兄貴、黙って夜を見張る
夜風が、砦の外壁を撫でていく。
冷たい。
だが、嫌な冷たさじゃない。
頭が冴える温度だ。
俺は、砦の回廊に立っていた。
壁に背を預け、腕を組む。
灯りは最小限。
足音を立てる理由もない。
――静かすぎる夜だ。
戦争の後。
即位式の後。
祝祭前夜。
普通なら、どこかが浮つく。
酒の匂い。
笑い声。
眠れない人間の気配。
だが、今夜は違う。
音が、管理されている。
それを感じ取れるくらいには、俺は長く戦場にいた。
「……」
視線を、奥の扉へ向ける。
あの向こうに、メイがいる。
逃げようとしている。
いや――正確には、逃げようとしていた。
三回。
全部、失敗。
わざと見逃されたわけじゃない。
追い詰められたわけでもない。
もっと、性質が悪い。
逃げる必要そのものを、削られた。
俺は、歯を食いしばった。
「……兄貴失格だな」
小さく、呟く。
誰にも聞こえない声で。
本来なら。
あの子が逃げたいと言ったなら。
俺は、手を引く側だった。
一緒に走る側だった。
昔から、そうだ。
剣を持つ前から。
命を賭ける前から。
――でも。
今は、違う。
俺は、知っている。
メイが、どれだけ無茶をしてきたか。
どれだけ自分を削ってきたか。
どれだけ「誰かのため」を優先してきたか。
そして。
それを、全部、受け止めきれるのが誰かも。
「……あいつさ」
視線を落とす。
石床の冷たさが、靴越しに伝わる。
「……本気だぞ」
王だからじゃない。
即位したからでもない。
あれは。
メイを失いかけて、壊れた男の目だ。
戦場で見た。
時間が止まった瞬間。
世界が裂けた感覚。
あの時のルイは、王じゃなかった。
英雄でもなかった。
ただの――
一人の男だった。
「……勝てねぇよ」
俺は、苦笑する。
剣でなら、勝てる。
腕でも、勝てる。
命のやり取りなら、何度でも。
だが。
あれほどの執念には、割り込めない。
しかも。
メイは、それに気づいてない。
自分がどれだけ特別な位置にいるか。
どれだけ深く、選ばれているか。
「……ほんと、罪な女だ」
遠くで、夜鳥が鳴いた。
低く、短く。
扉の向こうから、音はしない。
だが、分かる。
――眠ってはいない。
あの子は、こういう夜ほど目が冴える。
逃げ道を探す。
考え続ける。
けれど。
今夜は、違う。
探す先に、道がない。
俺は、動かない。
扉の前に立ち続ける。
守るためじゃない。
閉じ込めるためでもない。
境界線になるためだ。
ここから先は、俺の役目じゃない。
ここから先は、あいつの覚悟だ。
「……」
胸の奥が、ちくりと痛む。
もし。
もしも、だ。
メイが泣いて、助けを呼んだら。
それでも、俺は――
「……呼ばれない」
分かっている。
あの子は、そういう時ほど、声を上げない。
だからこそ。
余計に、目を離せない。
俺は、夜を見張る。
剣を抜かず。
命令も出さず。
ただ、そこに立つ。
兄貴として。
護衛として。
そして――
最後に黙る側として。
夜は、静かに更けていく。
逃げ場が消えた夜の、
その外側で。
――俺は、動かない。
レオ




