えられる側”ではない。
――“国を救った側”だ。
⸻
別室では、別の準備が進んでいた。
紋章職人が、机に向かう。
古いシルヴァ家の紋章を下敷きに、新たな意匠を重ねる。
「……女神の家、か」
誰ともなく、呟く。
口に出してから、はっとして周囲を見る。
だが、誰も否定しなかった。
それどころか。
「今さら否定する方が、無理だな」
「民が先に決めてしまった」
小さな苦笑が、いくつも零れる。
戦場で命を救われた者たち。
強化され、生き残った者たち。
家族を守られた者たち。
彼らにとって、
メイ・シルヴァは“役職”ではない。
象徴だ。
希望だ。
そして――祈りの向く先だ。
だからこそ。
シルヴァ家が、公爵家になる。
それは“昇格”ではなく、追認だった。
⸻
兵舎では、噂が走る。
「公爵家になるらしいぞ」
「当然だろ」
「むしろ、遅いくらいだ」
鎧を外しながら、誰かが言う。
「俺たちは、あの人に生かされた」
「殿下も、あの方がいなければ……」
言葉は、そこで止まる。
続きを言う必要がない。
全員が、知っている。
――王は、女神に選ばれた。
――そして、女神はこの国を選んだ。
その“家”が、国の柱になる。
それ以上に、自然なことがあるだろうか。
⸻
城の奥。
重鎮たちが、最後の確認を行っていた。
「叙任式は、簡略化します」
「民への発表は、段階的に」
「まずは、“シルヴァ家の移動完了”を正式に認める形で」
誰かが、ふと口にする。
「……ハーバル王国は?」
一瞬、空気が張る。
だが、すぐに返答が返った。
「もう、こちらを見ていない」
「見ていたとしても、手は出せない」
「――出せる立場ではない」
淡々とした事実。
交易は、すでに切り替わり始めている。
人の流れも、金の流れも。
ハーバル王国は、気づいた時には――
盤上から外れている。
⸻
こうして。
アグナス王国は、静かに宣言する。
新たな公爵家の誕生。
シルヴァ家を、国の柱として迎える。
戦は終わった。
だが、これは“終わり”ではない。
国が、形を取り戻す音だ。
そして、この準備の中心にいる“本人”は――
まだ、自分がどれほどの場所に立たされているかを、正確には理解していない。
それを知った時。
彼女は、またこう言うだろう。
「……待って? なんで?」
だが、世界はもう、待ってくれない。




