異変察知
最初に気づいたのは、商人だった。
ハーバル王国・王都。
白い石畳が整然と並ぶ中央市場で、いつもなら喧噪に満ちているはずの朝が、どこか静かだった。
「……来ないな」
誰に向けたでもない呟きが、露店の奥で零れる。
香辛料商の男は、木箱を叩きながら眉を寄せた。
遅れている。
いや、遅れているどころではない。
――来ていない。
昨日も。
一昨日も。
アグナス方面からの隊商が、途絶えていた。
「天候か?」
「いや、街道は問題ないはずだ」
「盗賊?」
「それなら、もっと噂が立つ」
小さな違和感が、少しずつ積み重なる。
だがこの時点では、まだ誰も「異常」とは口にしなかった。
それは、王宮でも同じだった。
⸻
王城・執務室。
重厚な扉の向こうで、書類が机に積まれている。
だが、いつもより減りが悪い。
「……こちらも、返事がありません」
官吏の声は、必要以上に慎重だった。
報告書を差し出す指先が、わずかに強張っている。
「どこだ」
「アグナス方面です」
その言葉に、部屋の空気が一段、冷えた。
アグナス王国。
かつて敗戦し、衰退し、助けを求め――
そして、ハーバル王国が切り捨てた国。
「まだ、あそこに期待しているのか?」
第二王子、エリック・ハーバルは、書類から目を上げずに言った。
声音は淡々としている。
「いえ。ただ……」
官吏は言葉を探す。
数字が、妙なのだ。
輸入量。
通貨の流れ。
人の移動。
どれもが、少しずつ、しかし確実に――
ハーバル王国を避けるように動いている。
「偶然だろう」
エリックはそう言って、紙をめくる。
自分に言い聞かせるように。
「戦後の混乱だ。アグナスが何か出来るはずもない」
そうだ。
あの国は、敗けた。
誇りを失い、王を失い、国として“奴隷”のような状態にまで落ちた。
――はずだった。
「……殿下」
官吏の声が、わずかに震える。
「一部の商人が、契約を破棄しています」
「理由は?」
「“方針変更”とだけ」
エリックの指が、止まった。
理由がない。
説明もない。
ただ、切られている。
それは、外交上、最も嫌な兆候だった。
⸻
その頃。
王宮の奥、明るい私室で、ミアは鏡を見ていた。
「……ねぇ」
髪を梳かしながら、気だるげに言う。
「最近さ、外、静かじゃない?」
侍女が一瞬、言葉に詰まる。
「……そう、でしょうか」
「うん。なんていうか……盛り上がってない」
ミアは唇を尖らせた。
この世界は、自分のためにあるはずなのに。
エリックと結ばれ、王妃になる未来。
それが当然の“エンディング”のはずだった。
なのに。
祝福が、少ない。
称賛も、噂も、期待も。
「変よね?」
ミアは鏡越しに、自分の瞳を見る。
桃色の瞳が、不満げに揺れる。
「アグナスなんて、もう終わった国でしょ?」
「メイも、追い出したし」
「全部、ちゃんと片付いたはずなのに」
言い切る声。
だが、どこか落ち着かない。
侍女は黙ったままだ。
――返す言葉が、なかった。
⸻
そして、決定的な報せが届く。
昼過ぎ。
王宮に、外務官が駆け込んできた。
「殿下!」
息を切らし、声を張る。
「アグナス王国より、正式な通達が――」
「通達?」
エリックは、ゆっくり顔を上げた。
紙が差し出される。
封蝋。
見覚えのない紋章。
いや――
見覚えがある。
「……シルヴァ家?」
その名を口にした瞬間、胸の奥が、嫌な音を立てた。
伯爵家。
かつて、婚約者だったメイの実家。
追放の際、何も出来なかった家。
もう、関係のないはずの家。
文面は、簡潔だった。
――今後、シルヴァ家は
――アグナス王国において、正式に身分を移す。
――ハーバル王国との取引は、段階的に終了する。
「……は?」
声が、低く落ちる。
意味が、分からない。
いや、分かりたくない。
「なぜ……今……?」
エリックの視界が、揺れた。
アグナスが、動いている。
しかも、シルヴァ家を伴って。
――ありえない。
あの国に、そんな力が残っているはずがない。
だが。
現実は、否定を許さなかった。
市場は静まり。
商流は変わり。
人は離れ。
そして、正式な“切断”が告げられる。
これは、偶然ではない。
これは。
何かが、根本からひっくり返った兆しだ。
エリックは、初めて強く思った。
――あの時、追放した女は。
――本当に、ただの“邪魔者”だったのか?
答えは、まだ出ない。
だが、空気は、確実に変わっていた。
ハーバル王国は、まだ知らない。
この違和感が、
**取り返しのつかない「終わりの始まり」**だということを。




